第三章 小さな命


      
2
 予定の手術の見学を終えたローズマリーはアンネの病室に向う。  消化器系の手術だった今回の手術は、案の定気分を悪くして倒れる医学生、手術室の中で見学する研 修医が数名、青い顔をして運び出される結果となった。  人間がキレイなのは外側だけ。中味は魚のハラをさばいて気持ち悪いと叫んでいる、その内臓よりも、 よりグロテスクで生生しい。  だが、ローズマリーは切り開かれ、暴かれた人間の臓器を美しいと思った。  脈動し、蠢き、生きる原動力を生み出している。生そのものだった。  赤い血が噴き出すのは、さすがに生理的な恐怖心を与えるに足るものだったが、筋膜につつまれた筋 肉などは、美しいと素直に思ったのだった。  なかなかこの感覚に同意してくれる人はいない。  当然、同じく医学部に入ったジャスティスにもこの話をしたのだが、拒絶反応のように聞きたくない と両手で耳を塞がれ、同意どころか聞く耳さえ持ってくれなかったのが現実だった。  まあ、こんな話はアンネにもできないけれど。  病室に立ち寄る前にナースステーションで看護記録を見に行く。  ここ数日感染症を起して高熱を出していたアンネだったが、昨日の午後あたりから熱も下がり始め、 夕飯も半分以上食べることができたとある。  なかなか化学療法によって癌化した白血球数を減少させることができず、造血肝移植に踏み切れない のが現状だった。  正常な白血球数も減少しているために、感染症には罹りやすい。  ここ数日は、強気で快活なアンネも、すっかり弱ってローズマリーが顔を出してもうっすらと目を開 けるだけで、赤い顔でいつもより早い息をしながら眠るだけだった。  氷枕を変えてやり、汗を拭き、時々着替えをしてあげる。  そんなことしかできなかったが、少しはすっきりとするのか、ローズマリーがいる間に安心したよう にスーと寝入ることが多かった。  着替えをさせるときに何度も見た、腕に刺さったままの点滴のチューブは、細い腕にはあまりにも不 釣り合いで、血を滲ませた姿には胃のあたりが締め付けられるような痛みすら感じた。  でもこれが、彼女の生命線ともいえるものなのだ。  病室のドアをノックし、部屋の中へと入っていく。 「アンネ」  部屋の中を覗き込めば、今日は半身を起してベットの上で本のようなものを捲っている姿が見える。 「あ、マリー」  途端にアンネの顔に笑みが浮ぶ。 「今日の調子はどう?」  このところ見ることのなかった不敵の笑みで親指を立てたアンネが、再び手にしていたものに目を落 とす。  ベットサイドにイスを出して座ったローズマリーも、一緒になってそれを覗き込む。  それはアンネと家族が写った写真だった。 「アルバムね」 「うん」  嬉しそうに頷いて写真の中の母親の笑顔を見ている。  アンネについてまだ一週間しか経っていないせいかもしれないが、こんなに小さな子が入院している というのに、まだ家族の姿は見ていない。  だからこそ、熱をだして心細い思いをしているアンネに、夜まで付き添う必要はなかったのだが、一 晩手を握って見守ったことがあったほどだった。  まだ若そうなポニーテールをしたかわいらしい母親は、抱きしめたアンネと頬を合わせてくすぐった そうな笑みのアンネと幸せそうに写っている。  こんなに可愛がっていたのなら、どうして見舞いに来れないのか?  そこらへんの事情は、看護師からも聞いてはいなかった。  そんなローズマリーの無言の疑問を感じとったのか、アンネがアルバムに目を落としたまま口を開く。 「わたしのママね、今新しいお父さんと暮らし始めたばかりなの」  ああ、それで……。  病気で苦しむ我が子よりも、男を取ったのか。  落胆と失望の混じったやるせない気持ちが胃のあたりから突き上がってくる。 「でもね、ちゃんとママはわたしのことが好きだって言ってくれてるよ。だからわたしの病気が良くな るように、ママの元気な血を分けてくれるんだって」 「そう」  笑みに憐れみが滲まないように微笑み、アンネの頭を撫でる。  襟足から肩に落ちた細い三つ編みは、すでに何日も立っているために、ほつれて毛羽立ったような状 態になっていた。  クマのついたゴムも緩んでしまっている。  でも、その三つ編みには、アンネはたとえ気に入っているローズマリーであっても触らせなかった。  これはママが良くなるようにってお祈りしながら編んでくれたのだから、ママが来たときにまたやっ てもらうまで、解いちゃいけないの。  病気という不安と闘いながら、さらに母親の愛情を、そんな三つ編みにしがみ付いて確認しなければ ならないアンネの心が切なかった。  家庭のあり方も千差万別なら、母親のあり方も、一通りではない。  皆が理想とするような、命を投げ打ってでも子どもを守ろうとする母が、全てではないことは十分に 承知している。  だが、頭で理解していても、アンネのような子どもを実際に目の前にすると理性とは別の本心が受け 入れられないと拒絶の声を大にする。  それでも、その母親がいるからこそHLA型のマッチしたドナーになってもらえるのだ。たしかHL A-A、HLA-B、HLA-DRの組み合わせ、6個の組み合わせのうち、5つが一致したとあったは ずだ。両親との一致が珍しいことを考えれば、幸運だ。  しかも造血幹移植は、骨髄液の直接採取ではなく、薬を使って造血細胞を抹消血に出し、献血のよう に採取した血液から造血幹細胞のみを分離して冷凍保存する抹消血幹細胞採取の方法を取るとあったは ずだ。  これならアンネの体調に合わせて最大の効力をもたらすときにきちんとスケジュールを組んで移植す ることができる。 「早く良くなって、ママとまた暮らせるといいわね」  ローズマリーが複雑な思いを隠したままに言う。  だがその言葉に俯いたままのアンネが、子どもらしくない悲しい笑みを口の浮かべる。 「ううん。良くなっても、わたしはママとは暮らせないんだ。新しいパパが、弟と比べて同じように愛 情を示す自信がないからって。新しいパパは、アンネにも優しい、いい人だけどね」  だからなのだろうか。アンネの病状の回復は一定しない。  早く化学療法で癌化した血球を減らし、正常な血球を増やすための移植に踏み切りたいのだが、がん 細胞がなかなか減らない。  感染症も起しやすい。  心と体の状態は、非常に密接な関係で結ばれている。  希望が病気を癒すわけではないしても、希望がない人間は病気に立ち向かうことができない。希望の 火が消えた瞬間に、命の炎も消える。  そんな話は病院にいればよく耳にする。  アンネにも、自分が愛されているのだという自信が足りないのかもしれない。  病気で苦しんでいるときに、握っていてくれる手が足りないのだ。 「そうなんだ。でも、元気にならないと会いにもいけないものね。それに、わたしと約束した病院ミス テリーツアーもいけないぞ!」  暗く沈んだ空気を払拭するようにアンネの額を突いて言えば、アンネの顔に子どもらしい笑みが戻る。 「ミステリーツアー、覚えててくれたんだ」 「もちろん。今度、ツアー計画立てないと」 「うん」  アンネが二人で並んで、病院内を探検する姿を思い描いているようで、目を上向かせる。  だが次の瞬間に、ハッと重要なことに気付いた様子でローズマリーを見る。 「なに?」 「ミステリーと名がつくなら、女二人じゃダメだよ。美形の男の人も入ってないと」 「美形の男?」  確かにミステリー小説にもムービーにも、いい男がつきもので、大概女より弱かったりするものだ。 「誰か美形の男の人に心当たりはない?」  アンネの目は真剣そのものだ。 「そうねぇ」  ローズマリーの言うことを聞いて、ミステリーツアーに参加してくれそうな男の心あたりを探る。  フェイは……、却下。  言うことは喜んで聞いてくれそうだが、美形じゃない。しかもミステリーツアーというよりは、サバ イバルツアーのほうが似合いそうな男だ。  ではジャスティスか。  ローズマリーはサイフに入れていた二人で撮った写真を取り出すと、アンネに手渡した。 「この男はどうでしょう? アンネのおめがねに叶えばいいけど」  無表情のローズマリーと、後ろで笑っているジャスティスの姿が写真の中に納められていた。  先日のパーティーのときに、レイリが撮ってくれた写真だった。 「うん、すごくキレイな人だね。マリーの彼氏?」  アンネがうっとりとした目で写真を見ながら言う。 「まさか。弟よ。ジャスティスっていうの。気に入ったなら、連れて来るわ」 「本当? 嬉しい!」  アンネはもう一度写真を見下ろし、名残惜しそうに写真をローズマリーに返す。  ほんの数秒の写真の中のジャスティスとの出会いだったが、数秒前のアンネの顔と違う気がする。瞳 が潤んでいる。  これは――。  ローズマリーは心に浮んだ予感に驚きながら、アンネの顔を覗きこむ。 「ツアーのときに、ジャスティスとツーショット撮ってあげるからね」 「え? ……うん」  本気で赤い顔で俯いたアンネが、肩の三つ編みを撫でて照れ隠しをする。  恋心も、もしかした病気にはいい作用をするかもしれない。  ジャスティスにも使い道があったか。  ローズマリーは自慢げに腕組みするジャスティスの姿を思い浮かべ、苦笑する。 「じゃあ、ちゃんと病気に勝てるように、がんばろうね」  また明日ねと約束して、部屋を出る。  アンネの顔が、いつもより女の子らしく桃色に染まっているように見えたローズマリーだった。
back / 第三部 CODE:セラフィム top / next 
inserted by FC2 system