第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を



     
 研究室に足を踏み入れたローズマリーは、ドアの向こう側に見えたカルロスの頭に顔を赤くした。  向こうがまだ自分の存在に気付いていないことに安堵し、そそくさと自分の机に向かう。  あのキャンプの夜、集合時間に遅れてきた二人の姿は、今まで何をしていたのか誰の目にも明らかだ った。  あまりに激しかったのか、ぐったりとしたレイリは自分では立っていられない状態でカルロスに抱き かかえられているし、そのカルロスの首や肌蹴られたままのシャツの胸元には無数の紫色の斑が浮んで いるはで、目のやり場に困るような状態だった。  ちょっと疲れてるから運転は後に回してくれというカルロスに頷き、帰りの車はフェイが運転し、助 手席にはローズマリーが座って帰ってきたのだ。  最初は二人の様子にあてられた感のあったジャスティスとレイチェルだったが、あてられ過ぎたのか、 かえってぎこちなく身を離して座ったジャスティスとレイチェルも数十分後には疲れて眠りにつき、レ イリを抱きしめたカルロスもすっかりと寝入っていた。  あのときの車の中で起きていなければならなかったローズマリーとフェイは、しばらく口もきけずに 沈黙の中で車に揺すられていたのだった。 「まったくもう」  今はきっちりと白衣を着こんで生真面目な顔で顕微鏡を覗いているが、なんとなく顔を合わせづらい。  大人なのだし、恋人同士のカルロスとレイリが何をしようが構わないと思いつつも、文句が出てしま う。  いやいや、仕事に神経を集中しなければ。  ローズマリーは自分にそう言い聞かせると、手元のファイルを開いた。 ―― ウサギたちの成長も順調、順調  ローズマリーとカルロスの二人が揃って休んだこともあって、二日間ほどウサギの世話を他の研究員 に頼んでいたのだが、その間もしっかりと管理してもらえていた様子で、一匹づつの体重、身長の数値 も記入されていた。  だが、その記入の欄外になぜかもう一匹分の記入がある。  なぜ?  疑問に思ったローズマリーが二ページに渡るデーターの個体数を数えて首を傾げる。  明らかにこの欄外の一匹分だけ数が多い。  トランスジェニックしたウサギは皆メスで、そのうち繁殖をおこなって妊娠させるわけだが、まだそ の次期ではないはずだ。  ファイルから顔を上げたローズマリーは、カルロスのいるデスクに向かった。  カルロスはなにやら真剣にノートへの書き込みと数式を用いた計算を繰り返している。 「カルロス」  熱中しているところを悪いとは思いつつも声をかけたローズマリーだったが、当のカルロスは本気で 自分の脳内だけの世界に入り込んでしまっていたらしく返事をしない。  どうやらマウスの血液検査の結果を見ているようだが、目を皿のようにして数値を見る姿は、芳しく ない結果のようだ。 「ねぇ、カルロス」  トンと肩に軽く手を置くと、飛び上がるようにビクっと体を竦めたカルロスが顔を上げる。 「ごめんなさい、びっくりさせるつもりは……」 「いや、構わない」  本気でびっくりしたらしいカルロスが、今見ていた血液検査のデーターごとファイルを閉じると、ロ ーズマリーを見上げて目を瞬く。 「随分と思い入れのある実験か何か?」 「あ、ああ。まぁ、俺が個人的に取り組んでいる課題で………」  あまり触れて欲しくないらしい曖昧な答えに、ローズマリーは肩をすくめたが、用事を思い出してフ ァイルを差し出した。 「ちょっと気になることがあるんだけど」  先ほど見ていたページを示してカルロスに差し出すと、受け取ったカルロスが怪訝な顔で目を通して いく。 「……この欄外はなんだ?」  やはり同じところに気付いたらしく、カルロスがローズマリーを見上げて眉間の皺を深くする。 「わたしもそこが聞きたくて来たのよ。トランスジェニックのウサギは全部で五十体。でもここのデー タには五十一体いるのよ」 「そんなはずはない」  確かにそんなはずはないのだ。だが、ただの数え間違いだと無視することもできない。丁寧に体 重・身長・食事の内容も書き込まれているということは、確かにそれが飼育ケージにいるということな のだから。 「……見に行こう」  カルロスが席を立つのについて、ローズマリーもその後に続く。  二人がピクニックのための休暇に入る前、ウサギの飼育室に入ったのはおそらくローズマリーが最後 だ。そのときは確かに数があっていたはずだ。  飼育室に入ってすぐに飼育記録のノートを手にとるが、やはりそこにはローズマリーの字で記録が残 っている。そして記録の個体数も五十だ。 「トランスジェニックしたウサギのタグを調べてくれ」  カルロスが指示するのに頷き、ローズマリーが左から、カルロスが右のケージからチェックを始める。  ここでは複数の実験に使われているウサギ(無菌のもの)がケージで分けて収容されている。そして それぞれの区別は耳につけたタグで行っているのだ。  タグにはどの研究に使用されているのか、性別、識別番号が記されている。  その一つ一つをチェックしていくうちに、一匹、タグの色が違うものが紛れ込んでいるのを見つけた。 「いた」  ローズマリーの声に、カルロスが見ていたケージを閉めてやってくる。  ケージの隅でおとなしくうずくまって、やってきた二人に警戒心をもった様子で横目であたりを窺っ ている茶色のウサギ。  カルロスとローズマリーの担当していたウサギのタグがブルーに塗られているのに対して、紺のタグ がついているウサギがそこにいた。 「全く誰がこいつを連れ込んだ」  手袋をはめていない手を伸ばしてウサギを捕まえようとしたカルロスだったが、その手をローズマリ ーに掴まれ、動きを止めた。  そしてすぐ横にあるその顔を見て尋ねる。 「どうした?」  だがその横顔が真剣な目でウサギを凝視している。 「ねぇ、このウサギ、おかしくない?」  そう言われて改めてウサギを観察したカロルスは、そのウサギの首が僅かに傾いていることに気付い た。しかもその首を一歩動くたびにグラグラと揺するようにしてまわしている。 「涙と鼻水も出てる。耳の付け根の辺に赤い斑点が見えない?」  ローズマリーの声が、囁くように小さく告げる。誰にも聞かれてはならない失敗を見つけた瞬間の、 そうでなければと祈る請願の祈りのように。 「まさか、……汚染」  ローズマリーがそう言った瞬間、カルロスが皮の手袋を取ってウサギを保護すると、飼育室から連れ 出す。  そして緊張に硬直した顔でローズマリーを見つめると、次に打つ手に考えをめぐらせて底光りする瞳 で指示を出す。 「飼育室の除菌を。トランスジェニックのウサギを一時隔離室へ保護する。その後、一体づつ感染の有 無を調べろ」 「わかったわ」  刻一刻と緊張の度合いを増していくその声に、ローズマリーが頷く。 「俺はこのウサギを調べる」  そう言った次の瞬間に、カルロスが「クソっ」と呟いて茶色のウサギの入ったケージを強く握る。 「どういうことだ。ここまで来て」  カルロスの力にギシっと歪んだケージの中でウサギが怯えた様子で身を縮める。 「とにかくできることをしましょう」  促がすローズマリーに、カルロスが無言でケージを抱え、飼育室を出て行く。  明らかにどこかで起きた人為的なミスによる事故が起こったとしか思えなかった。  あのウサギが対した病気をもっていなければいいのだが。  そう願いつつ、ローズマリーは飼育室の除菌のために行動を開始した。
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