第八章  幻惑



           
 インターホンのスイッチを押すために伸ばした指先が震える。  心なしか蒼ざめた指先で、ピンク色に塗った爪だけが色づいている。  いったん伸ばしたその指先を、もう片方の手で覆って、レイリは強張る口元に笑みを浮か べた。 「カルロスに会うだけなのに」  普段なら、一秒でも早く会いたくて、インターホンを押したあとのほんの数秒の待ち時間 でも苦しいくらいに長く感じたというのに。今の自分は、ほんの数十秒でもカルロスに会う のを先延ばしにしようと震えている。  このままでは何も変わらない。怯えているのも、自分が勝手に悪い方向へと予想を立てて いるだけで、カルロスだってレイチェルのようにすごく喜んでくれるかもしれないではない か。  そう自分に言い聞かせ、震える胸で大きく息をつくとインターホンを押した。  その瞬間から、胸の中で気分が悪くなるほどに心臓が激しい鼓動を始める。  なんとか自分を宥めて胸に手をついて応答を待つ。  だが応答がない。  帰ってきていないのだろうか。  別にカルロスが在宅でなかろうと、キーを持っているレイリには部屋に入ることはできる のだが。  一歩インターホンから後退って、安心したような胸の中の安堵を感じる。だが同時に湧き あがるのは、カルロスがいないことの安心以上の不安だった。  自分で昼過ぎに家に来るように言っておきながら、なんの連絡もなく約束をすっぽかすほ どに、自分は彼にとって取るに足らない存在になり下がったのだろうか。だとしたら、子ど もができたなんて報告を喜んでくれるはずがない。  そう思っただけで、胃の辺りがよじれるように痛み、吐き気が湧き上がる。  思わずコンクリートの床にしゃがみ込んで吐き気をこらえたレイリは、簡単に逃げ出そう としている自分に涙を浮かべた。  まだ立ち向かってもいないのに、どうして自分はすでに負けを決め込んで、まだ味わって いない痛みに震えあがっているのだろう。  ましてや今から向かう相手が敵かどうかも分からないのに。いや、敵どころか最愛の守り 手でなくてはならない彼に会いにいくだけだというのに。  これでは生贄として捧げられる乙女だ。それならカルロスは乙女の生血を啜る悪魔だ。  その想像がありえないと思いつつも、お互いにはまり役だと、レイリは口の端に笑みを浮 かべた。  バレエの演目になりそうだ。  真白なチュチュと纏い、頭に捧げられる乙女の証の花冠を被って伏している自分と、黒い マントを纏い、顔を仮面で隠した悪魔のカルロス。  そのカルロスがマントをサッとなびかせながら自分に近づき、逃げようとする乙女の手を 掴んで抱きよせ、その首元に顔を埋める。  そんな役が適役だと思っていると知ったら、カルロスは怒るだろうか。それとも光栄だと 笑うだろうか。  きっと乙女を手に入れた悪魔は、彼女を愛するのだろう。自分の体の一部となる彼女を何 よりも大切なものとして扱い、それでも決して乙女には愛されない苦悩に身を裂きながら、 その首に狂気の牙を埋め続けるのだ。  これじゃあ、悪魔ってよりもドラキュラ伯爵だわ。  そんな現実から離れた思考が良かったのか、次第に吐き気が遠のき、レイリはゆっくりと 頭を上げて立ち上がった。  ふらつきはない。大丈夫そうだ。  レイリは穏やかさを取り戻して、ハンドバックからカルロスの部屋の鍵を取り出す。  カルロスはわたしの約束を忘れたのではない。きっと家に帰ってきたところで、疲れて寝 てしまっているのかもしれない。電話の声も随分と疲れていた。きっとそうに違いない。  レイリはあえて明るい気持ちの自分を演じると、キーを開けた。  暗く淀んだ空気が室内を覆っていた。  長く換気もせずに締めきられていた部屋の匂いだった。  カーテンも開いていない。  もしかして本当に帰ってきていないのだろうか。  そう思いながらゆっくりと足を進めたレイリは、足元に転がっていたものを感じて下を向 いた。  そこには脱ぎ捨てられたカルロスの靴が片方転がっていた。  そっとその靴の向こうのソファーを見ると、服を着たまま倒れるようにして眠っているカ ロルスの姿が目に入る。  いたという安堵の前に、しばらくの間に面変わりしている顔に衝撃を受け、レイリは立ち つくしたままその顔を見続けた。  髪も長くなって顔にへばりついていた。  その髪の下の頬はこけて影を濃くし、目の下の隈と一緒になって、カルロスを重病人のよ うに見せていた。  不精ひげが頬を覆い、緩められているが外されなかったネクタイまでもが疲れているよう に皺になってよじれていた。  今までにも研究に没頭し過ぎると、物を食べなくなって痩せる傾向があったカルロスだっ たが、ここまで憔悴することはなかった。  失敗があったことは知っているが、その責任を感じてこんなになってしまったのだろうか?  元々プライドは高い人ではあるけれど、一度の失敗でダメになる人間であると他人に見ら れることのほうが、プライドにキズがつくと考える人間であると思うのだが。  レイリはカルロスを起こさないように部屋を横切ると、静かにカーテンを開けた。  カルロスの顔には光がかからないように一部だけを開け、窓を開けて部屋の中に新鮮な空 気を呼び込む。  それだけのことで、緊張して硬くなっていた体がほぐれていく。  窓の外には暖かい日差しがあって、鳥や虫の声が溢れている。どこかから子どもの高い声 が聞こえてくる。  その声が母親を呼んで「ママ〜」と甘えた調子で繰り返している。  自然とその声にレイリの口元が緩んでいく。  いつかわたしも、あんな風に子どもに呼ばれる日が来るのだろうか。そして、その子ども はカルロスをパパと呼ぶのだろうか。  レイリは頬を掠め、自分の髪を揺らす風の心地よさと同時に、少し肌寒い風の温度に窓か ら離れた。  もう少し換気はしておきたいが、このまま寝せておいたらカルロスが風邪をひくかもしれ ない。そうでなくても体が弱っていそうなのに。  レイリは部屋の隅から自分用に置いておいたブランケットを取ってくると、カルロスの上 に掛けた。  そして苦しそうに見えるネクタイに手を掛けた。  結び目をほどいて襟元から抜き去ろうとした。  だが、その瞬間にカッと目を開けたカルロスがレイリの手を掴んだ。  赤く充血した目で見入られ、出かかった悲鳴が喉の奥で凍りつく。  骨が砕けると思うほどに強く握りしめられた手に顔が歪む。 「カルロス、いた………」  手を放してと訴えようとしたレイリだったが、ぎゅっと手を引かれてソファーの上に倒れ 込む。  突然のことに、眩暈を起こしたように自分の立ち位置が分からなくなったレイリは、だが 次の瞬間、自分の腰の上に跨って覆いかぶさっているカルロスに気づいた。  顔の横に両手をつき、上から見下ろしているカルロスに気づき、次第に視線が合っていく。 「やぁ、レイリ。久しぶりだな」  寝起きの掠れたカルロスの声が告げる。  だがその口調と目の色は、愛しい恋人にやっと会えた喜びではなく、歪んだ欲望に妖しい 香気を放っていた。 「あの、カルロス。わたし――」  言いかけたレイリの口を、カルロスが唇で覆う。  それは甘くも優しくもない、痛みを感じるほどの奪うキスだった。
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