第三章 小さな命

      
 白衣を着た学生グループを前に、指導医がファイルをもって説明する。 「このグループは今期の学生の中でも優秀な者を集めたと聞いている。だから担当患者の中には重症な 患者も混じっている。だが、自分たちがまだ医師の免許を持たぬ学生であることを心得、スタッフ、ド クターの指示を仰ぐように」  心電図計やナースコールの音が鳴り続ける現場は、いつも緊張感に満ちていた。常に動き続けること を義務付けられたかのように、ひっきりなしに高い足音と苛立ち混じりの指示が乱れ飛ぶ。  そんな喧騒を満たした場所で、身の置き所のない不安を抱えた学生たちが、一つずつ手渡されるフ ァイルに目を通す。  ファイルに並ぶのは小児癌や水頭症と言った、重篤な病名だった。  一番最初にファイルを渡されたローズマリーが見たのは、かねてから聞かされていた通りに白血病の 女の子の名前だった。  名前はアンネ・ヤングソン。11歳。  急性骨髄性白血病。  化学治療を続けながらチロシンキナーゼ阻害剤、イマチニブを投与中。末梢血幹細胞移植を検討中。 「君たちの仕事は主に彼らの看護補助、診療計画立案、他順次プログラム通りに、オペの見学、外来見 学、勉強会に参加してくれ」  忙しい時間を割いているためか、歩く足を止めずに、口を挟む余地さえ与えぬ弾丸トークで医師が学 生たちを先導していく。 「今回の小児科は、よりコミュニケーションのとり方が難しいかもしれない。子どもは自分の症状や気 持ちを、きちんと言葉に表すことができない。だが、だからこそ、体や表情、口調、様々なところから 出るサインをきちんと読み取って変化を見ていかなければならない。だが、現状、医療スタッフが不足 している現場では、ひとりの患者にかかわる時間は、極短くしか取り分けられない」  医師はそこで足を止め、振り合えって緊張した面持ちの学生たちに言った。 「だからこそ、君たちにその補いをしてもらいたい。そして、同時に、君たちが医師になっていく上で の、必要な変化を感じ取ってもらいたい。自分がどんな医師になりたいのか、その理想像を確かなもの にできるように」  医師を再び足早に歩きだしながら付け足す。 「もちろん、俺を理想の医師像にしてもいいけど、ロクでもない医者になっちまうからな」  精悍さと正義感を持った顔つきに、初めて笑みを見せて言う。  その背中を追いながら、ローズマリーも医師の言葉を胸の中で反芻していた。  自分はどんな医者になりたいのか? どんな医療を目指しているのか?  だがそんな思考は、深く沈みこむことなく中断される。 「ローズマリー、ここがアンネの部屋だ」  医師は「仲良くなってくれよ」と一言言い残すと、さっさと残りの学生を引き連れて歩き去っていっ てしまう。 「仲良くね」  それがローズマリーには、最も今回の苦痛となるポイントであることが彼にはわかっているのだろう か?  病気の診断や難しい処置に関する知識を問われるよりも、人間関係を上手に築くように求められるこ とのほうが、なんと気が重くなることなのであろう。  ため息一つでいつもの無表情に幾分かの笑顔をのせて、ローズマリーは病室のドアをノックした。  部屋に入ったローズマリーに気付いているだろうに、アンナはローズマリーに背を向けたまま、ベ ットから下がった足をブラブラと揺らしながら窓の外を眺めていた。  化学療法で抜け落ちた髪を隠すバンダナが頭を覆っている。  だが元々は髪が長かったのだろう。襟足に僅かに残った髪は剃らずに残し、細長い三つ編みを一本、 首筋に垂らしていた。 「アンネ」  ローズマリーはベットの横に立つと、子どもの視線でしゃがみ、声をかける。  その声にチラっと目だけを向けたアンネだったが、表情一つ変えることなく、再び窓の外に視線が移 動させる。  酷く痩せた体をしていた。  体を支えるためにベット上につかれている手首は、子どもらしからぬ骨の浮き上がったあまりに細い 腕で、今にも折れてしまうのではないかとハラハラさせるほどだった。  顔色もいいとは言えず、唇もカサカサに乾いて捲れていた。  無表情に生きる希望の輝きもなく、どこか果てにある虚無という夢幻を彷徨っているかのようだった。  だがその視線が僅かだが動いていることが見てとれた。  アンネの青い瞳が、何かを追っている。  ローズマリーはアンネと同じようにベットの上に座ると、見ているものを探して窓の外を眺めた。  空は高く薄い水色に晴れ上がり、雲が細くたなびいていた。  病院の入院病棟の間には散歩には最適な中庭が設けられ、たくさんの木々が植えられていた。  今も、患者を車椅子に乗せた看護師や、日向で読書をする骨折した足をギブスで固めた青年、そして 近所で飼われているのだろう黒いネコが飛び交う蝶を追って走り回っていた。 「あ、ネコ」  声に出して言ったローズマリーに、アンネは特に反応は示さなかった。  ローズマリーの顔を振り仰ぐでも、興味がわいた空気も出さない。  彼女は一体なにを見ているのだろうか?  仲良くなるにも、心を開いてくれない限りはきっかけが掴めない。  先ほど後ろから見たときには首筋に落ちていた三つ編みが、胸の上でゆれているのが見える。  ピンク色のクマのついたゴムで縛られている。  動物好きなのかな? だからといって、ここにクマはいない。  まさかクマみたいな人?  ローズマリーがバカな思いつきで中庭にいる人を眺める。  するとそんなローズマリーの思考が伝わったのか、アンネが窓の外を眺めながらクスクスと小さく笑 いながら体を震わせる。 「何?」  ローズマリーは頬に浮くえくぼを見せたアンネに問い掛ける。  それに目線はあくまで外に向けたままだったが、ソバカスがいっぱいの顔に笑みを浮かべたまま、ア ンネが口を開く。 「わたしが子どもだから、かわいらしくネコでも見て喜んでると思ったんでしょう」  大人びた喋り方で、チラっとローズマリーを見て、クスっと笑う。  体は平均的な11歳の子どもに比べたら随分と小さい。だが、このバンダナの中の頭の中には、すで に大人が住み着いているらしい。 「違うみたいね。ネコは嫌い?」 「好きよ。うちでは5匹もネコがいるし、そのうち四匹はわたしがミルクをあげて育てんだもの」 「へぇ。それは偉いわね。好きだってだけではできない大変な作業よね。夜中も起きてミルク上げない といけないものね」  そう言ったローズマリーに、初めて視線だけでなく顔を向けたアンネが少しの興味を覗かせた目を向 ける。 「育てたことあるの?」 「ええ。わたしには弟がいるんだけれどね、捨てられていると見ると、ネコでも犬でもウサギでも拾って くるのよ」 「ウサギは落ちてないでしょう?」 「普通はね。でも拾ってきたのよ。スーパーマーケットの駐車場で、弟の自転車の下で蹲っていたって」 「ふ、ふ〜ん」  納得しない顔ながらに頷いたアンネが、再び窓の外に目を向ける。 「ねぇ、何を見てるの?」  何をそんなに熱心に眺めているのだろうか?  もう患者とコミュニケーションをとろうという気持ちよりも、ただ単に好奇心で尋ねたローズマリーに、 アンネがフフフと意味深に笑う。 「あなたは、医学生なんでしょう?」 「そうよ。ローズマリーっていうの。マリーって呼んで」  白衣の胸ポケットのネームプレートを示していえば、アンネが頷き、ついでのように白衣の下の胸の 膨らみにも注目する。 「結構胸大きいね」  時々若い男性患者の場合、セクハラまがいの言動で医学生をいじめる者がいるとは聞いていたが、目 の前にいるのはまだ幼い容姿をした、しかも女の子だ。 「そうね、巨乳はバカに見えるっていって削り取る手術もできるっていうけれど、胸は男のためについ ているんじゃなくて、赤ちゃんのためについているんだから、大きかろうが、小さかろうが、どっちで もいいというのがわたしの見解だけど」  子ども相手に真面目に言い切ったところで、アンネが窓の外を指差した。 「あの木の下で新聞読んでる若いインターンの医者分かる?」  アンネの指が示す方向に目をむければ、確かに上下の白衣に身を包んだ、いかにも新米医師だと分か る男が、パンを牛乳で流し込みながら新聞を読んでいる。  が、明らかに顔は新聞を読むには上がりすぎているし、時々パンを噛む口の動きが止まって何かに気 を取られているのが分かる。 「あのお医者さんがどうしたの?」 「あいつね、今日はもう非番で休みなの。だけど、あそこで家にも帰らずに油を売っているのは、あの 看護師に用があるから」  アンネが含みのある笑みでローズマリーを見上げながら、今度は車椅子を押して患者に散歩をさせて いる看護師を指さす。  言われて今度は看護師に目を移せば、こちらもなにやらあたりを窺うようにキョロキョロと頭を巡ら せている。 「あの車椅子の爺さんはもうボケボケ。だから言いつけられる恐れなし」  アンネの解説の合間にも、次第に中庭の通路の上を進む車椅子がインターンの側に差し掛かる。  そういえばあのインターンのいる場所は、こうして上から見ているからこそ見えるが、多くの医師や 看護師が行き交う外来やナースステーションからは死角になっていて見えない。  と、そのとき、看護師が思い切ったように車椅子ごと木陰に入り込むと、インターンの医師に向って 抱きついた。  それを抱きとめた男が、まるで映画のラブシーンかと思うほどに熱烈な口づけで迎える。 「あ〜あ、ああ」  そんな言葉しかでない。  人の目を気にできないほどに興奮してしまったのか、白衣の裾から太ももが顕わになるのもお構いな しに、看護師がインターンの膝の上に馬乗りになって押し倒す勢いでキスを続ける。  その背後ではピクリとも動かない痴呆患者のお爺さんの背中。  呆気に取られてその様子を眺めていたローズマリーだったが、インターンの男の手が白衣の裾を割っ て看護師の太ももを上がり始めたところで、立ち上がるとアンネの前に立ちはだかった。 「これ以上はちょっと大人として子どもに見せられないなぁ」 「え〜、これからがいいところなんでしょう!」  にやけた顔でローズマリーを見上げたアンネだったが、どいてくれそうにないローズマリーに肩をす くめると、上体を預けられるように上げられたベットに寄りかかって横になる。 「なかなかの見世物でしょう」  とても胸にウサギの人形をかかえながら美少女が言う言葉とは思えないことを言いながら、アンネが 微笑む。 「まあね。あの二人はよくあそこでああやって逢瀬を楽しんでるのかしら?」 「毎週木曜日の午前11時。このあと二人で当直明けになって明日はお休み。このままホテルに直行?」  ウサギの人形と確認を取り合いながら言うアンネの笑顔に、ローズマリーはしゃがみこんで顔をよせ る。 「アンネは病院内の事情によく通じてるのね」 「まあね。白血病なんて言ったって、抗がん剤の点滴がくるまでは元気だもん。暇だからナースステー ションに忍び込んでは勤務表写して誰がいつ休みか覚えたり、誰と誰ができてるか調査したりね」 「調査?」  入院中の女の子らしからぬ単語に、ローズマリーが眉を上げて見せる。  その反応が嬉しかったのか、アンネは枕元の本を一冊取上げてローズマリーに見せる。  本の題名は「キツネの名探偵」。 「探偵になりたいの?」  その問いには微妙な顔をして首を傾げたアンネだったが、最初の数ページを開いて眺めながら言う。 「ここに出てくるキツネはね、なんと通信教育で探偵になっちゃうの。だったらわたしにもなれるかな って、確かめ中」 「十分素質ありね」  ふふふと笑ったアンネが嬉しそうにはにかみ、本で顔を隠す。 「謎を解くのが好きなの。でもなぞなぞなんて子ども騙しじゃダメ」 「ミステリー好きってことね」 「うん」 「じゃあ、今度一緒に病院ミステリーツアーにでも行きましょう」  これには素直に頷いたアンネだったが、すっと視線をそらすと窓の外を示す。 「そろそろキス大会もお開きだと思うけど、見てみれば」  時間の統計まで取っていたのか、自信たっぷりに言う顔に苦笑を浮べ、ローズマリーが窓の外に目を 向ける。  そには別れを惜しむように立ち上がり、車椅子の押し手に片手を添えながらもキスを繰り返す二人の 姿があった。  それでも思い切ったように車椅子を押して歩き出した看護師が、パタパタと乱れた白衣を直し、髪を 撫で付けている。  そして残された方のインターンはといえば、顔中を口紅のピンク色に染め、なかば呆然と取り残され て座っているのであった。  思わずその間抜けな姿に噴き出したローズマリーは、いつの間にやら隣りに立っていたアンネと顔 を見合わせ、声を殺して笑いあうのであった。
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