第二章 掲げられた道しるべ


 
「ねえ。あの二人うまくいくと思う?」
 廊下を並んで歩いていたジャスティスに、レイリが声をかける。
「さあ。フェイは随分前から姉さんのこと好きらしかったけど、弟のぼくからしたら、あの姉さんのど
こにそんなに惹かれたのか、全く持って理解できないからね。どうだろうね。でも、あいつ、のらりく
らりと真意を見せないようなところがあるけど、芯の部分は真面目で考え深い人間なんだと思うんだ。
だから、針みたいに尖った姉さんのことも、うまく受け止められるかもなとは思うんだ」
「へえ」
 レイリは天井を見上げながら言うジャスティスに頷くと、その腕に自ら腕を絡めた。
「ジャスティスって、結構ちゃんとお姉ちゃんのこと考えてるんだ?」
「……さあ? どうかな」
 ジャスティスは、レイリが自分の腕に体を押し付けてくることの方に眩暈のような興奮を感じ、それ
を気取られないようにするのに精一杯になって赤い顔で目をそらす。
 ローズマリーとフェイを庭に追いやり、二人がつかず離れずの距離で歩き出したのを見て、ジャステ
ィスの方からレイリを自分の部屋に誘ったのだった。
 もちろん下心があるわけではない。あの、自分がここ数日部屋に引きこもって描いていた絵を見せる
ためだった。
 だが無邪気に身を寄せられると、よからぬ期待が心の中で頭をもたげ、ジャスティスを窒息させる。
 わざとらしく咳払いをしながら、気持ちを入れ替える。
 紳士であることを忘れるなよ、自分!
 ジャスティスは自分の部屋のドアノブに手をかけながら、一瞬目を瞑って自分の中の良心と良識に頼
み込む。
 そしてそっと振り向くと隣りにあるレイリの笑顔に微笑みを向ける。
「絶対びっくりするもの見せて上げるよ」
「何かな? ジャスティスが見せてくれるって」
 お世辞ではない、本気のわくわくで頬をほんのり桃色に染めたレイリは、舞台の上の完璧な女性とし
ての美しさとは違う、少女のような瑞々しいリンゴのような香気を発していた。
「じゃあ、目瞑ってくれる?」
 レイリの手を握って言えば、何のためらいもなく、レイリが目を瞑る。
 ああ、キスしたいな。
 ジャスティスはピンク色に塗られた唇を目の前にして、素直な気持ちが声を大にして訴えてくるのを
飲み込み、ドアを開けるとレイリの手を引いて歩き始める。
 部屋の正面の窓の向こうで、庭に座りこんで何か話し込んでいる姉とフェイの姿が見える。
 笑顔でローズマリーに話し掛けているフェイと違い、隣りに座り込んでいる姉の顔は良くは見えない
が、どうせ楽しそうには決して見えない仏頂面をしているに違いない。
 フェイ、がんばれよ。
 ジャスティスは心の中で親友に声援を送る。
 そして自分のほうはレイリに「ちょっと待っててね」と声をかけて、白い布で覆ったキャンパスの前
にレイリを立たせて手を離す。
「なんなのかな? 本当に楽しみなんだけど」
 レイリが目を瞑ったままで、零れ落ちそうな笑みを浮かべて言う。
 ジャスティスはキャンパスを立てたイーゼルの後ろに立つと、白い布に手を掛けた。
「レイリ。目、開けていいよ」
 ジャスティスの声に、レイリの青い目が瞼の下から現れる。
 肩にかかる金の細い髪といい、ピンクの小さめの唇といい、青い目といい、どれをとっても人形のよ
うに美しかった。
 その美しい人形が、目に映ったものに感動して目を見開き、それから口を手で覆って食い入るように
目の前の絵を見入る。
「これ、わたし?」
「そう。ジゼルが天使となって昇天する直前の、崇高で透明感に満ちた愛に包まれた瞬間の笑顔」
 ジャスティスは自分もレイリの隣りに立つと、一緒に絵を眺める。
 レイリの舞台を見た後、目の裏に焼きついて離れなかったのが、この瞬間のジゼルの顔だった。
 アルブレヒドとの完全なる別れを前に、それでも何ものにも替えがたい、命を捨ててまで望んだ最愛
の男性の愛情を命の糧として美しくも悲しく微笑む姿。
 透明なブルーの、壊れ落ちそうなガラス質な愛情の固まりが、砕けそうになりながらも、淡く明けて
いく朝の光の中で溶けていく。
 もう決して誰にも壊されることも、触れられることもない崇高なる愛の形となってアルブレヒドの胸
の中に沁みこんでいった、消えることのない愛情。
 それをどうしても形にしてみたかったのだ。
「すごくキレイ。ジゼルの最後の苦しみから解放された、真の愛情によって束縛から自由にされた喜び
が伝わってくる」
 瞬きすらせずに見入ってくれていたレイリの目に涙が浮かび上がり、ジャスティスと目が合うと、に
っこりと微笑み、目に溜まった涙をスッと流す。
「嬉しいな。あの舞台から、新たにこんな芸術を生んでくれたなんて。わたしの踊りが、ジャスティスに
こんな世界を見せられたなんて、最高に幸せ」
 レイリはジャスティスの両手を取ると、ギュッと握った。
「ありがとう、ジャスティス」
 照れた顔で俯き加減で頷いたジャスティスは、そっと両腕の中にレイリを抱きしめた。
「ぼくの方こそ、涙を流すくらい喜んでもらえて光栄。これを、レイリのプレゼントとして贈らせて」
 ジャスティスの胸から顔を上げたレイリが、「いいの?」と尋ねる。
「うん。レイリにあげるために描いたんだもん。いらないって突っ返されたらどうしようって」
「そんなことしないわよ。将来高くなるかもしれないじゃない」
「さあ? レイリが有名なバレリーナになれば、それだけ価値が上乗せになるかな?」
 目の前にあるレイリの顔に冗談めかして言えば、いたずらっ子の目をしたレイリに見つめ返される。
「高くなったら売っちゃおうかな」
「ダメ! ずっとレイリの側に置いておいてもらわないと」
「わかってるわよ。ありがとう、ジャスティス」
 レイリがジャスティスの頬にキスをする。
 一瞬の接触の、弾むような感触に全神経が集中する。
 レイリの唇の感触を思いの中に刻む。
 レイリにはカルロスがいる。あんな表情ができるまでに彼女に切ない恋心を教えた男が。
 ぼくの憧れはここでおしまい。
 ジャスティスはレイリの微笑むと、キャンパスをイーゼルから持ち上げ、レイリに手渡した。
 レイリへの恋心を詰め込んだ絵は、今、本人の手に渡る。
 これで満足。
 ジャスティスは自然と心の中に受け入れられた気持ちに頷く。
 その静かなる気持ちに漂っていたい気持ちだった。だが、それは外から聞こえてきたローズマリーと
フェイの大きな声で断ち切られる。
「何が責任だ! お前こそ責任取れ!」
 ローズマリーの怒鳴り声が窓の向こうからはっきりと聞こえ、ジャスティスとレイリが顔を見合わせ
る。
 それからどちらともなく噴き出すと、声を上げて笑った。
「どうなるのかしらね、あの二人」
「でも結構お似合いかもしれないね」
 大切そうに胸に絵を抱えたレイリを伴い、二人も庭へと向かって歩き出す。
 片手に絵を下げ、レイリと繋いだ手が、ジャスティスに子どもの頃に女の子とはじめて手をつ
ないだときの甘酸っぱいときめきを思い出させるのであった。



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