第八章  幻惑



          

 手の中に動かなくなったネズミがいた。
 白くて赤い目をしたネズミが、手の中で口から血泡を吹いて事切れていた。
 なんて儚い命。
 カルロスは、手の中のネズミがほんの数日前まで共に過ごしていた他のネズミに目を向け
る。
 透明なプラスチックのゲージの中で元気に走り回るその姿に、死の影はどこにも見えない。
 小さな手足ですばっしこく走り回り、エサのペレットを両手で持って食べ、運動用の回転
ホイールを回して遊んでいる。
 死とはなんだろう。
 カルロスは手の中で冷えていく体を見下ろして、思わずにはいられなかった。
 どんな生き物でも避けては通れないものでありながら、人間には受け入れがたい死。
 全てを奪っていく、最悪の盗人。
 そっとネズミの死体を台の上に下ろし、廃棄のための処理を始める。
 もう死んでしまった実験動物は、有害な感染の疑いのある産業廃棄物だ。
 そう。ほんの数時間前までは命の尊厳を持っていたものが、ゴミになるのだ。それも人か
ら毛嫌いされる種類のゴミに。
 人に科学的に命を生み出す技術はない。どんなに医学や科学が進歩しようと、人工の子宮
を作りだすことすら難しい。ましてや新たな命となる卵子や精子に変わるものを、あるいは
受精卵を作りだすことはできない。
 理解しがたく高度な仕組みのものを、人間は体の中に保有しているのだ。
 その不思議がカルロスを学者への道へと導いた。
 命の意味を知りたい。
 だが、カルロスが今知りえたのは、ただ命とはほんの運命の気まぐれでいとも簡単に消え
ていくということだけだった。このネズミが、カルロスの手によって何匹ものネズミの中か
ら選ばれ、実験されたということで。
 滅菌処理の後、この死体はマイナス二〇度の冷蔵庫に放り込まれ、処理業者によって処分
される。
 カルロスは盛んに鳴き声を上げ、動き回るネズミのケージの中から一匹を掴みだすと、そ
っと手の中で握り締めた。
 突然の不当な拘束に抵抗を示して盛んに鋭い鳴き声をあげるネズミ。
 このネズミを握る手を、ほんの少し強く握りしめるだけで、おそらく簡単に殺すことがで
きる。
 手の中で圧死し、今はかわいらしく見えるその外観が、血と溢れた内臓でおぞましい物に
なり果てる。
 簡単なことだ。
 このネズミの命を左右するのは、今や自分の意思一つ。
 それもただ、右の手に力を込めるという運動神経への指令を送ること。それだけで成立す
る命の消滅なのだ。
 恐ろしいと思った。
 だが同時にカルロスは思っていた。
 なんという快感なのだろうかと。


 急激に覚醒した瞬間、防衛本能からか、目の前にあった手を強くつかんだ。
「カルロス、いた……」
 その声に、頭ではそれがレイリであることがすぐに理解できた。
 だが思いは夢を引きずって、恋人であるはずの女を優しく扱うことができなかった。
 強引に腕の中に引きずり込んで、自分の体の下に組み敷く。
 抵抗ができないように両手を片手で掴んでレイリの頭の上で拘束し、足の間に膝を入れて
自分の体を押し付ける。
 怯えた顔が自分を見上げていた。
「カルロス……」
 その自分の思い通りになるか弱い存在が、欲望に火をつけた。
 腹の底から欲望が駆け上がり、抑えようもなく理性を侵食していく。
 食らいつくようにしてレイリの唇を貪る。
 息をつく暇さえ与えずに、レイリの唇を吸い、舌で歯列や小さな恋人の舌を犯した。
 最初はその手荒な行為に応えようとしていたレイリも、やがて本気で恐怖に震え、激しく
抵抗を始める。
 拘束された手に必死に力を込め、カルロスの手から逃れようともがく。
 だが今や猛獣のようにすらあるカルロスを押しのけることはできなかった。ただ虚しくカ
ルロスの手にかかる爪を突き立てるように力を込めるだけだった。
 カルロスから流れ出た唾液がレイリの頬を流れ、唇を離した瞬間にレイリに噛みつかれて、
流れおちる唾液に血が混じる。
 噛みつかれた痛みに顔をしかめたカルロスだったが、手の甲で血を拭うと、無意味な抵抗
をする小動物をいたぶる目で見おろす。
「たまにはいつもと違う方法で楽しんだっていいだろう? おまえは俺の女なんだから」
「わたしはあなたの物じゃない……」
 震えるか細い涙声で言ったレイリの言葉は、だがカルロスの耳には届いても、心には届か
なかった。
 スカートの中に伸びた手が強引に下着を剥ぎとり、なんの愛撫もなく膝ごと抱え込んで、
自身の昂ぶりを押し付ける。
「ヤダ……やめて。お願いだから、こんな風に……」
 ゆるんだカルロスの拘束の手から逃れたレイリの拳が、カルロスの胸を叩いた。
 ドンと強く叩かれた拳に、だがカルロスはそれさえも押し戻すようにして体を進めた。
「イヤ!」
 レイリが悲鳴のように叫び、痛みに体をのけ反らせる。
 それが苦痛の表情であると分かりながら、反面それが快感にもだえる顔とも同じであるこ
とが、おかしくて堪らなくなる。
 笑い声を押し殺して、欲望のままにレイリの体を突き上げ、次第に潤み始めるレイリの体
を味わいつくす。
 レイリの上げる泣き声さえ、今は感度を上げる性的エサでしかなかった。
 両手で顔を覆って泣くレイリの手を再び押さえつけ、背けられた頬を伝う涙を舌で舐めと
る。
 いたわる様に名前を呼ぶこともない。
 ただ欲望の発露として荒い息を吐き、欲情の爆発をレイリの中に突き立てる。
 レイリの着衣に包まれたままの胸を荒々しく暴き、乳房に顔を埋める。
 そして歯型が残るほどに齧りつく。
 レイリが新たな痛みに悲鳴を上げ、同時にカルロスもレイリの中で果てた自分の欲望の脈
動を感じていた。




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