ACT 4



 布団の中から顔を覗かせ、カーテンで遮られた窓の外を見る。
僅かな隙間の向こうに、すっかり闇の落ちた夜の空気が見える。ざわざわという風に揺れる木
の葉の音と、いびきの音、そして時折混じる看護婦さんたちの足音。
「まだかな? お歌の練習」
 布団の中にいるとそのぬくもりで、ともすると落ちそうになる瞼に、ぼくは慌てて目を擦る。
 あったかいから眠くなるんだよ。
 もぞもぞと布団の中から這い出したぼくは、ベットの上から足だけを下ろすと、ブラブラと
揺すり始めた。
 きっと外は暗くなったけれども、真夜中にはまだ何時間かあるに違いない。
 待つだけの時間が退屈で、そして同時に本当にまたあの歌の練習があるのか不安で仕方がな
かった。
 なかったらどうしようという焦りが、時間の進みをいやにゆっくりに変えてしまう。
「おしっこに行こう」
 ぼくはお便所へと、廊下をペトペトという足音を立てて歩いていく。
「あれ、ユウ君、またおしっこ?」
 ナースステーションの中で書き物をしていた看護婦さんが声を掛けられて、ぼくはギクリと
して足を止めた。
「う、うん」
「おなかでも壊した?」
「ううん。違うよ。えっとね、今日ちょっとお昼寝しちゃったからまだ眠くなくて」
「そうなの? でも、ちゃんとお布団の中に入ってないとダメよ」
「うん。お水飲んだらまた、お布団に行くよ」
「そうしてね」
 うなずくぼくに、看護婦さんが再びペンと取って書き物をはじめる。
 その隙にぼくは看護婦さんの後ろのある時計をチラリと見た。
 針は十時四〇分を示していた。
 昨日女の子に会ったのは、きっと十二時くらいだったのだと思う。
 もうすぐだ。
 それまで寝ないように、布団の中で格闘だ!
 眠くなったら、ギュッと腕をつねって、我慢しよう。

 看護婦さんの見回りも寝たふりでやり過ごし、ずいぶんと長い時間を布団の中で待ち続けて
いたときだった。
 遠くからあの歌声が聞こえてくる。
 ぼくは布団を跳ね除けると、慌ててベットから飛び降りた。
 そっと廊下に忍び足で抜け出し、ナースステーションの中を覗く。
 誰もいない。
 さっとその前を駆け抜け、階段を下りていく。
 女の子の歌声は、昨日とは違って少し悲しげな雰囲気を漂わせながら、それでも空気に溶け
る鈴の涼やかな音のように聞こえていた。
 大気が女の子の声に震えていた。

―― 春の訪れ 膨らむ木の芽
   赤く色づくその膨らみは、あの子の紅をさした唇
   そっと開いたその柔らかな 中から溢れた命の息吹
   ピンク色した花びらが 幸せそうに微笑んで

   夏の到来 さざめく木の葉
   きらめく朝露ゆれる蓮 風に波打つ水面の水輪
   燦然輝く太陽に 手の平かざした空の色
   青に燃え立つ白い雲 ぼくを乗せてどこまでも

   秋はひっそり 囁く大地
   揺れる稲穂の金色は 地球の命を閉じ込めて
   群れなす赤いトンボたち どうかわたしの頭を撫でて
   どうかどうかいつまでも わたしのことを覚えていて欲しい

 中庭に出たぼくに背を向けた女の子が両手を広げて歌っていた。
 ぼくは両手を叩いて拍手を送る。
「ユウ君、今日も来てくれたんだね」
「うん。君に会えるのをずっと待ってたんだ」
 女の子が微笑みながら「ありがとう」とうなずく。
「ユウ君、体の調子はどう?」
「うん。すっかり良くなったみたい。本当にあのお薬効いたよ!」
 すっかり胸の具合が良い事を示そうと、ぼくは女の子の前でラジオ体操の大きく両手を開い
て息を吸ってみせる。
「本当ね! よかった。わたし、ユウ君のことが大好きだから、病気も早く治って元気に笑っ
て欲しかったの」
 大人びて見えていた女の子が、本当に嬉しそうに笑って胸に手をついてホッとした表情を見
せた。
「それで、ぼく、君にお願いがあってここに来たんだ」
「お願い?」
 女の子が「何?」と小首を傾げる。
「あのね、ぼくの友達のマサじいが、今病気が悪くなって倒れてしまったの。だから、マサじ
いにも、ぼくのと同じお薬を作ってくれないかな?」
 きっと女の子はマサじいのことも助けてくれる。ぼくは信じていたし、絶対にマサじいを助
けたいという思いで、じっと女の子の目を見た。
「……マサじいね。いつもユウくんを助けてくれたおじいさんね。一度、マサじいと一緒に散
歩していたわよね。わたし見たわ」
 でもそう言った女の子の顔が、悲しげに沈む。
 月の下でも煌めいていたその大きな瞳が、ぼくから逸れて下を向く。
「あのね、あのお薬は、わたしの歌を直接聞いた人にしか効果がないの。マサじいはここまで
来れないでしょ?」
「だったら、お願い。君がマサじいのところまで行って歌ってよ!」
 必死に言ったぼくの前で、女の子の顔が泣きそうな顔に変わる。
「お願い。マサじいはぼくの友達なんだ。病気に負けそうになると、いつも大丈夫だって励ま
したり、叱ったりしてくれた大切な友達なんだ。今、マサじい、とっても苦しそうなんだ」
 女の子の手を掴み、ぼくはうな垂れた女の子に訴えた。
「でも、お薬はわたし一人では作れない……」
「え?」
 女の子の長い髪が風に揺れるのを見つめながら、ぼくは女の子の言葉に呆然とした。
 マサじいのお薬はもらえないの?
 でもそのとき、女の子の声ではない声が言った。
「いいよ。ぼくが一緒に行って上げる」
 いつからそこにいたのか、女の子に背に隠れるようにして、ぼくより小さな男の子が立って
いた。
 すっきりした切れ長な目をした男の子が、膝を抱えて座っていた。
「ぼくが雫を運んであげるよ。その雫に歌を込めれば薬になる」
 男の子が女の子に向かってうなずく。
「ね、行こう。マサじいを助けてあげたいよ」
 男の子が女の子のスカートの裾を引く。
「本当にいいの?」
 女の子の問いに、男の子が迷いなくうなずく。
「マサじいは、ぼくに声を掛けてくれた人だから」
「……分かったわ」
 女の子は今までにぼくが見てきたのとは違う、とても真剣な顔でぼくに言った。
「マサじいの所に連れて行って」



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