第二章 掲げられた道しるべ


      
 レイリとフェイが帰った後の片付けをしながら、ローズマリーがため息をつく。  人が来た後は、いつもは何も感じることはない屋敷に、ひどく閑散として人寂しい空気が漂う。  それに楽しんでいた高揚が友人の帰宅とともに消え失せるためか、一気に気が抜けて体から力も抜け てしまう。  テーブルに残っていた紅茶に口をつけながら、ほーっとため息をつけば、横からジャスティスが顔色 を窺うように覗き込んでくる。 「何?」  幾分機嫌が悪い声で応じれば、触らぬ神にたたりなしの勢いでサッと背をむけ、机の上や流しに残る 洗い物を片付けに走り去る。  どのタイミングで何を言えば怒られるかを経験で体に染み込ませているジャスティスの行動に、余計 に腹が立つものの、当りたくてもやってくれていることは文句のつけようもない、自分の手伝いなので、 仕方なく口をつぐむ。  それに、今日はジャスティスの大学合格祝いなのだ。そのお祝いの主役に後片付けを全てやらせるのも 筋違いという気もしなくもない。 「しょうがない」  気乗りしない自分に言い聞かせるように立ち上がると、テーブルに残っていたティーカップやスプー ンを手にキッチンへと入っていく。  そして案の定ジャスティスはシャカシャカと音を立てながら、腕まくりした手で皿を洗っている。 「あ、姉さん、休んでていいのに。今日のパーティーの準備で無理してたみたいだし」  ジャスティスが泡だらけの手で自分の目の下をなぞってみせる。  その手の動きに、ローズマリーはフンと鼻で笑うと、ジャスティスの立つキッチンの流しの中にティ ーカップを突っ込む。 「もちろん洗い物ぐらいはジャスティスにやってもらうわよ。キレイに頼むわよ」  思っていたことと違うことを口にしながら、シャツの腹の辺りに水を飛ばしているジャスティスの腰 に、自分がいつも使うエプロンをかけてやる。 「あ、ありがとう」  素直にお礼を言ったジャスティスが、楽しそうに皿洗いをするのを、横に立って眺める。 「ずいぶんと皿洗いが好きみたいね」 「ん? そうなのかな?」  笑顔で真っ白な泡を立てるスポンジを手の中で揉み、水遊びをする子どものようにはしゃいだ顔をし てみせる。  ローズマリーはその横に立って、ジャスティスの洗った皿をゆすぎ始める。  几帳面なジャスティスらしく、キレイに大きさ順に重ねれた皿は、泡を落とせば真っ白な陶器の肌を みせてくれる。 「この泡の下からキレイに見える絵柄を改めて見るのが好きかな?」  ジャスティスがローズマリーの手の中で水を弾きながらキラリと光る皿を見ていう。 「絵柄?」 「うん。料理がのっている時も、食べ終わったお皿にしても、お皿そのものの美しさってよく見ないよ ね。だから、お皿洗ってピカピカになって初めて、こんな絵が書いてあったのかって今さらながらに気 づいて、ちょっと感動するから」 「ふ〜ん」  ローズマリーも白い皿の周りを縁取って咲くカラフルなフルーツと花を描いた絵を見て、言われれば そうかという思いで一時眺める。 「そういえば」  ローズマリーは皿を積み重ねながら、ジャスティスに言う。 「今日の朝まで部屋にこもって描いてたの、レイリの絵だったのね」  先ほど帰っていったレイリが大事そうに抱えて帰っていった。そのときに見せてもらったアルブレヒ ドと手を取り合うジゼルの横顔は、少女から女へと変わり行く儚い恋の喜びに満ちていた。  あんな絵がこの子に描けるなんて……。レイリが喜んで見せてくれた絵を見ながら思ったのがこの考 えだった。  たとえレイリの舞台が素晴らしくて触発されて描いたからだとしても、ジャスティス自身があの初恋 の淡い幸せと身を焦がすような熱い思いを込めなければ、あんな絵にはならないのではないかと思った のだ。  やっぱり、この子はレイリのことが好きだったのかしら?  ローズマリーはそんな思いで、隣りの弟を見る。  だが、そこにあるのが幸せそうな横顔であるのを確認し、きっと気のせいねと思い過ごす。 「ジャスティス。あなたは医者になるよりも、画家になったほうがよかったんじゃないの?」  ローズマリーがしみじみと言えば、皿を洗い終わったジャスティスが手の泡を水で洗い流しながら首 を傾げて宙を見据える。 「ん〜、そうかもね」  ほんの僅かな逡巡で言い切った弟に、これからかなり過酷な医学部が待っていることが分かっている のかと不安にもなる。  ジャスティスは洗い終わったばかりのグラスに水を注いで飲むと、流しや窓辺に植えられたポトスや ハーブにグラスの残った水を注いでいる。  水を注ぎながら、触れれば芳しい香りを放つハーブたちに鼻を寄せ、何事かを話し掛けながら触れて いる。  そんな姿は、画家になるか、あるいは園芸家でもいいのではないかと思ってしまう。 「ジャスティス、あんたは何で医学部に入ったわけ?」  すすぎ終わった皿を拭くためにフキンを手に取って尋ねるローズマリーに、ジャスティスは自分も手 伝うことを示して、フキンを貸してと手を差し出す。 「医学部に入った理由? 姉さんがいるからかな?」 「はぁ? あんたそんなことで自分の大事な将来を決めたわけ?」  あきれ返って皿を拭く手を止めて言えば、呆気ないくらいにジャスティスが「うん」と頷く。 「ああ。あとね、ぼく注射嫌いでしょう。だからかな」 「だからって?」 「風邪にしても悪化してしまうと自己免疫まかせにするわけにいかなくて注射うつでしょう? だった ら、お医者さんくらいに病気の知識を身に付けて、注射が必要ないように自己管理しようかなって。あ と、注射するなら自分で覚悟決めてしたほうがいいじゃん」 「………ジャスティス………」  ローズマリーは胸の内でつぶやく。  君は医学部に学生同士でする注射の練習があることを知らないんだね。針を刺す角度もなにも分かっ てない学生同士の注射は、そりゃ痛いんだってことは、この際内緒にしておきましょう。  憐れな子羊を見るような姉の視線に目をばちくりしながら、ジャスティスが皿を拭く。 「それじゃあ、姉さんは何で医学を志したわけ?」 「わたし?」  ローズマリーは思わず自分に回ってきたお鉢に、言いにくそうに顔を顰める。  弟と将来の夢を真面目に話すことこそ、なんだかこそばゆいような気持ちになる。  誤魔化そうかと天井を見上げる振りでジャスティスを見れば、真剣な目が自分に注がれている。  甘い考えて医学部に入ってきたらしいジャスティスに喝を入れるためにも、少し真面目に語っておく べきか。  ローズマリーは拭いていた皿を重ねて食器棚に入れながら、口を開いた。 「医者になろうって思ったきっかけは、ジャスティス、あなたね」 「ぼく?」  皿を受け取るために後ろに立った弟に、ローズマリーが頷く。 「あなたが子どものころに拾ってきたでしょう、ダイアナを」 「フェイと拾ってきたあの犬?」  雨にうたれながら、捨て犬を守りたいと公園のダンボールに犬と一緒に濡れながら入っていたジャス ティスの姿は、今でも鮮明に脳裏に浮ぶ。  飼うことを許可したあと、フェイと一緒に犬を家に連れ帰ってきたジャスティスは、嬉しさのあまり に鼻血を出して倒れ、あまつさえ、雨にうたれたことで熱をだして寝込んでしまったのだった。  その間、ダイアナと命名された犬の世話に通ってきたのがフェイだった。  その後7年あまりをローズマリー、ジャスティスとともに過ごしたダイアナは、最期、重い心臓の病 気にかかって死んでしまったのだった。  心臓弁膜症であったダイアナは、最期には血を吐き、貧血と激しい眩暈から苦しそうに鳴き、ローズ マリーとジャスティスで、交代で寝ずの看病を数週間続けたのだった。 「あんなに苦しがって、それでも必死に生きようとしている姿に、生き物の命の尊さを痛感したのよ。 人を含め、生き物は必死に命のしがみ付いて、手放したくないって生きてる。その命を、ダイアナのよ うに苦しみのうちの終えなければならないなんて、なんて理不尽なんだろうってね」 「……そっか」  あの最期の日々を思い出したのか、俯いたジャスティスが呟く。  ジャスティスは、ダイアナが死んだ後も、冷たくなっていく体を抱きしめて離れずに一晩一緒に床に うずくまって寝ていた。  泣き疲れて寝た後も、決してダイアナの体を離さなかったジャスティスの姿も、またローズマリーに 医学の道を志させた一因であった。  両親が外国で暮らすために母親がわりでもあったローズマリーは、体が弱いジャスティスが熱を出す たびに看病してきたのだ。  家にあった医学書を開いては、40℃を越す熱にたくさん作った氷で額だけでなく脇や鼠径部を冷や すことを学び、真っ赤に腫れあがった喉に、嫌がるジャスティスを宥めてイソジンを塗ってやったりも したものだった。  あの頃から、素人看護師であったのだ。  病人の面倒を見ることに慣れていた。そしてもっと正確にその道を極めてみるのも悪くないと思った のだ。  自分に臨床の道が合っているのかと問われれば疑問だが、医学の道に進んだことに後悔はない。  ことに命の誕生にかかわる産科には、大きな関心を持っていた。  それにしてもと、ローズマリーはボーっとキッチンの窓辺に下がったポトスの葉を掴みながら外を眺 めるジャスティスを見ながら思う。  血が嫌いなこの子に、医学部は堪えられるのだろうか。遺体の解剖だってあるのに。  そう思って眺めていたジャスティスが、不意にローズマリーに向って振り向くと笑顔を見せた。 「そういえば、ぼくも医者を目指した理由があったよ」 「何?」  ローズマリーは期待しないよと態度で示しながら、エプロンを外すとキッチンのイスに腰を下ろす。 「姉さんがかっこよかったから」  ジャスティスが嬉しかろうという顔で寄って来て、目の前にイスに座るのを不信の顔で見やる。 「何その顔。本気で言ってるんだよ。いつもは怖い姉さんなのに、ぼくが熱出すときはすっごい優しく て、熱でだるくて喋るのも億劫で伝えたくても伝えられないことを、テレパシーがあるのかと思うほど、 言わなくても叶えてくれたのが姉さんなんだよね。喉渇いたなって思えばお茶を運んできてくれて、熱 の合間におなかが減れば、ヨーグルトを持って来てくれたり。あと、具合が悪くて心細いときは、寝る まで側にいて手をつないでいてくれたでしょう」 「……そんな子どもの頃のこと」  昔を思い出し、照れたように目をそむけるローズマリーに、ジャスティスが笑う。 「子どもだからこそだよ。同じ子どもなのに、姉さんはまるでお医者さんみたいにテキパキと看病して くれて、どんなことになっても姉さんがいれば、ぼくは大丈夫だって安心感があったよ。だからかな。 ぼくもそんな大人になりたいって思ったんだ」 「へぇ」  そっけなく返事を返して立ち上がったローズマリーが、ティーポットに水を入れてコンロにかける。 「お茶、飲む?」  顔上げないままに言うローズマリーに、ジャスティスが頷く。  キッチンの窓辺で育てているハーブを何枚か摘み、ビンに詰められていたローズの花びらなどとブレ ンドをはじめるローズマリー。  だがその横顔が、いつも以上に輝いているのを、ジャスティスは見逃してはいなかった。  そして胸のうちでそっと呟くのであった。  本当だよ。いつも感謝してます。もちろん、怖い姉さんだって事実は変わらないけどね。
back / 第三部 CODE:セラフィム top / next 
inserted by FC2 system