第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を





 見た目の変化はまだ訪れてはいなかった。だがローズマリーには崩壊の足音が着実に近づいていてき
ているのが聞こえる気がした。
 ウサギたちのケージの上に次から次へと点滴を備え付け、部屋の中の温度をあげて湿度も加湿器を用
いて高めに設定する。
 できることは僅かしかないと分かっていても、次にするべきことで落としていることはないだろうか
と、気持ちばかりが焦って暴走していた。
 ケージの中でゴソゴソと音を立てて歩き回る姿は愛らしく、大きな目で辺りを見回す姿を見ていると、
これからこの子たちが発病して死をもたらす状態と戦うことになるなどとは考えられなかった。
 この胸の底から焦げ付いてくるような焦りもなにもかも、ただの自分の悪夢という勘違いだったので
はないかと思えて仕方がなかった。
 最悪の事態を受け入れようとしない脳が、都合のよい幻想へと逃げこもうと足掻いているのが分かる。
この世に自分を危機に陥らせようとする悪しき事態など、どこにもないのだと。
 ウサギのケージの一つに手を置き、ローズマリーは空転する頭を落ち着けようと、大きく深呼吸した。
その自分をじっと見上げる茶色の大きな濡れた瞳。
 まばたきをしないウサギの瞳に、情けない顔の自分が映っていた。
 トントンと跳ねながら顔を背けたウサギが、自分にしっかりしてくれよと言っているような気がした
ローズマリーは、胸に吸い込んだ空気を止めると目に力を込めた。
 弱気になっている暇はない。この子たちを救えるかもしれないのは、自分だけなのだから。
 その時、ケージの一つからブーとなくウサギの声が聞こえ、ローズマリーはその声の主の元へと歩い
ていった。
 そこには黒と白のブチのウサギがいたが、苦痛があるのか、しきりに鳴いては足を苛立たしげにダン
ダンと踏みしめている。
「どうしたの? 具合が悪いの?」
 ケージの向こうに周りこんでウサギの顔を見る。すると鼻から鼻水が垂れ始め、耳が発熱のために赤
くなり始めていた。
 はじまった。
 ローズマリーは息を飲むと、覚悟を決めてゴムの手袋をはめて治療を始めた。


 足音も荒く自分専用のラボに戻ったカルロスは、白衣を脱ぎ捨てると丸めて散らかったデスクの上に
向かって投げつけた。
 その勢いで書きかけの論文の用紙や実験結果のデーターの紙が宙を舞い、ヒラヒラと床に落ちていく。
 結局ポンペ病の子どもたちのためにトランスジェニックのウサギを作ることという作業を任されたの
が自分である以上、ミスをしでかしたのがどこかの馬鹿であったとしても、プロジェクトの失敗の責任
は自分に被されてくるのだ。
「クソ!」
 何度罵りの言葉を吐き捨てても気分が晴れることはなかった。
 こんなことなら、ピクニックになど行かなければよかったのだ。
 完全な信頼を置けるのは、結局のところ自分の一人なのだ。仕事を完璧にこなそうという気概も能力
もない輩が紛れ込むのは、人の手が多くなればなるほど避けようがないことなのだから。  だから、ローズマリーを選んだのだ。チャラチャラと他に興味が散漫していくような女ではない。男 にのめり込むでも、過剰に身を飾り立てることに余念がないタイプでもない。遊ぶことよりも自分の求 める信念に向かって、自分のもてる力や時間、意識の120%を投入する人間。そう思ったからこその 人選だった。そしてそう見抜いた自分の観察眼に間違いはなかったはずだった。  それゆえにいつもの警戒心が緩んでいたのかもしれない。何もかもがうまくいっていただけに、失敗 という二文字を失念していた。成功の光が完全に視界に入っていると思っていたのだ。  所長である父親にどんな悪態をつかれることになるか。それ以上に、この失敗は研究所にとっても大 きな損失になることが明らかだった。  他の研究所を乗っ取ってまで手に入れた仕事を、失敗したのだ。それも所長が自分の息子に手がけさ せた結果。今まで汚い手も使って大きくしてきた研究所だけに、失敗は格好のスキャンダルとして取上 げられるだろう。完全なる営利第一主義の研究者としての倫理に欠ける男には、研究所を経営すること はできても、高潔なる優秀な研究者を生み出すことはできないのだと。  ソファーに座り込んだカルロスは、自分の被る恥辱を思って苦い思いに唇を噛みしめた。ガリっと音 を立てた歯の食い込んだ肉から血が滲む。  口の中に鉄さびに似た味と痛みが広がる。  その痛みに思い出されたのが、自分の頬を張ったローズマリーの憤怒の表情と捨て台詞だった。 『泣き言はレイリの胸でだけ言って。わたしは聞きたくない。できることもせずに、ほんの少しケチが ついたからっておもちゃを放り出して泣く、わがままな子どもみたいなことは止めてくれる?』  あんなことを言われたのは初めてであった。自分のことをわがままな子どもだと言い捨てたのは、後 にも先にもローズマリーが始めてであった。母親にも今まで付き合ってきたどの人間にも言われたこと がなかった。 「おもちゃを放り出す……か」  自分で言って、ハッと鼻で笑い飛ばす。  実験動物はおもちゃではない。命という尊厳をもつものとしては上位に属するものかもしれないが、 カルロスにとってはある意味おもちゃよりも格下であるかもしれなかった。  おもちゃとは、自分が愛着を持って手にするものである。だが、実験動物は自分の理論を証明するた めの道具であって、そこに愛着という感情の思い入れはどこにもない。  だから失敗したのなら、それは廃棄するべきものであって、自分の体力や時間を注いで救ってやるに 価するものではない。  今ごろ必死で一人、ウサギを救うために懸命になっているだろう女の姿を思い浮かべる。その姿は滑 稽でしかない。  研究所の経費を無駄に使用しながら、死んでいく、あるいは助かったとしても何の役にも立たないウ サギを救おうと手を尽くしたところで何になる。 「馬鹿らしい」  言い捨ててソファーの背もたれに寝そべったカルロスだったが、見たわけではないローズマリーの懸 命に立ち働く姿が目の裏に焼きつき、意識を静めることができなかった。  無駄なことはしない、合理主義。 自分以外に関心を持たない、排他主義。  それが自分の信条だと思いながらも、切って捨てることができない。 「クソ!」  再び呟き、だが先に自分がついた悪態とは意味が違うことに気付きながら、カルロスはデスクの上の 白衣を手に取るとラボのドアを潜った。  カルロスの出て行った部屋の中で、カラカラと音を立てて回る音がしていた。  ネズミが回転車を回して走る音だった。  だがその足音は、左右対称ではなかった。  もしカルロスの意識が理性を保っていたなら、この変化に気付かないはずがなかった。 右の足を引きずるネズミ。  その足の根元には、大きく膨れ上がった腫瘍ができていた。
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