第四章 命の期限

    
 飼育箱の中で元気に走り回るラット。  おいしそうに水を舐めている姿を見つめているのは、白衣を身に纏ったカルロス。 「どうだ? 実験はうまくいってるか?」  背後から掛けられた声に顔を上げないままではあったが頷き、飼育箱の上に記した生年月日を示す。  五年から八年の寿命だといわれているラットだが、このラットはすでに七年目である。本来ならご老 体なはずが、活発な子どものように動き回っていた。 「テロメアの伸張がうまくいってますから。不老ですよ、今のところ」 「ほう」  優秀な実績を積み上げてくれるカルロスに、父親でもある研究所の所長が満足げに頷いてみせる。  テロメアは人間を含む、真核生物の染色体の末端に存在する。おもに染色体の複製にかかわり、安定 した複製を保つ働きがあるとされている。  人間の細胞は常に新たに作られ、新進代謝を繰り返すことで新鮮な細胞を保っている。逆を言えば、 この細胞の更新能力の衰えが老化である。この老化に係わるのがテロメアであるとも考えられている。  細胞の複製で使用されるたびに、テロメア自体は複製されないために短くなっていく。そしてやがて テロメアが無くなった時、複製は停止。つまり老化していくのだ。  だが皮肉なことに、このテロメアごと複製して決して死ぬことのない細胞があるのだ。それがガン細 胞である。 「不老不死は、我々人間が長い年月をかけて求めてきたものだ。今は寿命が長くなったとはいえ、裏を 返せば老人でいる期間が延びたに過ぎない」 「若く健康的な身体を持ったままで、長い寿命をもたなければ意味がない」 「そうだ。聖書に出てくるアブラハムは100歳でイサクという息子をもうけている。わたしもそうあ りたいものだ」  父の科学者としての発言とは別の、男としての願望の正直すぎる発言に、息子としては笑うしかない。 「知らないと思ってるんですか? わたしも大学に籍があるとはいえ、今はほとんどこの研究所で実験 してるんです。母さんには黙ってますが、女遊びも程々にしてください」  強面で体も大きな父は、所長という肩書きがなかったとしても十分に人を惹き付けるカリスマがある ことは認めている。女性にも非常にもてることだろう。  だが来る者拒まずどころか、積極的に女を口説きにまわるその姿は、研究所の一つの名物になってい るほどで、母も諦め半分で無視を決め込んでいる。 「大丈夫だ、心配するな。この研究所はおまえにくれてやるから。外の子どもには、おまえほど優秀な のがいなくてな」  一体何人の兄弟がこの世に存在するのかを思うと、眩暈がするほどだった。 「どうやらわたしのテロメアはなかなか短くならないらしくてな。まだ元気で困るよ。こっちの息子も」 「……父さん……」  下ネタは大嫌いなカルロスが顔を顰める。 「なんならわしのテロメアを実験用に提供するぞ」 「人間のテロメアーゼは活性が弱いから、取り出してもすぐに老化してしまいます。そんなことはご存 知でしょう」 「うむ、まあな」  冗談にのってくれないクソ真面目な息子の対応に、所長もかたなしと口ごもる。  取り付く島もない気真面目な顔に、二人の間で沈黙が流れ、じっと真っ赤な目を動かして飼育箱の中 を動き回るラットを眺める。  すでに水も餌も思う存分食べたラットは、自分の日課をこなすべく、回転車に移動して遊び始める。  何かの用があって、普段近寄りもしない息子のもとに来たであろうことはカルロスにも分かっていた が、なかなか切り出さない用件に父に背を向ける。 「なぁ。おまえに頼みたい仕事があるんだがな」  そらきた。  カルロスは笑顔を張り付かせた顔で振り返り、父を見下ろす。  体格では父には叶わないが、背の高さは上回っていた。  豊かだが白一色になった髪を見下ろし、腹の中で父を見下す。  真っ白な頭といい、実験中のラットとそっくりだ。あなたの細胞にもRbたんぱく質抑制剤が注がれ ているんじゃないですか? だからいつまで経っても大人の分別も育たず、下半身でしか物事を考えら れない。  だが、研究者としての技術はさておいても、研究所を運営する経済的感覚は優れている。企業や国の 支援を受けられる研究を嗅ぎ分ける鼻は犬並だった。 「今回はどんなお金になる研究課題を見つけてこられたので?」  その嫌味を含んだ言いように顔を顰めた父だったが、そんな目で見られることは慣れっこだと示して、 所長の顔に変わる。 「トランスジェニック動物を育ててくれ」 「なんの?」 「ウサギだ。ポンペ病患者に欠損したα-グルコシダーゼがウサギのメスの母乳から採取することがで きるんだ。そのウサギを、育てるんだ」 「……まぁ、いいですが」  そういえば父の画策で、同州内にあった研究所の一つが倒産の憂き目を見たはずだ。そこの仕事を引 き継いだのだろう。 「ポンペ病は筋ジストロフィーの特殊系で、幼児期に罹ると2歳までに死亡する。その子たちを救える んだ。がんばって育ててくれよ」  何が「救えるんだ」だ。自分が研究所を倒産に追い込まなければ、もっと早くウサギは育っていただ ろうに。しかもこれは子どもを救うために率先して研究を引き継ぎましたという美談として語られるよ うに取引がされることだろう。  汚い男だ。そう思いつつも、いずれ自分も同じようなことに手を染めることになるのかと思うと、気 分も一気に重くなる。  まぁ、今は美談を作りあげるために、喜んで気分よくウサギを育ててやろうではないか。 「大学の友人に手伝ってもらってもいいですか?」 「ああ、構わない。できれば美人の女の子がいいがな」  やっぱり最後はそこに話が流れていくのかと返事もできずにため息をついたが、父はさっさと研究室 を後にしていく。 「トランスジェニックか……」  人遺伝子を組み込んだウサギの卵子を使って、人間の代わりに酵素を乳として生み出す動物を作るの だ。ウサギから生み出される酵素でも、人間の遺伝子を基にした酵素なので、全く人間と同じ組成の酵 素が抽出されるのだ。  そのときカルロスの脳裏に浮んだのは、一度会ったレイリの友人、ローズマリーのことだった。 「確か医学部だ。しかも……美人だ」  別に父の言葉を真に受けたわけではなかったが、カルロスの思いつきを正当化するかのように背中を 押してくれた。 「声を掛けてみるか」  ラットがカラカラと音を立て、回転車を回していた。
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