第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を





 飼育室の除菌作業を行い、さらに紫外線による殺菌のための設置を行ったローズマリーは、隔離室に
移動させたトランスジェニックのウサギのもとへと急いだ。
 ウサギたちを待つ子どもたちのことを思うと、失敗は絶対に許されない。
 だがらこそ、ウサギたちには細心の注意を払ってきたのだが、ここに来て僅かなミスでその全てが無
駄になるような事態だけは避けたかった。
 スライドドアの動きをいつもよりもどかしく感じながら、ローズマリーが部屋の中に入る。
 目で見た観察範囲では、ウサギたちの様子に変わったところはない。
 鼻水を出したり咳き込んだりするものもいないし、耳が赤く発熱して色づいているようすもない。
 だが、やはりこのウサギたちがトランスジェニックによって生まれているというのが問題になってく
るのだ。
 人為的に人間の遺伝子を組み込まれている。
 人間とウサギ。自然界であれば決して交わることのない遺伝子同士を組み合わせるために、遺伝子の
もつ絶対的防衛線を強引にこじ開けているのがトランスジェニック動物なのだ。
 本来であれば決して取り入れられるはずのない遺伝子を、突然変異によって取り込んでしまう可能性
が高いのだ。
 それによって予想を越えた事態を巻き起こす可能性は多分にある。
 遺伝子という未知の物体を扱っているだけに、その先にあるものかもしれない災厄も見通すことがで
きない。それが現在でもいえる遺伝子に関する科学の限界でもあった。
 未知のものを、目隠しをしたまま振り回して使い、運良くいい結果が訪れることを盲目に信じて失敗
には目を瞑る。そんな現状であることを、ローズマリーは改めて実感して恐怖を感じた。
 未知だからこそ、そこに新たな世界が広がる可能性がある。だが、同時に、自分たちの力の限度をわ
きまえない、不健全な好奇心が世界の崩壊をもたらす引き金を引くかもしれない暗部が横たわっている。
 目の前で鼻をヒクヒクと動かす可愛らしい生き物も、考えようによっては、その自分たちの好奇心の
犠牲だともいえた。なぜかといえば、トランスジェニック動物の命は概して短命だと決まっているから
だ。
「ごめんね。でも、やっぱりわたしはできることなら、あの子たちを助けてあげたい。それは同じ人間
というDNAを持った者同士を愛してしまうエゴなのかもしれないけれど」
 ローズマリーが呟いた。
 その背後で大きく開いたドアから、一人の白衣を着た研究員が入ってくる。
 ローズマリーが今までに話したことのある研究員ではなかったが、何度か廊下ですれ違ったことがあ
る程度には見知った男であった。
 その男が気まずそうな顔で合わせた目を反らし、それからローズマリーの背後のウサギをチラリと見
る。
「なにか?」
 自分に声をかけようとしている雰囲気でいながら、怖気づいたように足踏みを繰り返す男にローズマ
リーが声をかける。
 それに顔を上げて「あ」と声をもらした男が、額に浮いた汗をポケットに丸め込まれていたハンカチ
で拭って一歩ローズマリーに近づく。
「あの、ちょっと聞いたんだけど、なんかトランスジェニックのウサギのことで問題があったんだって
?」
 明らかに挙動不審で落ち着かない様子の男に、ローズマリーが不信の目を向けながらも頷く。
「ええ。どこかのウサギが紛れ込んでいて。どうもそのウサギの様子がおかしかったから念のために感
染症なんかが起こらないように隔離処置を取ったところです」
「あ、そう」
 大げさなくらいに大きく頷いて体を揺する男だったが、ローズマリーの口から感染症という言葉が出
たときに、目を反らして肩に力を込めると自分を落ち着けるためか、大きくため息をついた。
「なにか問題が?」
 聞かずとも大きな問題がある予感を漂わせる男に、ローズマリーは苛立ちを抑えながら尋ねる。
 それに対して、男は突然に腕にファイルを抱えたままで、髪を掻き毟るように頭を抱えた。
「まずいよな。カルロスがかかわってんだろう。どうしよう。ばれたら俺の首なんか簡単に飛ぶよな。
なんでこんなことになんだよ。俺のせいじゃないよ。あんなところに見学の学生なんかを連れてくるか
ら」
 言い逃れを今から準備するしているかのように、独り言を呟く男にローズマリーが声を荒げた。
「何を言っているんですか。はっきりしてください。問題があるのなら、早急に手を打たなければなら
ないはずです。そうでしょう。ぐずぐずしているだけ、事態は最悪に向かって進むだけですから」
 その言葉に気圧された様子で一歩後退さった男が、ローズマリーを見上げて涙目で告げる。
「うちのグループの使っていたウサギが一匹見当たらないんだ」
 それがあの、紛れ込んでいたウサギに違いない。
 そう確信したローズマリーが男の両肩を握る。
「そのウサギにしていた実験は?」
 瞳孔が揺れ動く男の顔を見つめてローズマリーが問い詰める。
 それに震える声で男が告げる。
「あんたちと同じにトランスジェニックしたんだ。ベクターにアデノウイルスを使って。……でもいな
くなってから分かったんだ。あのウサギは感染してる。アデノウイルスが活性してたんだ。インフルエ
ンザにかかってる。人間の遺伝子が入っているから、インフルエンザにもかかるんだよ」


 ローズマリーは男を突き飛ばすようにして部屋を飛び出すと、カルロスのいる部屋に向かって駆け出
した。
 なんでよりにもよって、この時期にそんな失敗が起こらなくてはならないの。いや、だからこそなの
かもしれない。
 物事とは最悪の事態に向かって転がっていく。マフィーの法則のように。
「カルロス!」
 実験室にいるカルロスを見つけてローズマリーが駆け寄る。
 カルロスはウサギから取った粘液を白いチューブ状のエスプラインにのせ、薬液を垂らして反応を見
ている。
 それが何の反応を見ているのかが分かったローズマリーは、出しかけていた言葉を飲み込んで、薬液
の色が変化していく様子を見守った。
 やがてそこに陽性を示す赤いラインが出てくるのを見たローズマリーが震える息を漏らした。
「そのインフルエンザに感染しているウサギの持ち主が現れたわ。きっとあの子たちも感染している。
……どうしたらいい?」
 インフルエンザでは抗生剤は気かない。細菌ではなくウイルスだからだ。
 ウイルスに対抗しうるのは、自己免疫のみ。
 だからこそウサギたちにはインフルエンザに対抗する術がない。もともとウサギには感染しえない病
気だけに抗体を持っていない。一気に重篤化する。
 ローズマリーが見守る中で、カルロスがインフルエンザの陽性を告げるエスプラインが握りつぶす。
「……できることはない。あとはウサギの生命力にかけるしかない。熱を抑え、脱水にならないように
見守って栄養剤を投与して。……そんなことぐらいしか」
 人間には耐えられるかもしれないことも、あの小さな体ではどこまでもつか……。
 ローズマリーも体の底から湧きあがる重苦しい無力感に襲われながら、それでも投げ出したらそこで
全てが終わりなのだと動き出す。
「点滴の確保をしてくる」
 うな垂れるカルロスに向かってローズマリーが呟いた。
 だがそれに返される返事がなかった。
「カルロス?」
 失望に暗い目をしたカルロスの目が、暗い光を灯してぎらついていた。
「どうせ無駄だ。やったところでどれだけの個体が生き残る。……どこのバカだ。俺の足を引っ張るこ
としかできない無能な奴は」
 呪いを吐くようにして言うカルロスに、ローズマリーが足を止める。
「助けたところでケチがつく。ただの実験動物とは違うんだ。インフルエンザに感染したウサギで作っ
たクスリなんて受け入れられるか? ……ありえない」
 今にも実験は失敗。ウサギたちは破棄と言い出しかねないカロルスの様子に、ローズマリーは足を戻
すとうな垂れたカルロスの肩を掴んだ。そしてその力に、顔を上げたカルロスの頬を平手で殴り飛ばし
た。
 パンといい音を立てたカルロスの頬が赤く染まる。
 女に頬を張られた衝撃に目を見開くカルロスに、ローズマリーが眉間に皺を寄せた怒りの形相で低い
声で静かに言う。
「泣き言はレイリの胸でだけ言って。わたしは聞きたくない。できることもせずに、ほんの少しケチが
ついたからっておもちゃを放り出して泣く、わがままな子どもみたいなことは止めてくれる?」
 息も継がずに言い切ったローズマリーが踵を返すと部屋を出て行こうとする。
「あなたがやらないなら、わたしが一人でやる。反省はそのあとでする」
 ダンと強い力で締められたドアの音が響いた。



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