第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑



      
 なぜか体がひどく重い。  それは単純に疲れているせいなのか、それともこのもやもやとする気持ちのせいなのか。  レイリは普段の背筋の伸びた美しい歩き方ではなく、パンプスの踵を引きる倦怠感を滲ませた歩き方 だった。  昨日の夜はカルロスを待って随分遅くまで起きていた。その上、机に突っ伏して眠るなんて体に無理 な姿勢を長い時間とっていたらしい。  そのせいで体の筋肉が凝り固まってしまったのかもしれない。  でも、とレイリは考えながら、今自分の向かおうとしている場所に、本当は自分が行きたくないと思 っている気がしてならなかった。いつもは駆け足になりそうになりながら向かう場所であるはずなのに。  ローズマリーの家。  カルロスのローズマリーを気遣う言葉が耳に残っていた。  誰かに側にいてほしいと思うはずだと言ったカルロスの優しさに、どうして自分は素直に喜べないの だろうと、さらに自己嫌悪が圧し掛かる。  自分の友だちのことも大事に思ってくれている。それはありそうでなかなかないことのはずだ。  でも、本音を言えばカルロスと共にいる時間が、恋人の自分よりも長いローズマリーに恨み言の一つ でも言ってやりたい。  遊んでいるわけでも、愛を睦んでいるわけでもない。仕事だ。  あの二人なら声をそろえて、その上無表情で、あるいはカルロスなどは不快感すら載せた目で言って くれそうだ。  でもだからこそ、レイリには割り切れないものがあった。  自分には理解できない世界で二人は思いを共有している。自分では踏み込んでいけない世界で、二人 はつながりを持っている。  しかもカルロスの最近の言動を思うと、レイリは以前には持ったことのない嫉妬心を、あろうことか 親友に持ってしまうのだ。  カルロスはローズマリーを一人の人間として、尊敬に値する人物として扱っている。その信念や人格 を尊重して受け入れている。  対して自分には、優しいが、弱いものを守ろうとする庇護欲が全面に出ていて、こちらの意志を聞こ うともしないところがある。黙って笑顔で従うことだけを期待しているのだと、時折漂う空気の中から チリチリと肌が感じ取る。  もちろん歯向かったことなど一度もない。言い争ったこともない。  そのせいかもしれない。カルロスの中でのレイリ像が、従順で大人しく、守らなければならない弱い 存在になっているのかもしれない。  だが最初に好きになったのがレイリの方で、明らかに自分よりも恋にも大人としての振舞いも手馴れ ているカルロスに、意見するなどとても考えられなかった。自分とは意見を異にしていたとしても、自 分よりも賢く大人なカルロスの方が正しいに違いないと思って来た。  自分を大事に抱きしめ、守ってくれるカルロスの腕の中で甘えていることは確かに心地よかった。解 放した自分を全て受け止めてくれる彼が、誇らしくて、同時にだからこそ通じ合えている気がしていた。  でも、その間にローズマリーという存在が現れた時、自分の持っていた立場が地に足の着かない不安 定なものであった気がしてきたのだ。精神的に尊敬という絆を持っている二人に対して、自分とカルロ スの間にあるのは体の繋がりだけ。  ローズマリーがカルロスの生涯をかけると決めている研究における大事なパートナーだとしたら、自 分はただの欲望のはけ口なのか。  そこまで考えてレイリは立ち止ると、顔を上げてため息をついた。  上げた視線の先ではどこまでも澄んで青い空が広がり、勝手に淀んで黒く沈んでいく自分を笑ってい る。そんな必要はないのよと、心の中に温かな手を伸ばしてくれる太陽の光があり、うな垂れる頬を撫 でてくれる母の手のような風が通り過ぎていく。  自分で自分を貶めるのは止めておこう。  すぐそこに見えてきたローズマリーとジャスティスの家を見上げ、自分の手を頬に当てると、下がっ ている口角や皺のよった眉間を伸ばして笑顔を作る。  カルロスはレイリにとって大切な存在だったが、ローズマリーもずっと側にいてほしい大事な友達だ った。ともに歩んできた時間も思い出も、宝物として自分の胸の中に確かに存在しているのだ。それを 放り出すようなことはしたくない。  レイリはローズマリーの家のポーチに立って目を瞑ると、強く息を吐き出して嫌な考えを全て流し去 った。そして笑顔を作ると足を踏み出した。  コツコツとなるレンガ敷きのポーチを歩いていく。  玄関の呼び鈴を鳴らそうと手を伸ばす。  だがそこで声をかける存在があった。 「あれ? レイリ?」  庭の方から顔を覗かせたのはフェイだった。 「フェイ……来てたの」  予想もしていなかった人物の出迎えに、レイリは毒気を抜かれる思いでフェイの顔を見上げた。  腕まくりして軍手をはめ、顔に細かい砂が飛んでいる。  庭で野良仕事でもしてきたような風体だったが、それがフェイにはよくに合っていた。 「何してたの?」  レイリは庭にローズマリーもいるのかと覗き込んだが、姿も声もなかった。 「マリーならいないよ。ジャスティスも。二人が懇意にしている病院に入院中の女の子の容態が急変し たとかで、出かけたよ」 「そう」  返事をしながら、ならここでフェイは一体何をしていのだろうと首を傾げる。  しかもなんだかレイリに庭に入ってもらいたくない雰囲気が仁王立ちして立ちはだかる全身から漂っ ている。  もう一度庭を覗き込もうとするレイリの視界を遮るように、フェイが肩を移動させる。  それにお互いが感づいていることが、目を合わせた瞬間に通じ、二人でニヘラと笑った後で気まずく 目を反らす。 「……庭になにかあるの?」  レイリがかすかに見えた範囲では、段ボール箱が一つ庭の片隅に置かれていて、その前に大きなシャ ベルが地面に突き刺して立てられていた。 「あーー、うん。ちょっとね。あんまりレイリは得意じゃないと思う物が」  その言い方と、そこにある物と地面に掘られた穴に、レイリは一瞬で連想してハっと目を見開く。 「まさか死体?」  言いながらフェイと距離を取る様に後退さる。  予想通りとはいえ、あからさまなそのレイリの態度に、フェイは苦笑を浮かべつつ頭を掻いた。 「別に俺が殺したんじゃないし、もちろん人間じゃないよ」  怯えた風なレイリを宥めるように言うと、庭へと戻りつつ、レイリに振り返って尋ねる。 「見る?」  それに瞬間的に答えが出ずに立ち尽くすレイリだったが、さっさと庭に入っていってしまうフェイに 置いていかれた気がして後を追う。  フェイは何も言わずにシャベルを地面から抜くと、掘り始めた穴を深く大きくしていく。 「何の死体?」  レイリはとても自分ではダンボールの中を確認する気持ちにはなれず、少し離れたところで足を止め ると尋ねる。 「ウサギ。でも見ても分からないかも。もう焼却した後だから。伝染病に掛かって死んだ動物だから焼 却処分しないといけないって研究所の連中に言われて、仕方ないから骨だけもらってきた」 「研究所?」  それがおそらくカルロスの父親の研究所であろうと分かったレイリが尋ね返す。  カルロスとローズマリーなら研究所という言葉を口にしてもおかしくはないが、フェイには全く畑違 いのはずだ。 「ああ。今日の朝、研究所に来てくれってローズマリーに呼ばれてね。そういえばレイリの彼氏もいた ど」  そのフェイの言い方で、フェイがカルロスのことをよく思っていないのがレイリには分かった。それ があのハイキングの時にあったのか、それとも今日の朝の出来事によるのかは分からなかったが。そし てそれが、カルロスという個人の人格に起因するのか、それとも自分の恋人のローズマリーとの関わり において、自分と同じようにわだかまりを抱えているのか。  だが穴を掘りながら地面にシャベルを突き立てる姿をいくら見えいても、それ以上のことは感じ取る ことができなかった。 「研究所で何かあったみたいだけど、フェイは知ってるの?」  レイリも少し事態を把握していると理解したフェイが、顔を上げるとタオルで額に浮いた汗を拭きな がら頷く。 「カルロスにもう会った?」 「ええ。でもきちんと聞く前に研究所に呼び出されて戻ってしまったから」  それに頷いたフェイが、やっぱりそうなったかと納得した顔でダンボールに目を向けた。 「その中味のウサギをつかって、カルロスとローズマリーがある実験をしていたらしいんだ。なんだっ け……ポンペ病? とかいう病気の子どものクスリをこのウサギが作ってくれるんだとか言ってたな。 でも、そのウサギは人間の遺伝子を導入されているせいで、インフルエンザにかかってしまったんだっ て。それで昨日一晩緊急に処置が始まったみたいなんだけど、ほとんど助からなかった」 「その死んでしまったウサギの死体?」 「っていうか、骨」  フェイがダンボールを腕に抱えると、穴の上に逆さまにする。  黒い土の上にカタカタと高い音を立てて滑り落ちてきたかなりの量の骨は、真っ白で小さく、言われ なければウサギであったなどとは思えなかった。 「こんな骨になっちゃえば、どう扱われようがウサギも文句言わないだろうけどさ、ローズマリーが丁 重に葬ってあげたいって言ってたし、俺もその方が気持ち的に整理がつくから、ここに埋めようと思っ てね」  フェイはそう言って再びシャベルを手に取ると、今度は土を穴の中に返していく。  真っ白な骨の上に土が掛かり、かつて生きていたものが物へと変化していくための儀式を見ているよ うな、複雑な気持ちがレイリの中で沸き起こる。 「レイリ、足元のそれ取ってくれる?」  ふいに名前を呼ばれ、レイリは自分の足元を見下ろした。そしてそこに球根があるのに気付く。 「一緒に埋めるの?」 「うん。……今度は花になって生まれてくれればいいなぁとかね」  照れくさそうに言うフェイに微笑みかけ、レイリが半分土で埋まった穴へと近づき、しゃがみこむと、 その中央に球根を置いていく。  土の上に置いた球根を転ばぬように少し押すと、手にその下にある骨の感触が伝わってくる。  でも、もう怖くも気持ちが悪くもなかった。ただ、人間のために散っていった命を思って、感謝と懺 悔に似た思いを持った。  四つ並んだ球根。それが来年の春にどんな花になって再び生まれてくるのだろう。  ザッと音を立てて土が放り込まれ、球根も見えなくなる。 「長い耳の生えたチューリップになって生まれてきてもいいぞ」  最後の土をかけ、その上をトントンと叩きながら、フェイが言うのを聞きながら、レイリも一緒にな って素手で土を叩いた。眠る赤ん坊をあやす母親のように。ゆっくり眠ってねと声をかけながら。
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