第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑



 病院についたジャスティスは、再びアンネが入ることになった無菌室の前で立ち尽くしていた。  忙しそうに歩き回る看護師たちが後ろを通り過ぎていく。そのたびに、きつい消毒薬の匂いが鼻につ く。胸の奥に宿る怖気づいた気持ちや幻想でもいいと縋る希望すらも、焼き尽くして消し去ってしまう ような匂い。  焦燥に胸がこげるのに、足はなえてしまう。  きっと目の前の閉じた扉の向こうで、アンネもアンネの母も命の戦いを必死でしているのだろう。  当たり前の息をし続けるという命のか細い糸を手に巻きつけようと、その頼りなさに失望したり、あ るいはその感触を感じる安堵にすがりながら。  何度目かのカラカラと音を立てて後ろを通過していく看護師のカートの音に、ジャスティスは意を決 するとドアの前に立った。  空気の流れを調整している隔離室に入るために、自動ドアの横のボタンを足で押す。そうすることで ドアが開く。  流れ出す空気が風となってジャスティスの体を通り過ぎていく。  その風に目を細めたジャスティスだったが、背後でドアが閉まって風が収まり、後ろへと吹き上げら れていた髪が元に戻ったところで意識して目に力を込めた。  このあと何を目にしようと、がんばるアンネを憐れんだり可哀相だと思うことは決してしない。一緒 にがんばる力を与えられる存在であろう。  ジャスティスはアンネが眠る部屋の前まで歩いていくと、ガラス張りの室内を覗いた。  人工的な蛍光灯の青白い光の中で、アンネがベッドの上で横たわっていた。  目が開いている。じっと放心した力のこもらない瞳が天井を見つめていた。  母親は疲れているのだろう。イスに座ったままアンネの布団の上に顔を伏せて眠っていた。無菌にす るための防護服の青白いエプロンと帽子、大きなマスクに覆われた顔。眠っていても疲れが滲む隈の浮 いた目元。その母親を慰めるように、アンネはその母と手をつないでいた。  わたしはちゃんと生きているよ。そうできうる限る伝えるためであるように、眠っている母親の人差 し指と中指を握っている。  そのアンネが部屋の外の気配を感じたように、ゆっくりと首を傾けた。  世界がスローモーションに変わってしまったのかと思うほどに、重たげに自分の頭を巡らせたアンネ が、ジャスティスの姿を認めてゆっくりと瞬きする。  そして微笑んだ。  口元がわずかに動き、言葉を紡ぐ。 ―― わたしのナイトが来てくれた。だから大丈夫。  強張る顔を騙しながら、ジャスティスはアンネに微笑みかけた。  アンネが穏かな顔でいられたのは、それからほんの数分のことだった。  すぐに顔が歪み、痛みで体を丸め、それでも堪えられないためにベッドの上で体が跳ねる。  すぐにそれに気付いた母親が寝ていた頭を条件反射のように起すと、ナースコールを押す。そして必 死の形相で苦しむアンネを押さえ、その背中や頭を抱えるようにして撫でる。 「大丈夫だよ、アンネ。大丈夫。大丈夫だから」  もう他に出てくる言葉がないのだろう。  涙はすでに枯れたのか、あるいは封印したのか、不安がる子どもを宥める余裕にさえ見える声で語り 続ける。  ジャスティスの背後にトレーを押した看護師がやってくると、無菌室の中に入り、カーテンをサッと 閉める。  目の前でアンネと自分をつなぐ唯一の視界を遮断され、何もできない無力感を改めて強く感じさせら れ、ジャスティスはベンチに腰掛けて頭を覆った。  自分にはただ苦しむアンネの姿を眺め、心の中でがんばれと呟くことしかできない。そのがんばれと いう言葉さえ、アンネには余計なものかもしれない。アンネはもう十分にがんばっているのだから。  身内でもないジャスティスは、ただ見ていることしかできない。中に入って手を握ってやることもで きない。  姉さんだったら、こんなときなにをするのだろう。どんな顔をするのだろう。  ジャスティスはベンチから立ち上がると、病院の公衆電話を手に取った。  コールの音が鳴り続ける。  お願い、姉さん、出てよ。  自分一人では堪えられない重苦しい空気に、ジャスティスは側で一緒に堪えてくれる手を求めていた。 ローズマリーなら、それを一身に受けたとしても、堪え抜くことができただろうと思うと、黙って堪え ることすらできない自分が情けなかったが、今はそんなプライドよりも逃げたいという思いのほうが強 かった。  だがローズマリーの携帯は無情にも留守番話のメッセージに変わってしまう。 「なんでだよ。どこで何してるんだよ」  泣き言が口から漏れ、次の番号を慌てて指で押す。  他に頼れる相手と言ったら、フェイくらいだ。  アンネとは何の関係もない彼を巻き込むことに、いったいどんな言い訳が立つのだろうと思ったが、 そんな愚をおかしてでも誰かに側にいて欲しかった。 「はい」  電話の向こうでフェイの声が出る。少なくとも寝ていた風ではないしっかりした声に、ジャスティス はホッと息をついた。 「フェイ。お願いがあるんだ。病院に来て」 「病院?」  なんの脈略もなく出た病院と言う言葉に、フェイの声が探るような低い声になる。 「おまえ、怪我か病気でもしたのか?」 「ううん、ぼくじゃなくて」  だがそう言い始めた瞬間、フェイの携帯がガサゴソと大きな音を立てた。  荒々しく扱われて不快な音を立てる携帯に、耳を離して顔をしかめたジャスティスだったが、続いて 聞こえてきた声に深い安堵を覚えた。 「ジャスティス、病院ってどういうこと?」  勢いのいい姉の声に、ジャスティスの緊張していた神経が緩み、潤んでくる目元に涙を堪える。 「姉さん、ぼくじゃないよ。アンネだ」 「アンネ?」  それまでも十分に切羽詰まったものであったが、それ以上にローズマリーの声が硬くなり、息を飲む 空気感が電話の向こうから伝わってきた。  ジャスティスの震える声と、朝のこんな時間に呼び出される病院。それで感づけないほど鈍感な人間 ではなかった。 「アンネがどうしたの?」  祈るように、だが現実を受け入れようと覚悟を決めた声で、ローズマリーが問い掛ける。  それに、ジャスティスは震える声を抑えると、短く言った。 「拒絶反応が出た。……今もすごい苦しんでて……呼ばれたけど、ぼくじゃなにもできなくて」  頬を零れた涙に唇を噛みしめる。  電話の向こうが沈黙していた。  姉さん、何か言って。何をしたらいいのか教えて。  心の中で必死に懇願し待つ数秒は、あまりに長く、心臓を握りつぶそうとしている恐怖の手を、ジャ スティスは体の中にまざまざと感じさせられた。 「姉さん?」  耐え切れなくなって呟く声に、ため息が聞こえる。 「わかった。すぐに行く。待ってて」 「うん」  やっと見つかった救いの手に、涙を拭ってジャスティスが電話から離れた。  そして廊下の向こうで自分を待っているアンネの母の姿を見つけ、俯きながら頭を下げた。  自分が泣いている姿など、決して見せてはならない。泣きたいのは彼女の方なのだから。  ジャスティスは強張った顔で、潤む瞳を閉じて意志で涙を押さえ込むと、小さく息をついた。  演技でもいい。どうかローズマリーが来てくれるまで、アンネやその母を支えるナイトに相応しく振 舞えますように。  ジャスティスは祈った。
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