第ニ話



 暗い空間に立っていた。
 だが正面にあるのは輝かしいスポットライトに照らされた舞台だった。
 その上に一人の男が立ち、バイオリンを弾いていた。
 ピアノの演奏に合わせて体を揺らし、額に汗を光らせながら、一心に弓を引き続けている。
 クラッシックなんて聞いた覚えがなかった。
 知っているのなんて、ベートーベンのジャジャジャーンくらいなものだ。確か曲名は「運命」。
 それでも今目の前で紡がれる音楽が、男の心を揺さぶっていた。高く鳴く音は、なにかを訴えて助け
を求める魂の叫びのようにすら感じられた。
――あの男は、2時間後のこのコンサートで賞を獲ることで世界に羽ばたくチャンスを手にします。
 頭の中に直接響く女の声が告げる。
 その声に不快感と違和感を感じつつも、男は苛立つ心を押さえてその声を受け入れた。
「で、俺は何をすればいい?」
――彼はチャンスを目前にしているのです。しかし、彼は演奏の始まる30分前にある不幸から、大切
な手を事故で失うことになるのです。
 あの見事な演奏を奏でる腕が無くなるというのか。
 音楽に興味などもったことがない男にも、それは酷く残念なことに思われた。だが素直にそれを口に
する気にはなれなかった。
「それは不幸なことで」
――それを、あなたが阻止しなさい。指示は以上です。今後の接触はありません。すべてあなたの意思
のままに行動しなさい
 そう言って女の声という存在感は、男の頭の中から消えた。
 ただ一人、慣れない空間に一人で放置された心細さが不意に襲う。
 それを誤魔化すように、男は周りを見回しながら、悪態をつく。
「いったいどうなってるんだよ」
 ステージ脇には、男のほかに人の気配はなかった。
 再び惹き付けられるようにステージの上のバイオリニストを見る。
 そしてステージの上での演奏が一時中断し、ピアノとの打ち合わせを真剣にする男の顔を見た。
 音楽に情熱を注いできた男の、今が集大成だという熱気が、離れていても伝わってくるようだった。
 その音楽家の生き生きとした顔が、なぜか男の胸に痛みを与えた。
 男はステージ裾を見回した。
 やはりそこに人が現れる気配はなく、ただ暗がりに譜面台やイスなどの大道具が転がされているだけ
だった。
 どれもこれも初めて見る景色だった。
 ということはきっと俺はこういう所で仕事をしてきていた人間じゃないんだろう。
 そして男はふとステージ裾にある鏡に気付いて近づいていった。
 そこに映っているのは、顔全体をひげで覆った、ごつい顔をした男だった。
 まるで森の奥で一人孤独に生きるきこりみたいだ。
 男は自分の顔に触れた。
 そしてその黒く油で汚れた指を見た。
 この指も自分のものではないという違和感が頭を過ぎった。
 俺のはもっと…。
 だがそれ以上の思考はまるで進まず、自分の本来ある姿なんてものがあったのかさえ定かではなくな
っていた。




 男はステージの袖を離れると、楽屋へと通じる廊下を歩いた。
 正午あたりの明るい光が差し込む廊下は、ステージとは違う現実の世界の健全さにみちていた。
「ああ、そこの掃除屋さん」
 不意に声をかけられ、男は振り向いた。
「掃除屋さん?」
「そう、あなた掃除屋さんでしょ?」
 若い女が背後に立っていた。
 飾りのチェーンがついた眼鏡を掛け、黒いうスーツを着た女が、ヒールを履いた長い足を偉そうに開
いて自分を見ていた。
 男は自分の腰に下げている掃除用具に初めて気付き、自分が今掃除屋をしているヒゲづらの男である
ことを理解した。
「なにか?」
「この楽屋ね、ちょっとキレイにしてもらえない? ファンの子がくれた花なら何やらでごちゃごちゃ
なの。これじゃあ、演奏までの集中に使えないから」
 女は時間を気にしながら男に指示すると立ち去ろうとする。
「あ、あの」
「何?」
 男は女に声を掛けると、煩わしそうに女が振り向く。
「今の時間を教えてもらえますか?」
「12時20分よ」
 女は質問にだけ答えると、さっさと立ち去っていく。
 今が12時20分。
 今から2時間後は恐らく3時。その30分まえにあのバイオリニストは事故で手を失い、将来も失う。
 それを阻止しろだ? だいたいどういう事故なのかもわからないでどうやって阻止しろというのだ。
 男は悪態をつきつつ、楽屋の中に入っていった。
 ムッとするほどの花の香りが鼻をつく。
 床に置かれたたくさんの花を蹴飛ばしたい気分になりながらも、男はなんとかその衝動を堪えて室内
を見回した。
 積み上げられた袋や花、食べ残した食べ物に飲みかけのカップ。
 男はそれらを整理しながらかたづけ始めた。
 そしてふと目に入った手紙に目を留めた。
 今までもたくさん目にとまったファンレターの類ではなかった。
 大人のしっかりした字で、白い便箋の上に文字が連綿と並んでいた。

―チケットをありがとう。
 でもわたしはあなたの演奏を聞く資格があるのかと、自分に問うているところです。
 わたしはあなたの音楽に打ち込む姿を応援こそせず、どちらかといえば、あんな子に続くわけがない
と冷淡な態度を取り続けてきたのですから。
 小さい頃から警察の世話にばかりなり、問題を起してはわたしにも笑顔を見せなくなったあなたが
、わたしには受け止められなかったのです。
 許してください。母として、それは決してしてはならないことでした。
 ずっとあなたを信じ、見守っているべきだったのに。
 でもあなたは見事に人生の道を成功へと駆け上っていったのですね。
 あの時怪我をした指はもう、大丈夫ですか?
 あの怪我のリハビリのためにはじめた音楽が、あなたを救ってくれたのですから、あの事件はあなた
を変えた贈り物のようなものだったのかもしれませんね。とても手痛い贈り物でしたが。
 辛いリハビリを乗り越え、こうしてエリート演奏者と肩を並べて演奏できるあなたを、母は誇りに思
っています。
 わたしは陰ながらあなたを応援し、常に見守っていきたいと思います。
 成功を心から祈っています。

「母より…ね」
 一緒に置かれていた写真は、先ほどステージに立っていた男の子どものころのものだった。
酷く尖った目をした、頭を金髪に染めた少年と、温和そうな線の細い女が笑顔で写っていた。
 あの演奏者のこの子どもの頃の姿。
 手の怪我をした事件。
 その言葉が、頭に引っかかって、何度も自分の中でリフレインしていた。
 それに伴って映像が頭の中を巡る。


 それも凄惨とも言える映像が。
 事件。
 左手を突き抜けて刺さったナイフ。
 事件。
 血の滴るナイフごと手で掴み、のた打ち回る少年。
 事件。
 その少年を足蹴にして、狂ったように笑い声を上げる……。
 男は自分に取り付いた妄想のような映像から頭を振って意識を離すと、顔を上げた。
 ゴミをまとめてゴミ袋に詰め込み、花やプレゼントの袋を一箇所にまとめる。
 そして逃げるように楽屋を後にして出て行った。
 男の脳裏には、確信に近い思いが渦巻いていた。
 あのバイオリンの奏者である男が、自分の過去を知っているはずだ。なんとか話をしてみなければ。


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