第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑



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 どっぷりと泥沼の底にはまり込んでいた意識が、不意に覚醒へと引き立てられ、飛び起きる。  クラリと回った視界に頭を抱え、予告なしの急発進で唸りを上げたモーターのように、心臓が体の中 でドクドクと音を立てて踊り狂う。  白いシーツと汗に濡れた自分の腹が見える。  自分の部屋だ。  俺はどうしてこんなになっているんだ?  目も開けられない眩暈に翻弄されていたカルロスは、自分の肩を掴む手に揺すられる。 「カルロス。どうしたの? 具合でも悪いの?」  レイリの声だ。  だがその声と一緒に聞こえるのは、ヒステリックな止めてくれと叫びたくなるような電子音だった。  キンキンと頭に響くその音に目を向け、カルロスはその正体を知って手を差し出した。  電話が鳴っていた。カルロスの携帯だ。  父親からの電話であることは携帯の着信音で分かっていた。研究所からの電話は聞き逃さないように、 甲高い電話のベルの音に設定していたのだ。 「大丈夫だ。電話を貸して」  頭を覆ったままで言ったカルロスに、レイリはベッドに腰を掛けてカルロスの顔色を窺うようにして 電話を渡す。  それにもう一度目で大丈夫だと示すと、部屋を出て行ってくれるように手で示す。  その間もヒステリックにしつこく鳴り続ける電話のベルの音に、音を上げたようにレイリが部屋を出 て行く。  レイリの背中を見送り、カルロスは電話の通話ボタンを押した。 「はい」 「今どこにいる!」  開口一番から耳をつんざくような怒鳴り声が携帯から鳴り響く。  それに一瞬顔をしかめたカルロスは、一呼吸おく。 「今は自宅です」 「今すぐに研究所に来い! どういうことか説明しろ! わしはおまえを見込んでトランスジェニック ウサギの調達を頼んだんだぞ。それがどういうことだ。全滅だと? 何をどうやったらそんな結果にな るんだ! わしを納得させる説明をしてみせろ!」  反論したいことは山のようにあったが、頭に血の上った状態の今の所長にいったところで、聞く耳は もたないだろう。説明するためのデーターもない。 「すぐに行きます」 「わしの脳の血管がブチ切れて倒れる前に来い!」  ガチャンと音も荒く下ろされた受話器の音がダイレクトにカルロスの耳を直撃する。 「お怒りだな」  予想通りの展開だったが、予想していたことで気が晴れるわけではない。  起き抜けのアドレナリン過剰をさらに加速させてくれた父親の怒鳴り声に、カルロスはため息をつい た。  時計を見れば午前8時を回ったところだった。  幾分は眠れたようだが、体の芯の部分で燻る鈍痛に似た疲れは消えていない。それでも、報告する義 務は待ってはくれない。  ベッドから抜け出したカルロスは、ボサボサになった髪を掻きながらバスルームへと入る。  頭から熱い湯を浴びて眠気を覚まさなければならない。それから、数時間後に始まる戦いともいえる 長期戦のための英気を養わなければ。  全身にかいていた汗を流し、さらに体が温まるまでシャワーにあたっていたカルロスは、バスローブ を羽織ってリビングへと出て行く。  そこには朝食の用意をするレイリの姿があった。  幾分不機嫌そうではあるが、甲斐甲斐しくカルロスのために焼く世話を楽しんでいるようだった。  水道から出た水でレタスを洗う姿を、タオルで髪を拭いながら眺める。  朝の斜めに射す光の反射が煌めく水とレタスとレイリの手が、黙って眺めていたくなるくらいに美し かった。 「昨日はどうしたの? 何か問題でも起こったの?」  じっと自分を見つめるカルロスに気付いたように、顔を上げたレイリが言う。  拗ねた口調を演じて言うレイリに、カルロスはキッチンに入ってレイリの後ろに立つとその背中を抱 きしめた。 「なに?」  腕の中にすっぽりと入ってしまうレイリが、くすぐったそうに身じろぎする。 「今からトマト切るの。危ないよ」  レイリがナイフを手にとるのを見て、カルロスはトマトに負けたかとため息をつき、レイリの後ろか ら離れるとリビングのソファーに座った。 「昨日は悪かったな。帰り際に問題が起きて、一晩処理に追われてた」 「うまく片付いた?」  小さなボールに盛り分けたサラダを運びながら、レイリが尋ねる。 「いや。結果は最悪。今も所長からの怒りの電話だ。すぐに研究所に戻らないと」 「さっき帰ってきたばかりなのに?」  顔をしかめて言うレイリに、カルロスはトマトをつまみながら溜め気をつきながら頷く。  だがレイリのその言い分が、自分の疲れた体を気遣ってというよりは、自分の予定が崩れることへの 不満に聞こえた。もちろん、自分を気遣ってもいるのだろうが、比重はどちらかといえば、一緒にいら れないことへの不満に感じた。 「今日は休み?」 「うん。……じゃ、今日も帰りは遅いの? 夕飯でも用意して待ってようかと思ったんだけど」  そういえば昨夜冷蔵庫の中で見た食材の数々を思い出し、昨日の予定を今日にと思っていたのだろう と気付く。  自分と過ごす時間を楽しみにしてくれて、その上自分に尽くしてくれることに感謝や嬉しさを感じる が、今はそれに構っている余裕はない。 「悪い。今日も何時帰れるか分からない。待っていても時間の無駄だ」  言い捨てるカルロスの口調に、ふくれる女の子の顔そのものになったレイリだったが、それでもコー ヒーやらトーストやらサニーサイドアップなどを運んでくる。 「そうだ。もし暇ならローズマリーに会いに行ってくれ」 「ローズマリーに?」  不意にでた親友の名前に、レイリが首を傾げる。 「ああ。昨日の夜はローズマリーも一緒に徹夜の作業だったんだ。どっちかって言えば、俺よりも彼女 の方が必死に動き回っていたから、疲れているかもしれない」 「だったら、休ませて上げた方がいいんじゃない?」  カルロスの隣りに座ってグラスに注いだオレンジジュースを飲むレイリが、黙々と食事を続けるカル ロスに言う。 「ただの仕事ならな。でも今回は精神的に大きなプレッシャーに晒されたと思う。きっと誰かに側にい て欲しいと思うかもしれないから」 「………わかったわ」  レイリはそう言うと、ジュースも飲みかけのままにソファーから立ち上がった。  レイリの声は、いつものそれよりも硬く冷たいものに感じられた。  だがそんな感じがして顔を上げたときには、レイリはすでにキッチンに入り込んでいて顔を見ること ができなかった。  カウンターの向こうで影になって見えたレイリの姿が、俯いて流しを眺めていた。  だが、これから研究所での事後処理の手順や所長への報告事項を考え、今口の中で咀嚼しているもの の味さえ分からないほどに、精神的に切羽詰っていたカルロスの耳には、聞こえていない音があった。  レイリが飲みかけのオレンジジュースをピクリと震える眉を感じながら、無表情で流しの中に捨てて いた。  黄色い流れとなって流れていくオレンジジュースを、レイリはじっと見下ろしていた。
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