第四章 命の期限



「久しぶりだな」
 カルロスは大学構内に足を踏み入れると、第一声をもらした。
 研究所の実験室にこもっていることが多くなっていたこの頃は、大学へ顔を出すことが少なくなって
いたのだ。しかも、来ても学生が溢れる講堂よりも人が寄り付かない研究棟に直行で、育てている組織
の管理をしてデーターをとるために来ばかりで、人のとの関わりよりもはるかに病原菌や人組織とだけ
意志を通わせているようなものだった。
 だから久しぶりに見る、人人人と溢れかえる熱気には、クラリと当てられるほどの別天地を感じるの
だった。
 ちょうど講義の一つが終った様子で、講堂から次々と生徒が溢れ出てくる。
 その人波の向こう側を頭一つ分高い背を利用して覗き込めば、熱心に質問してくる生徒と会話する教授
の姿が見えた。
 カルロスを知る学生たちが何人か声を掛けてくるのに挨拶を返し、人の出入りが少し収まったところ
で講堂に入っていく。
「教授」
 談笑していた教授が顔を上げてカルロスを見るなり、大きく腕を開いて大歓迎だと示してハグをする。
「カルロス。久しぶりじゃないか。どうだ、元気にしていたか? すっかりわたしのことは忘れていた
らしくて顔も見なかったが」
「忘れてたわけじゃないですよ。ちょっと忙しくて研究所にこもっていただけで」
 教授とはいっても若くしてその地位を手にした彼は、まだ40代後半で、よく生徒と連れ立ってはビ
アガーデンに繰り出すような親しみやすい男だった。
 教授は学生たちにカルロスを紹介すると、自慢げにその肩を抱く。
「彼は非常に優秀でね、わたしも論文発表のときは彼を助手したくて悪戦苦闘するくらいなんだ。そう
いった誘いの手は彼に無数に伸びているらしくてね。なかなかわたしの伸ばす手を握ってはくれない薄
情な学生でもあるんだな」
 教授の周りに群がっていた何人もが、羨望の目でカルロスを見上げた。
 もちろんその中に混じった女学生たちは、ハンサムで背も高く、そのうえ優秀な男の出現に色めき
立っていた。
「ところで教授、ちょっと聞きたいことがあるんですが。お時間ありますか?」
 本来あまり人付き合いが得意とはいえないカルロスが羨望の目にさらされ、わずらわしさ全開の顔で
教授を見やる。  そんな様子を見てしてやったりと笑う教授にムッとするカルロスだったが、それも彼流のカルロス教 育の姿なのだと諦めて懇願の視線を送る。早くこの場から移動させてくれと。 「わかった。わたしの部屋へ行こう」 「ありがとうございます」  素直に礼を言って頭を下げたカルロスに、教授は荷物を抱えると歩き出す。  そこへ面白半分で声を掛けてくる男子学生がいた。 「教授! 遺伝学の教授であるあなたがゲイなんてことはないですよね?」  その声に先に振り向いたカルロスが、不快を全身で示した視線を送る。  髪を真っ赤に染め、鼻のみならず唇にも多数のピアスが並ぶ少年が、幼稚な精神年齢を晒した顔で立 っていた。  もちろん医学部の学生なのだろうから、それなりの知能指数は誇るのだろうが、なんともお粗末な質 問を発したあげく、カルロスの突き刺さるような視線にさらされて怖気づいて後退さる。 「そうだな。後世に優秀な遺伝子を残すことが優秀な男として生まれたわたしの使命だとは思うがな」  一方呑気に笑い混じりで返答した教授に、カルロスが正気を疑うように振りかえる。  なぜこんなバカな学生に応えてやるんだ?  だがカルロスの目を見ておどけて肩をすくめて見せた教授だったが、学生の期待に応えるようにカル ロスの前に立つとその顔を見上げた。 「だが、こんなに完璧な男を見つけると、裸にしてその秘密を暴いてみたい欲望にかられないわけでは ない」  今度はぎょっとしたカルロスが後退さる番だった。  意味深に微笑みかける教授のリップサービスに、教室中が色めきたって喝采を送る。 「教授、わたし教授がゲイでも応援します」  中にはそんな掛け声が混じる。 「もちろん、冗談だがな。わたしにはちゃんと最愛の恋人がいるんだから。もちろん女性のね」  盛り上がっている学生たちを静めるように言って、カルロスを促がして講堂を後にする。  そのきっちりとシャツとスラックスをはきこなした背中に追いついたカルロスが問い詰めるように声 をかける。 「なんであんなことを!」 「ん? だって怒ったって仕方ないでしょう。ゲイにはゲイの人権があるんだから、怖気が走るという ような態度で否定したら、少なからずあの中に混じっていたかもしれない本物のゲイの若者を傷つける ことになる。それに、彼らは本当にわたしのことが知りたくて言ってるんじゃない。ただのゲームだよ」 「だからって、くだらない噂であなたの信用が失墜する可能性だって」  ムキになって抗議すれば、今度は嬉しそうな微笑みがカルロスに向けられる。 「なんだ。やっぱり君はいい子だな。こんなわたしのことを心配してくれるなんて」  感動したように目を潤ませてみせる教授に、カルロスは仏頂面を作るとため息をつく。 「そんなんじゃありません。あなたのくだらない言動にぼくが巻き込まれるのが嫌なだけですから。あ なたの教授職喪失の汚名の一端がぼくでは寝覚めが悪い」 「またそんな憎まれ口を叩いて。そんなんじゃ研究所の所長は継げないぞ!」  痛いところを突かれて口ごもるカルロスに、教授は笑いながら顎で先を示す。 「そんな君に人と上手に付き合う方法も伝授してやろう。ぼくの秘伝のコーヒーを飲みながら」 「……ありがとうございます」  なぜかストローで飲む教授秘伝の激苦なコーヒーを思い浮かべ、口を歪めながらカルロスは教授の後 に従っていった。  案の定濃いコーヒーのために色濃い染みを付着させたマグカップにストローを挿した状態で渡された コーヒーを上から眺め、カルロスはゴクっと唾を飲んだ。  これを飲んだ日には、夜まで決して眠気が訪れず、体は疲れているにも関わらず頭だけはギンギンに 冴えている状態を丸一日は味わうことになる。それが分かっていたから、テスト期間中は飲ませてもら うこともあったコーヒーだったが、今となっては笑い話の珍味であって、好き好んで飲みたいと思うも のではなかった。  チラッと教授を見上げれば、途切れることなくストローの中を茶色い液体が上っていく。  なぜこんなに胃に悪そうなものを毎日飲んでいて元気なのだろうか? 「ところで相談って?」  教授は乱雑に散らかった机の上を片付けながら、目だけをカルロスに向けて問う。 「ええ。一人優秀な学生を探してまして」 「研究所への引き抜きか? あ、それからうやむやにしてコーヒーを残さないように!」  一口も口をつけていないカップを机に下ろそうとしたカルロスをしっかりと見つけて言う。  仕方なく一口ストローを啜ったカルロスは、ありえないほど苦くドロリとした粘度さえもった液体に 顔を顰めた。昔よりもさらに濃度を増したようだ。 「引き抜きではありませんけど。トランスジェニック動物の飼育と製造を依頼されていまして、その補 助をお願いしたいんです。で、一人心当たりがあるんですが、教授の話を聞いてからと思いまして」  今度は文句を言われる前にカップを机に下ろしたカルロスが、誰だね? と片眉を上げて問う教授に 言う。 「ローズマリー」  その一言に、なにか感じるところがあったのか、教授が「ああ」と呟いて頷く。 「彼女をご存知で?」 「ああ。ある意味で有名人だからな。美人だし背も高くて目立つ。そのうえ毒舌で相手が教授だろうが 指導医だろうが意見するときは容赦がないからな。それはそうと、なぜ彼女を?」  スキャンダルを期待した目を向けられ、カルロスは顔の前で手を振った。 「ローズマリーはぼくの彼女の親友なんです」 「だったらなおのこと問題ありだろう。彼女の親友に手を出して女の争いを巻き起こすなんて、罪な男 だぞ」  真剣な顔で言う教授に、カルロスはため息をつく。  これさえなければ最高に信頼できる教師なのだが、若い学生と交わって毒されているのか、思考回路 はいつも色恋沙汰へと直結してしまう。だが、そのことで文句を言っても、遺伝学なんて色恋がなけれ ば成立しないんだから、ぼくの頭はどうしてもロマンスで満ちてしまうのさなどと煙にまかれて終わり だ。 「だからぼくを教授と同じ色恋だけを生きがいにする男だと思わないでいただきたい。彼女が優秀だと 聞いたから、実際にその様子を知っているだろう教授に意見を聞きに来ただけです」 「ふ〜ん」  あなたと同列において欲しくないと言った言葉に気分を害したのか、いい歳をして口を尖らせた教授 がそっぽを向く。  だがすぐに喋りたくなったのか、上向かせた目で何かの記憶を探すようにして話し出す。 「そういえば、彼女は手先が器用でな、人工授精の胚を操作するのが、技師たちを唸らせるくらいにう まかったらしいよ。それから今は小児科で実習中で、あんな仏頂面の女に小児科は手こずるだろうとい う大方の予想に反して、担当の患者と仲良くなって一生懸命やっているらしい」 「随分、詳しいですね」  すらすらと出てきた情報に、カルロスは疑いの目を教授に送る。 「偶然」  そう言って笑って見せた教授であったが、じっと見つめてくるカルロスの目に正直者の心が揺さぶら れたのか「わかったから」と苦笑いで応じる。 「わたしの妻の名前がローズマリーなんだ。しかもわたし好みの女王様風で気になって」  内緒だぞと口に指を立てられ、カルロスは肩をすくめた。一体誰に対して内緒にしたいのやらだ。 「教授、あなたはゲイではないけどM体質だということは分かりましたよ」 「君は明らかにSだろ?」 「……ムチは振るいませんがね」  不本意ながら返答し、一気にコーヒーを飲み干したカルロスを、教授は再び感動の目で見ていた。 「初めて軽口に付き合ってくれた。今日は奇跡をみるような幸運な日だったらしい」 「……おおげさな」  つぶやきながら、胃の中で広がって吸収されていくコーヒーの感触を味わい、今日は寝れないだろう なと予想して暗澹とした気持ちになる。  だがこれも教授の影響だろうか。ふと過ぎった考えに苦笑した。  どうせ寝れないのなら、レイリに会いに行こう。  その前にローズマリーだ。  カルロスは教授に別れを告げると、病院を目指して歩き出した。
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