第四章 命の期限




 無菌室の中で横たわるアンネを、ガラス越しでローズマリーが見つめていた。
 強力な放射線照射と抗がん剤の作用で、全身の毛が抜け落ち、体力をすり減らしたアンネが、それで
もローズマリーの姿を認めて、か弱い笑みを浮かべてみせる。
 首にささったカテーテルから血が滲んで痛々しい。だが鎖骨下静脈まで挿入されたカテーテルは、今
のアンネの生命線ともいわる重要な器官だった。
 抗がん剤の作用で口の中が口内炎で覆われたアンネは、今は唾を飲み込むこと一つ苦痛を伴う行為で
あり、口の下に敷いたタオルに唾液を垂れ流しにしていた。
 移植は無事に終っていたが、移植された白血球がすぐに働きはじめるはずもなく、いまや白血球数は
0になり赤血球や血小板も減少しているために、顔色も血の気の失せた青い顔色だった。
 無菌処理をした看護師が無菌室の中に入り、アンネに声をかけ世話をはじめる。
 どんな菌にもすでに抵抗力がないアンネには、毎日の清拭が必須だった。虫歯一つでも命とりになる
からだ。
 ガラスの向こうに立った看護師がローズマリーに頷きかけ、カーテンを閉める。
 その一瞬の締められるカーテンの隙間から、服を脱がせて貰っているアンネが見えたが、自力で動く
ことができずに、人形のように脱力してされるがままになっている姿が、ローズマリーには胃が縮むほ
どに切なく思えた。
 ここまで小さな体で苦痛に耐え、たった一人で過ごす無菌室での孤独を受け入れているのだから、ど
うか無事に寛解に向って欲しい。
 祈るように目を閉じたローズマリーの背後に、誰かが立つ。
「ローズマリー?」
 聞き覚えのない男の声に、ローズマリーは振り返った。
「………はい」
 怪訝な顔のままに、医療関係者でもなさそうな私服の男を見上げる。
 アンネの家族でもなければ、自分の知り合いでもない。
 だが一瞬の、その低い自分の名を呼んだ声が記憶の中の何かと呼応した。
 男のおろした髪を撫でつけ、ラフなシャツをタキシードを着込んだ強面に変える。
「ああ。カルロス……。イメージが違ったから分からなかったわ」
 不信げであったローズマリーの緊張した顔が笑顔に変わる。
「君も白衣を着ている上に深刻な顔してたから、ちょっと声をかけづらかったかな」
 カルロスも微笑む。
「そうだった?」
 ローズマリーが自分の顔に触れながら言い、いつもジャスティスに注意される、眉間に皺でも寄って
いたのだろうかと指で伸ばす。
 そんなローズマリーを見ながら、カルロスが背後のカーテンの閉まった無菌室を見やる。
「君の担当患者さん?」
「ええ。ていっても、わたしはただの学生だから、少しばかり子守り役をやっただけに過ぎないけどね。
白血病で三日前に移植を受けたのよ。今が一番辛いところよね」
「そうか」
 カルロスは短く返事をすると、カーテンの向こう側を深い思い入れで見るローズマリーの顔を凝視し
た。
 その視線を感じ取ったローズマリーが、目だけをカルロスに向けて片眉を上げて見せる。
「何か用があってきたの?」
「うん。まあね」
「知り合いでも入院してるとか?」
「いや。君に用があって」
「わたし?」
 カルロスは思案顔で腕を組むと、ローズマリーの隣りに立った。
 そのときちょうどカーテンが開け放たれ、無菌室の中の様子が見渡せるようになる。
 清拭一つで疲れてしまった様子のアンネが、それでも綺麗になった体や新しいシーツの中で安心した
顔で目をつむっていた。
「随分と小さい子だね」
「ええ。あんな小さな体で文句一つ言わないでがんばってるわ」
「離れられそうもないね」
 少しの苦笑を滲ませて言われたローズマリーがカルロスを見やる。
「離れるって?」
「できたら手伝ってもらいたい仕事があったんだけど。こんなにかわいらしい患者さんがいたんじゃ、
心配で離れられないだろ?」
 確かにそれは事実だった。
 そうでなくても、弱った体で一人きりの無菌室でいることは、精神的に酷い重圧となる。一人である
ということを抜きにしても、日々弱っていく体を考えるだけで、思考は闇の深みにはまりこむものなの
だから。
 誰かが側にいて、一人でないこと。手助けしようと手を握ってくれる人がいることを伝え続けなけれ
ばならない。
「そうね。離れたくないわ」
 カルロスの頼みごとの内容が何なのかは分からなかったが、ローズマリーが頷く。
 だがちょうどそのとき、無菌室が並ぶ廊下に続く自動ドアが開き、陰圧の外に向かって風が吹き抜
けた。
 足早に靴音高く駆け込んできた長い髪の女性が、アンネの眠る無菌室のガラスの壁に駆け寄ると少し
でもアンネとの距離を縮めようとするように、身を押し付けた。そして手でガラスを叩く。
「アンネ。アンネ。ママが来たからね。もう、一人にしないからね」
 普通の見舞いに来た家族とは違う気迫が、その女性からは放たれていた。
 髪も乱れ、服も胸元がつかまれた痕を残した着崩れた姿。そして何よりも人の目をひいたのは、その
口元の紫に染まった切り傷だった。殴られた痕であることは明らかだった。
 女が手を打ちつけた音に気付いたアンネが、ベッドの上で目を開ける。
 その目が見開かれる。
 声の聞こえないアンネの口が音を紡ぐ。
―― ママ
 そしてローズマリーが見たことのない顔でクシャと顔をゆがめた。
 次の瞬間、声を張り上げてアンネが泣き声を上げた。
「ママ、ママ、ママ、ママ!!」
 かすかに部屋の中から聞こえるアンネの上げる声に、ローズマリーは潤んだ目を背けた。
 あんなにも母親を求めていたのだと気付かされ、平常心を保つことはできなかった。
「ママ、側にいるから。アンネを置いてどこにもいかないから」
 アンネの母親の声も涙に濡れていた。
 その声を聞きながら、ローズマリーは無菌室の廊下を後にした。


 廊下の長いすに頭を抱えるようにして座り込んだローズマリーは、周りの人間が怪訝な顔をするのも
構わずに顔を両手で覆った。
「……泣いてるの?」
 ローズマリーの前に立った男の革靴を履いた足が聞いた。
 カルロスがいたのを思い出し、ローズマリーは何も答えられなままに首を横に振った。
「………」
 そんな反応では、カルロスもローズマリーが心に抱えた感情など分かるはずもない。
 それでも何も言わずにローズマリーの横に座ると、肩を抱きしめて慰めるようにトントンと揺すっ
てくれる。
 だがその子どもをあやすような手つきは、この事態への困惑を伝えてぎこちない。人を労わることに
慣れていないのかもしれない。どちらかといえば、労わるよりもこき下ろすことのほうが得意そうな顔
をしていたはずだ。
 ローズマリーも自分でもわけが分からずに爆発した感情に圧倒されていたはずが、カルロスの手と、
見えない相手の顔を想像して気が反らされる。
 きっと慣れない行動に後悔しながらも、泣いているかもしれない女を放り出すこともできずに弱りき
った顔をしていることだろう。
 ローズマリーは顔を覆っていた手を下ろすと、そっとすぐ側にあるカルロスの顔を横目で見た。
 やはりそこには今までに見たことのある自信に溢れた男の顔ではなく、正解が導けなくて迷子になっ
た子どもの目をしたカルロスがいた。
 おもわずその顔に僅かながらも笑みが浮ぶ。
「……ありがとう。……驚かせたわよね」
 肩を抱かれていることに気恥ずかしさを見せたローズマリーに、カルロスも慌てた様子で腕を外す。
「いや。あまり役に立つような、気の効いたことができなくて悪いな」
 照れあって俯いたり頭を掻いていた二人だったが、その様子を見守っていた人々の目が自分たちに釘
付けになっていることに気付くと、慌ててイスから立ち上がった。
 そこは入院患者やナースやドクターが行き来する病院の入院病棟なのだ。取り乱した二人は、暇と苦
痛に倦んだ病院の中では恰好の見世物であった。
「ちょっと外に出ようか」
「ええ」
 ぎこちなく頷きあい、角張って歩く二人を、いつまでも好奇の視線が追いかけてきていた。


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