第六章 希望は優しさを、失望は隠された本性を





 振り回しながら歩いてきた空のポリタンクを川岸の砂利の上に下ろし、ジャスティスがふぅと息をつ
いた。
 もちろんここまでの行程は軽いタンクがお供なので楽チンなのだが、これからそこに水をつめて歩く
のかと思うと気が重い。
「こうなると、水道って感謝だよな」
 タンクの蓋を開けながらブツブツと呟く。
 透明な水がせせらぎの音を立てながら、滑らかな水面に僅かな隆起を見せて流れていく。
 じっと見ていると、自分の気持ちも溶け出して一緒に流れていきそうな、軽やかな気分になる。
 鏡のように透明な水面に映る自分を見下ろし、その顔にニヘラと笑ってみせると、「おまえなんて消
えちまいな」と悪役面で言ってタンクを水の中に投入する。
 するとたちまちガラスのように滑らかだった水面が崩れ、ボコボコと空気の音を立てながらタンクが
川の中に沈んでいく。
 タンクを支える手にかかる水は、骨の中にまで染み渡るほどに冷たい。ずっと水につかっていると痛
く感じるほどだった。
 そっと片手でその水をすくって口に運べば、甘味さえが感じられる。
「うん、うまい」
 呟いて満タンになったタンクを水の中から上げ、その重さにう〜んと唸りながら岸まで運んでいく。
「……水道水よりもうまいけど、やっぱ水道のが楽だな」
 ぎゅっときつく蓋を閉じながら、はぁとため息をつく。
 そして側にあった大きな石の上に腰を下ろすと、空を見上げた。
 雲ひとつない青い空が、緑の木々とのコントラストを描いていた。見渡す限り、空を遮る人工物はな
い。電線も、ビルも、車のクラクションも聞こえない。
 大きな自然の中で、ポツンとそれを感じて息をしている自分。
「人間なんてちっさいなぁ」
「本当にね」
 自分の独り言に合いの手を返され、空を見上げていた顔を下ろせば、そこには笑顔のレイチェルが立
っていた。
 すっかりサバイバルモードなのか、額にはタオルをハチマキのように巻き、靴も脱ぎ捨てて裸足で仁
王立ちしている。
「勇ましいなぁ」
 ジャスティスとしては、別に褒めたつもりではなかったのだが、その言葉にレイチェルがえっへんと
胸をはってみせる。
「なんていっても、この世界の中ではわたしがみんなの先生だものですから。率先してサバイバル術を
教授しなければね」
 いつも元気なレイチェルだったが、今日のレイチェルはいつもの何倍も元気いっぱいで、不必要だろ
うと思うくらいに飛跳ねて活発に動き回っている。
 今も背中のリュックをあさってゴソゴソと音を立てて何かを取り出している。
「割れてないかな?」
 そう呟きつつ取り出したのは、大事そうに布に包まれたものだった。
「なにそれ」
 石の上に座ったまま言うジャスティスに、下ろしたリュックの上で布を開いていくレイチェルが「聞
きたいかね?」と眉を動かしてみせる。
 包みの中から現れたのは、さらに新聞紙を緩衝材代わりにした包み。
 そして丁寧に新聞紙を取り去ったレイチェルが、ジャスティスにむかって「ジャーン」と言いながら、
手に持ったものをさしだす。
 それは透明なシャンパングラスだった。
 一脚は持ち手の部分が深い紺で、もう一つがラズベリーのような赤。
 薄いガラス細工のグラスを受け取りながら、ジャスティスが不思議そうな顔でレイチェルを見る。
「よくこんなの持ってきたね。壊れそうなのに」
「だって、これがわたしのラブラブ大作戦だから」
 言いながら少し照れたのか、顔を赤くして笑う。
 レイチェルはジャスティスの座る石の上の一緒になって座ると、顔の前に翳したグラス越しにジャス
ティスを見る。
 湾曲したグラスの向こうで、変形したレイチェルの顔がじっと自分を見つめている。
「あのね。ここにはじいさんとよくサバイバルで来たって言ってたでしょう。そのじいさんがね、一度
だけばあちゃんと結婚を決めたときの話をしてくれたことがあったの」
 俯いて、膝の上に置いた手の中でグラスを揺らしながら、レイチェルが語りだす。
 つられてジャスティスも自分の手の中のグラスを見下ろし、透明なグラスの向こうに見える川の水を
見つめる。
「じいさんとばあちゃんが結婚を決めたときってね、戦争真っ只中で、いつじいさんも戦争に行くかわ
からない様な状況だったんだって。そんなときだからこそ、帰ってくる場所を作りたかったばあちゃん
と、死ぬかもしれない自分がばあちゃんの将来を束縛するかもしれないと思ったじいさんで、結婚を巡
って結構もめたんだって」
「そうなんだ」
 戦争などどこか他人事で、体験などないジャスティスには想像を越える話ではあったが、そのときの
真剣な二人の気持ちは分かる気がして頷いた。
「それでね、二人はいろいろ考えて迷うのはしがらみがあるからで、素直な自分に戻って結論を出そう
って決めたんだって。それで来たのがここ」
「ここ?」
「うん」
 確かにここなら、他人の目や戦争という血なまぐさい現実とも離れていることができただろう。
 あるのは地球の上に生きる自然と自分と愛する人。
「それで、結論がでたんだ」
「うん。最後に残ったのは、二人がお互いを好きだという気持ち。ずっと一緒にいたいという気持ちだ
ったから、結婚しようって。全力を尽くして幸せになろうって決めたんだって」
 自慢の祖父母の話に微笑みを見せたレイチェルに、ジャスティスも笑みを返す。
「そのときに二人だけで上げた結婚式でやったのが、この川の水をワインに見立ててした誓いなんだっ
て。それを聞いたときから、わたしもいつか好きな人ができたら、やってみたいと思ってたの」
 そう言ってレイチェルがジャスティスにグラスを掲げてみせる。
「結婚式?」
 探るような目で見れば、レイチェルが慌てて手を振る。
「まさか、違うよ。そうじゃなくて、これからも一緒にいようねっていう誓いっていうか」
 珍しくしどろもどろで言い訳するレイチェルに、ジャスティスが声を上げて笑う。
「ぼくは別に結婚式でもいいんだけど?」
 その一言で、口の中で言いかけていた言葉がどこかへ逃げてしまった顔でレイチェルがジャスティス
を見つめ、顔を赤くして立ち尽くす。
「本当に?」
「うん。って、そんなに簡単に決めちゃいけないのかな?」
 ジャスティスも赤い顔のレイチェルにつられて照れたように頭を掻く。
 だが自分からレイチェルの手を取って川の前まで歩いていくと、グラスに川の水を掬いいれる。
「ほら、レイチェルも」
 促がされたレイチェルが、少し震えた手でグラスに水を入れてジャスティスと向かい合う。
「それでどうすればいいの?」
「えっと……ふたりでこれからも一緒に幸せに手を取り合って生きていこうねって誓って、お互いのグ
ラスを交差して飲ませ合うの。結婚式でよくあるでしょ? ファーストバイトって、お互いにケーキを
食べさせあいっこするみたいにね。ファーストドリンクっていうのかな?」
 一生懸命に説明するレイチェルに、ジャスティスがうんうんと真面目に頷き、左手でレイチェルの手
を握る。
「じゃあ、誓いね」
 ジャスティスはレイチェルの耳元に顔を寄せると、小さな声でささやく。
「ぼくは誰よりもレイチェルが好き。一緒に笑っていると心が暖かい気持ちでいっぱいになって、それ
だけで幸せになれる。だから、ぼくは君のその笑顔をずっと守っていきたい。いつまでも一緒にいてく
ださい」
 そう言って最後にそっと頬にやさしいキスを残していく。
 屈めていた腰を戻してレイチェルの顔を見下ろせば、うっすらと涙を見せた上目遣いの目で見つめて
いた。
 そして今度はレイチェルがつないでいた手をぎゅっと握ると、ジャスティスを見つめながら言う。
「わたしはジャスティスが世界中で一番大好き。どこまでも一緒に歩き続けて、一緒に成長していける
大切なパートナー。こうしてわたしの手を握り続けてくれる優しい人だから、わたしがジャスティスを
守って生きていきます」
 最後の一言に苦笑したジャスティスだったが、背伸びをしているレイチェルに合わせて腰を折ると頬
にキスをもらう。
 そしてお互いにグラスをもつ腕を交差させて、透き通った水を飲ませ合う。
 傾ける角度がわからずに零したりしながら、それでも最後の一滴まで飲ませ合うと、びっちゃりにな
ったお互いの服の胸に笑い合う。
「ジャスティス、これは誓いだからね」
「うん。ぼくは守るよ」
 即答してくれたジャスティスに嬉しそうに笑ったレイチェルが、水滴を纏ったグラスを空に向かって
掲げる。
「わたしもジャスティスを守ります」
「ねぇ、それはちょっとどうかと思うよ。一応、ぼくにも男としてのプライドがあるんだから」
「プライドなんてクソ喰らえ!」
 レイチェルはそう叫ぶと、次の瞬間に川を指差して目を輝かせる。
「ジャスティス、魚がいる。魚、魚。二人で夕飯用に魚を採るよ!」
 その変わり身の早さに唖然としながらも、ジャスティスもはしゃいで川の中に入っていくレイチェル
に続いて靴を脱ぎ捨てて川の中へと入っていく。
「レイチェルには負けないからな。レイチェルよりもたくさん魚を採るから」
「勝負する?」
 挑戦なら受けて立つぞと構えて見せたレイチェルだったが、すぐに勝利を確信してほくそ笑む。
 川に入ったジャスティスの水の冷たさに腰の引けた格好では、魚にバカにされること請け合いだった
からだ。
「やっぱりジャスティスのことは、わたしが守るから安心して」


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