ACT 3



「側にいてもいいけれど、祐くんも無理してはダメよ。祐くんまで具合が悪くなったりしたら
元気になったマサじいに怒られるからね」
 看護婦さんに念を押されて、素直に頷いてぼくはマサじいの眠るベットの側へとイスを引い
ていき座った。
 呼吸器を着けたマサじいが、苦しそうに胸を上下させながら寝ていた。定期的に喉の奥から
ゲロゲロと痰が絡んだ音が響き苦しそうだった。
 その痰を口からチューブを入れて看護婦さんが吸い取りに来ることがあるのだが、その度に
苦しそうに体を捩るマサじいを見ているのが辛かった。
 ぼくはマサじいの手を握る。黒く日焼けしたパリパリした皮膚が骨の上に張り付いたような
手だった。
 その手でよくたくわんを持ち、歯の生えていない口でおいしそうにボリボリと食べていたの
を思い出し、笑った。
「マサじいは甘いものも好きだけど、お漬物も大好きなんだよね」
 話しかけるぼくの声に、マサじいの瞼が少し動く。
「マサじいがよく言うオトミって、マサじいの奥さんだった人のこと?」
 ぼくはマサじいの口真似で耳元で言った。
「このたくわんもうまいがな、オトミの作る漬物は誰にも真似できん。もう、あの味は味わえ
んだな」
 マサじいの手がぼくの手の中で動いた。
「マサじい、ぼくもね、かわいい女の子に出会ったんだよ。しかもね、その女の子に病気を治
してもらったの。
歌が上手な子でね、その歌で病気を治すお薬を作ってくれるんだよ。すごいでしょう」
 そこまで話し、ぼくはハッと顔を上げた。
「そうだ。あの子にマサじいの分もお薬を貰えばいいんだ」
 マサじいの青白い顔を見つめて、ぼくはマサじいの耳元に顔を近づけた。
「マサじい、絶対にぼくがお薬もらってくるからね。だから、それまでがんばっててね」
 ぼくの目には、かすかにマサじいが頷いたように見えた。つるつるの髪の生えていないマサ
じいの頭を撫でてあげると、折りたたみのイスを畳んだ。
「祐くん、マサじいと何お話してたの?」
 病室を出て行こうとするぼくに、看護婦さんが声をかけてくる。
「内緒」
 ぼくは秘密だよと口にチャックをする動作をすると、看護婦さんが「ケチ」と言いながら笑
う。でも、なんとなくこれは秘密にしないと効果がなくなってしまうような気がしたのだ。
 これは、ぼくとあの子と、マサじいだけの秘密。誰にも話してはいけないんだ。

 お昼ごはんの後、ぼくは昨日の中庭に出てみた。
 ただ広い空間にたくさんのクローバーが花を咲かせ、所々に転がる大きな石の上に、歩き回
る元気のある入院患者が座り、外の空気を吸っていた。
 山奥のこの病院は、周りにたくさんの木があるから、肺の病気には大切なキレイな空気があ
るのだとお医者さんが言っていた。
 昨日の夜に女の子が立っていた辺りまで歩いていく。
 そこで大きく息を吸い込んでみる。いつもは大きく吸うと咽るぼくの胸は、何の違和感もな
く空気を吸って大きく膨らみ、ゆっくりと吐き出しても苦しくもなかった。
「本当に治っちゃったのかな?」
 マサじいが倒れて、今まで病室の中で緊張した時間を過ごしている間は、絶対に起きたこと
で、マサじいのためにもお薬をもらえるように頼もうと思っていたのだけれど、こうして昼間
の太陽の下で昨日の出来事を思うと、それが本当に起きたことなのだと胸をはって言う自信が
なくなっていた。
 空は遥か遠くで風を運んで澄み渡り、その下で鳥たちが自由に羽ばたいて飛んで行く。たく
さん花をつけたシロツメクサには紋白蝶やミツバチが止まり、その間を縫って歩く入院患者が
笑顔を見せていた。

 ぼーっと何も考えずに座っていると、何もかもが夢の中の出来事のようで、何が本当の現実
なのかが分からなくなる。
 昨日の闇の中でみた景色が強い太陽の光の下で溶けていく。
 でも――。
 ぼくは寝ぼけていくような頭を振ると、立ち上がった。
 疑ったりなんかしたらいけない。マサじいを助けるためにも、ぼくが信じなくてどうするん
だ。
 夜を待とう。あの女の子がまた歌の練習に現れる夜を。
 ぼくは寝不足で落ちてしまいそうになる瞼を擦ると、中庭を後にした。
 そしてふと、足元で咲いていたピンクの矢車草に、また夜に来るからねと声をかけた。


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