ACT 5



 右手を女の子、左手を男の子とつないだぼくは、「看護婦さんたちに見つからないようにね」
と小声で囁きあいながら、そっと廊下を歩いていく。
 寝静まり、薄暗いわずかばかりの光だけになった廊下は、そこらじゅうにたくさんの影を作
っては、驚かせるおばけを匿っているように見える。
 ぎゅっと強く握られた手に、ぼくは女の子を見下ろした。
 少し蒼ざめた顔でぼくの腕に体を寄せる女の子に、ぼくは少しお侍さんのような気持ちで、
ちょっとばかり胸を張る。
「大丈夫だよ。病院は別に怖いところじゃないからね。それに、ぼくが一緒でしょ?」
 頼っていいよ。と言いたくて笑顔で女の子の顔を覗き込めば、少し安心したようにコクンと
頷く。
 男の子の方もいくぶん顔色は悪いが、それでもまっすぐに前を向いて歩いていた。
「ねえ、マサじいの病気も治せる?」
 いびきや痰の音が聞こえてくる病室の前を通り過ぎながら、ぼくが女の子に小声で尋ねる。
「……うん。たぶん治せるよ。……でも……」
「でも?」
 いつもより暗い表情でうつむく女の子に、ぼくは不安になって眉を寄せた。
 その顔を見上げた女の子が、でもの続きは言わずに笑顔を浮かべた。
「心配しないで。ちゃんとマサじいを治して上げるから。わたしの歌声はこの病気にすごくい
いの」
 女の子の手の平が、大丈夫だよとぼくの手を強く握ってくれる。
「うん」
「ぼくも、マサじいを助けるために命をかけるよ」
 男の子が前を向いたまま、真剣な顔で言う。
 きっと命をかけるくらいに、男の子はマサじいが好きなんだな。ぼくはそう思ってただ頷い
た。

 マサじいは相変わらず苦しそうに赤い顔で、酷い音を立てながら息をしていた。
 息を吸うごとに喉の奥がゴロゴロとなり、目を閉じていても時々苦しそうに「うー、ううー」
と唸り声を上げる。
 ぼくはマサじいの枕もとに顔を寄せる。
「マサじい、ぼくだよ。ユウだよ」
 少し大きな声でそう告げると、マサじいがうっすらと涙で潤んだ目を開けた。
 マサじいの口が「ユウ」と動く。だが痰が絡んだその声は酷くかすれてよく聞き取れなかっ
た。
「ほら、ぼくのお友達でとってもお歌のうまい女の子がマサじいのお見舞いに来てくれたよ」
 右手の女の子をマサじいに紹介する。
 女の子はピンク色のスカートの裾を摘まんで、お嬢様のように優雅にお辞儀をした。
 その姿に、マサじいも笑顔を浮かべて頷いたが、すぐにゴホゴホと湿った音のする咳をした。
 その手をぎゅっと握った男の子が、心配そうのマサじいの顔を見つめた。
「大丈夫ですか? ぼくマサじいを助けるためにがんばるから」
 男の子の顔をじっと見つめたマサじいが、嬉しそうに微笑むと、男の子の頭に手を伸ばし、
振るえる指で撫でてやる。
 それを嬉しそうに目を閉じて受け入れた男の子に、女の子が告げる。
「歌の準備をしましょう」
「……はい」
 見上げられて頷いたぼくは、女の子から手を放し、少し下がると並んで手をつないだ二人
を見つめた。
 男の子が左の手の平をおわんのように丸める。
 覗きこんだぼくの目に、透明な雫が浮んでいるのが見えた。
 あの雫が女の子の歌を吸って、お薬になるのだ。
 女の子が大きく息を吸い、片手を胸に置いて歌い始める。

―― 荷車乗った花嫁さん
   はじめて目にした瞬間に、あなたは恋に落ちたのです
   うつむき 頬染め 微笑んだその笑みは
   まるで真っ赤に実った林檎のようで
   震える両手をぎゅっと握り、あなたは言ったのです
  「君を一生笑顔で過ごさせてあげるから」

   黄色のスイレン 足元に咲かせ
   あなたがじっとわたしを見つめてた 白無垢で隠れたわたしの顔
   丸く大きな黒い瞳は まるで黒曜石のように輝いて
   わたしは恋に落ちてしまったのです。
  「わたしを一生、お側に置いてくださいませ」
   震える声で言うのが、わたしはすごく恥ずかしかった

   一緒に汗拭き畑のあぜで
   並んで食べたお饅頭。あなたの大好きな胡桃入り
   笑顔で頬張るその顔が、わたしは何より大好きでした
   生まれた赤子をあやす笑顔 真剣に畑を耕すその横顔
   いつも見とれていたことを 
   あなたは知っていたのかしら?
  「わたしは世界一の幸せ者よ」 あなたは信じてくれたかしら?
   あの日のわたしの最期の言葉

   もう一度 あなたに伝える恋の歌
   今でもあなたを愛しています。そばにあれたこの喜びは
   死しても消えることはなく
   あなたもわたしを愛していますか?
   ならばこの願いを聞き入れたまえ
   まだその命の炎を消すことなかれ
   大事な炎を手の平で守れ わたしを愛した記憶とともに

「お、おとみ……」
 マサじいの目がかすかに開き、女の子に向かって手を伸ばす。
 女の子はその手を握ってあげると、ゆっくりと頷いた。
 そのマサじいに、男の子は手の平に乗せた緑色の雫を差し出す。
「マサじい、これを飲んで」
 男の子が手をマサじいの髭の浮いた口に近づけ、その雫を流し込む。
 透明に光り輝く雫が、マサじいの口の中に落ち、喉へと流れ降りていく。
「……ふ……ふう」
 マサじいの喉から安堵した息が吐き出され、ゆっくりと瞼が閉じられていく。
 ごろごろと音を立てていた喉が、静かに息を吐き出す音へと変わり、閉じたまぶたから涙
が一滴流れ落ちた。
「今の歌って、マサじいと奥さんのおとみさんのこと?」
 ぼくは眠ったマサじいを眺めながら、女の子に尋ねた。
「ええ。とてもすてきなご夫婦だったのよ。お互いを尊敬していてね」
「へえ」
 女の子の顔に柔らかな笑みが浮んでいた。
「あの、ぼくね」
 その横顔に見とれていたことに気づいて、急にホッペが熱くなっていくのに気づいて、ぼ
くは女の子から目をそらした。
「ぼくもね、きみのこと尊敬してる。すっごくお歌がうまくて、かわいいし」
 照れながら言ったぼくに、女の子がくすくすと笑う。
「ありがとう」
 女の子の手がぼくの右手を握る。
「わたしもユウくんのことが大好きだよ」
 女の子の顔を見れば、じっと見ている笑顔に出会う。
 ぼくはへへへと笑うと、マサじいのベットの横に歩み寄った。
「マサじい、良くなったよね。ぼく、安心したよ」
 そう言った途端に眠気が襲って欠伸をしたぼくに、女の子が言う。
「ユウくんも、もう眠らないと。病気は治っても、無理はしてはいけないわ」
 ぼくは「うん」と頷きながら、マサじいの枕の横に顔を押し付けた。
 ゆっくりと意識が深い深い沼の中へと落ちていく。
「ユウ君」
 女の子の声が耳元でする。目を開けようと思うのに、どうしても瞼は開いてはくれなかっ
た。
「わたしに気づいてくれてありがとう。とっても嬉しかった。どうか、わたしのことを忘れ
ずに覚えていてね」
 思いの中で、ぼくは「忘れないよ」と返事をする。
 そしてすっかり眠りの中に落ちてしまったのだった。

「ユウ君! ユウ君!!」
 肩を揺すられる感覚で目を開けたぼくは目をあけた。
 マサじいの枕もとに顔だけを押し付けた格好でベットサイドに膝立ちで寝ていたぼくは、
おかしな形に固まった筋肉に「いててて」と声を上げながら顔を上げた。
 そんなぼくを、看護婦さんが怒った顔で睨んでいた。
「もう、こんなところで寝ていて。病気が悪くなったらどうするの!!」
「……ごめんなさい」
 そう答えてから見上げれば、看護婦さんが「しょうがないわね」と困った顔で笑う。
「マサじいが心配だったのね。でも、大丈夫そうよ。マサじい、すっかり良くなったみたい。
ユウ君の看病のおかげかな?」
 看護婦さんの指さしたほうを見たぼくは、穏かな寝息で眠るマサじいに気づいて顔を綻ば
せた。
「マサじい、治った! よかった!!」
 だって女の子のお薬を飲んだんだもん!
 心の中でそう叫びながら、マサじいの顔を見つめる。
「ユウ君、マサじいにお見舞いのお花も取ってきてくれたのね」
 看護婦さんがぼくを見下ろして言う。
「お花?」
 その時、ぼくはマサじいの枕の横にあるクローバーの葉っぱに気づいた。
 そして見下ろした自分の右手が、ピンクの矢車草を握っていることにも。
「え? このお花」
 そう言った瞬間、矢車草のピンク色の花が茎から外れて床にポトリと落ちた。
 ピンクの花が床の上でくるりと周り、ぼくを見上げて傾いた。
 それを見た瞬間、ぼくはなぜか叫びたいような気持ちになって看護婦さんを見上げた。
「ねえ、看護婦さんは知ってるでしょ? 夜になると病院のお庭で歌の練習をしている女の
子のこと!」
手を握って突然叫んだぼくを、看護婦さんがびっくりした顔で見下ろして、首を横に振る。
「夜にこんな山の中へくる女の子はいないわ」
「じゃあ、ぼくが会っていたのは……」
 そう呟いて、ぼくは中庭へと走り出した。
「ユウ君、走らないで!」
 看護婦さんの声が後ろから追いかけてくる。
 それでも、ぼくは足を止めずに走り抜けた。
 いつも女の子が歌を歌っていた中庭。
 何人もの看護婦さんや患者さんにぶつかりそうになりながら、階段を下り、まだ朝の空気
の漂う中庭へと駆け出していく。
 だがそこで目にしたのは、昨日まで咲いていたはずの矢車草が根から抜けた跡だけだった。
 咲き競っていたクローバーの葉もなぜか萎れ、首を下へと垂らしていた。
「ユウ君!」
 走ってきた看護婦さんが、中庭に膝をついて座り込んだぼくの横へとやってくる。
 そして覗き込んだ看護婦さんが、声も上げずに泣いているぼくに気づいて、出しかけてい
た手を止めた。
「あれ? ユウ君どうしたの?」
 びっくりした声で言って、ぼくの背中を撫ぜてくれる。
 その優しい手の感触に、ぼくはもっと悲しくなって大きく声を上げた。
「……ぼく、……あの子が花だったなんて知らなかった。……だからマサじいのところに来
てって………だからあの子………」
 死んじゃったんだ。
その一言を言葉にすることができずに、ぼくはそっと回された看護婦さんの腕の中で、声の限
りに謝りながら泣くしかなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
 両手で大地を撫でながら、女の子にむかって謝り続けた。
 そして心からのありがとうを、何度も何度も言い続けたのだった。

「ユウ君、退院おめでとう」
「うん。ぼくもありがとうございました」
 見送ってくれる看護婦さんにお礼を言い、それからすっかり元気になってもうすぐ退院でき
るマサじいにも「ありがとうございました」とお礼を言って頭を下げる。
「いや、お礼はわしがユウに言わないとならんな」
 マサじいは手に大事そうにクローバーのしおりを持っていた。
 ぼくの手には矢車草のしおりがある。
 泣きくれていたぼくに、看護婦さんが作ってくれたしおりだった。
『よく分からないけれど、ユウ君の大事なお花だったんでしょ?』
 ぼくはしおりを作ってくれた看護婦さんに「大事にするからね」と手の中のしおりを見せて
手を振る。
 迎えに来てくれたお父さんとお母さんに手を取られ、病院を後にする。
 中庭を通り過ぎるとき、ぼくは足を止めてその景色を目に焼き付けようとじっと見つめた。
「ユウ? どうした?」
 お父さんがぼくに尋ねる。
「うん。ここでね。ぼく大好きな女の子に会ったんだ」
「ふ〜ん」
 お父さんがおもしろそうに呟くと、ぼくのホッペを突く。
「ユウの初恋か?」
 眉を上げて聞くお父さんに、ぼくはへへへと笑うと頷いた。
「ぼくね、マサじいとおとみさんの恋バナも知ってるんだよ。だから今度はお父さんとお母さ
んのも教えてね」
 ぼくの言葉に、お父さんとお母さんが顔を見合わせて笑う。
「それは秘密だ」
「ヤダ!! ケチんぼしないでよ!」
 飛びついたぼくを抱き上げ、お父さんが笑う。
 サッと吹き抜けた風に中庭の草がゆれ、サワサワと音を立てる。
 それはまるで分かれいくぼくに、別れを告げる女の子の声に聞こえた。

「ありがとうね。ぼく、絶対君を忘れない」

 
                           〈了〉


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