第一話



 気分は悪くはなかった。
 ただ大酒を食らった後のような、天地さえ定かでない酩酊感と、どこか浮遊するような解放感の中を
漂っていた。
 自分が誰なのかもよく思い出せない。
 まさしく、ココはどこ? わたしはだれ? だ。
 だが、そんな自分がおかしくて笑おうとしてが、顔の神経一つ自由にはならずにおかしな風ににた音
が漏れただけだった。
 まったく俺はどうしちまったんだ?
 自分をあざ笑ったときだった。
 突然、煌々と光がともった。
 光源はどこなのかも分からなかった。だが、目も開けていられない強い白い光に部屋一面が照らされ
彼は目を閉じた。
「目を開けなさい」
 まるで脳内に直接響くような女の声に、彼はうっすらと目を開けた。
 そして目に映ったものに野太い悲鳴を上げた。
 まるで大地を揺るがす野獣の唸り声。
 そして目の前の怪物も同じように悲鳴を上げていた。
 全身を緑色に覆われた、人型の中で怯えた黒い目だけが大きく目を見開いていた。
 頭に手を伸ばす。
 すると怪物も手を上げた。
 はっきりと形があるわけではない。ただぼんやりと人の手らしきものが緑色に発光してそこにあるの
だ。
 その手が顔に触れる。
 まるで水の入った柔らかな袋を揉むような感触に、緑色の物体が波打つ。
 それに伴って黒い目玉がキョロキョロと揺れ動く。
 その目の動きも、自分のものと全く同じだった。
「それが今のあなたの姿。はっきりとした形さえ定かではない、異形の怪物」
 彼はその宣告に、受け入れがたい衝撃とこんなことはただの夢だという楽観との間を揺れていた。
 第一俺は、こんな怪物なんかじゃない。
 れっきとした……。
 だが、何も思い出すことができなかった。
 名前も自分のしていた仕事も、顔も、過去も。
 ただ、自分という自我だけがそこにあった。確かにこれは自分ではないという明確の思いだけが。
「そうです。あなたは元は違う姿でこの世に存在していた。でも、今はその姿でここに捕らわれている」
 捕らわれている?
 彼は辺りを見回した。
 一面の白い部屋は、窓もなくドアもなく、ただ高い天井の彼方に霞んで揺れ動く水の淀みがあるだけ
だった。
 光はどこから来るのか? 声もどこから聞こえるのかも不明だった。
「あなたは、  を償えば、もとの姿を取り戻すチャンスを与えられます」
 何を償えば?
「償いますか?」
 女の声が問い掛ける。
 だから何を償えばいいんだ、聞こえなかった。
 だがただ、女の声は応えを急かして質問を繰り返す。
「償えばもとに戻れるのです。償いますか?」
 彼はわけもわからず頷いた。
 もうこんなわけも分からない状態に置かれるのはゴメンだ。
 自分が何者なのか、確かに生きているという証拠が欲しかった。
「償うのですね」
 畳み掛ける質問に、彼は声を出して肯定した。
「なんでもやるさ」
 部屋に轟く怪物の咆哮。
 一瞬の沈黙。
 そしてつづいた女の声は言った。
「では、まずはその左手を差し出しなさい」


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