「天才司書カウジャニーヤ・ナルミの望み」



 インクの匂い。
 少しカビくさい本の詰まった、長らく誰の手にも触れることのなかった、埃がたまった本の保管庫。
 水あかで外さえよく見えない窓。
 そんな空間が、ナルミにはほっと息のつける場所だった。
 ランプの明かりの中で崩れそうなほど古い紙のページをめくる。
 真剣に、だがそこに息づく知れ得なかった知識を紐解く興奮に顔を赤くしたナルミが、外の闇に反し
て窓に、くっきりと映っていた。
「ナルミくん、今日ももう図書館は閉館だよ」
 高い本棚の整理につかう梯子の上で、ついうっかり本を読むことに熱中してしまっていたナルミは、
館長の声にハッと意識を現実に戻した。
「あ、すいません。わたしったらついうっかり」
「ついうっかり1時間?」
 真っ白なもくもくした頬のヒゲを撫でながら、太った腹を揺らして楽しそうに笑うフロムド館長だっ
たが、壁のハト時計を仰ぎ見たナルミは、館長の言葉通り、すでに閉館時間を過ぎていることに顔色を
なくした。
「本当だわ。閉館の準備を!」
 棚の上においていたランプを手にとり、慌てて梯子を降りようとするナルミを、館長が優しくたしな
める。
「おいおい、そんなに急いだら危ないだろう。ゆっくりで大丈夫だ。だいたいこんな小さな図書館に、
そうそう来館者も来ん。本たちもナルミくんなしでは、見てもらえる張り合いがなくて退屈だろう」
 最後の段を下りるナルミの手を取って助けてくれる館長に、「すいません」と頭を下げつつ、ナルミ
は保管庫の中の本を眺めた。
「本ほど素敵なものはないのに、みんな触れ合わないなんて、もったいないです」
「ふむ。まったくだ」
 鼻眼鏡を押し上げ、館長がうなずく。
「本は読む人に様々ことを教えてくれる。だが、本のその声に耳を傾けることのできる人間と、その声
に心を閉ざしてしまう人間があるのだよ。でも、その声をわずかでも聞ける人に、より本と語り合うこ
とができるように助けるのが、我々だ」
 自信をこめて語られる館長の頼もしい言葉に、ナルミは「はい」と頷いた。
 天才司書カルジャニーヤ・ナルミのお仕事。それは本の声を聞くことだった。


「すいません。みんなに親しまれるおばあちゃんの料理本みたいの探したいんですけど」
 図書館のカウンターの中で書類をまとめていたナルミに声がかかる。
「はい。本をお探ししますね」
 笑顔で依頼をうけたナルミに、この図書館ではお馴染みの新婚主婦ポプリが、お手並み拝見と腕組み
して頷く。
 週のうち何度かナルミの能力にチャレンジしてくるポプリだったが、その実ナルミの能力の一番の理
解者だったりする。
「えっと、この図書館には四冊のおばあちゃんの料理本があります。ブルーナ地方の郷土料理を扱った
サリーおばあちゃんの煮込み料理とスープ。サリーおばあちゃんは、ふっくら太った白いエプロンをか
けてネコを抱いた方ですね」
 まるで今目の前に本が浮んでいるように、なにかを眺めながら言うナルミ。
 彼女には、大量にある本の声を聞き分ける能力があるのだ。
 今も四人の個性豊かなおばあちゃんたちが、ぜひわたしの話を聞いて頂戴と、先を競って自己主張し
ている。
 二人目のおばあさんは、肌の黒いターバンを巻いた女性で、色鮮やかな魚を大きなザルに掲げて持っ
ている。
 三人目はこれが料理本の登場人物かしらと疑ってしまうほど陰気な、深々とフードを被った杖を持っ
た魔女。
 小脇に抱えた本を、じっとりとした視線で持ち上げて見せる。題名は、「さあ、あなたもトライ。め
ちゃ効き呪いレシピ100」著 稀代の魔女ヒーラーズ
(あ、これすごく有名な本じゃない? めちゃくちゃな作用を起すっていって。恋の成就チョコレート
ってのが、たしか相手を一週間だけ愛をささやく枕に変える効力があるとか。でも、一週間後には、ヨ
ダレを垂らして眠る顔を見せ付けられ、一晩中重い頭で潰されまくる記憶だけが残り、必ず振られる運
命がまっているらしい)
 苦笑するナルミに、魔女が呪ってやるぞ〜と杖を突き出すので、ごめんなさいと謝る。
 そして四人目が、スラリとした背の高い白髪の淑女だった。どこから持ち込んだのか、高級家具のイ
スに座り、銀製器で紅茶を飲んでいる。そのティーカップの横におかれているのは、手づくりだと分か
るゴツゴツしたクッキー。レモン風味とチョコ風味。
 お一ついかが? と差し出され、掴めないと分かっていながら手が伸びそうになる。
「以上四冊がありますが、どちらにご案内しましょう」
 ナルミは説明を終えると、にこりと笑う。
 四人の老婆も、一列に並んで栄誉ある拝命を待つ。
 ポプリはフンと鼻を鳴らすと、「結構でしょう」と頷き、腕に掛けていたカゴをナルミに差し出す。
「今日も合格ね。ご褒美よ」
 ポプリが愛読している本の名前をきっちりあげてくれたところで、合格が言い渡される。
 ナルミよりほんの少し年上なだけなのに、それでもお姉さん風を吹かすポプリがカゴのフキンを取る
と、先ほどの四人目の淑女が差し出していたのと同じ、レモン風味の手の平サイズのクッキーが登場す
る。
「うわ〜、おいしそう」
「ええ。おいしいわよ。素敵な本のレシピと、わたしの腕があれば完璧だもの」
 ポプリが自慢げに言って顎をツンと上げる。
「あなたも、本を読むのもいいけど、お料理も勉強しなさいよ」
「は〜い」
 ナルミの声に、四人の老婆がこぞって本をナルミの前に差し出すのであった。


 興味本位で借りてきた呪いのレシピ本をベットの上で開き、パラパラとめくる。
 毒々しい材料がイラストつきで描かれた本に顔をしかめつつも、必ずつく注釈の言葉に笑いを漏らさ
ずにはいられない。
 著者ヒーラーズの言葉によれば、良い事のあとには、かならず揺り返しのちょっとしたアクシデント
が待っているのが物事の摂理であるとか。だから、変なおまけはご愛嬌。何が起こるのか、分かってい
るのだから自分で対処して頂戴ということのようだ。
 だが、こんなおかしなアクシデントに見舞われると分かっていながら、呪いレシピを実践する人がい
るのだろうか?
 大好きな人からの手紙を受け取れるレシピ (アクシデント=野良猫があなたの朝食を失敬。うきう
き気分で隙が生まれ、少しの妄想ラブの香りが猫をひきつけるから)
 嫌いなあの子を、バナナで転ばせるレシピ (アクシデント=大丈夫? と転んだ友達に近づいてし
ゃがみこんだ時に、ズボンのお尻が裂けます。ズボンではなくスカートをはいていたときには、スカー
トが捲れてパンティーが破れるので、まだズボンの方が救いがあるでしょう)
 野良猫に朝飯はまだしも、バナナで転ぶよりも自分のズボンのお尻が破ける方が、恥ずかしくはない
だろうか? そこまでして、バナナで転ばせて何になる?
 全くくだらない呪いの数々に、それでもコメディー小説を読む気分で楽しめる。
 と、その中にある呪いの一つに目が止まる。
 会いたいあの人の、居場所がわかる呪い。
「あ」
 思わず声がもれる。
 ナルミが図書館で司書をしている理由、また本の声を聞けるようになったきっかけが、この、もう十
何年と会いたいと思い続けている彼の存在があってのことだった。
 あれはナルミがまだ5歳の頃。そう、十五年も前のことなのだ。
 おばあちゃんとキノコを採りに山に行ったはいいが、本気になって採りまくるおばあちゃんにいつの
間にやら置いてけぼりをくらい、完全に遭難か? な事態に陥ったときに、助けてくれたのが彼だった。
 すごく素敵な銀髪の背中で、泣きながら眠ったことを覚えている。
 銀髪の頭の間から覗いていたのは、キツネの耳。そして豊かな毛で覆われた尻尾。
 でも、ナルミの捜索にでていた家族は、山道の入り口で眠っているナルミを見つけただけで、そんな
青年は見ていないという。
 それはナルミの妄想だ!
 大好きなパパにまでそう笑われ、それでもナルミはずっと心の中で思い続けていたのだった。
 会えるならもう一度会いたい。
 そしてお礼を言いたい。
 その思いで、そんな容姿の種族がいるのかと本を紐解くようになり、毎日図書館に通いつめて、自分
の欲しい情報をもった本がどこにいるのかと問いかけながら本を探す日々を送っていたのだ。
 その中で生まれたのが、本の声を聞く力。
 ナルミは呪いのレシピに目を注いだ。

材料

 会いたい彼を思いながら、力の限りに引っこ抜いた右側頭部の髪の毛 10本
 眠そうなヤギを起して絞った乳、コップ一杯。
 ハチミツ ティースプーン5杯
 唐辛子 5個分を粉にしたもの
 枯れたミントの根っこ 2センチ
 
作り方

 鍋に材料を入れて、ヤギの乳がシュワシュワと音を立てるまで温める。
 そのあと、煮汁をカップに注いで、もう一度会いたい彼を思い浮かべながら、一気に飲み干す。途中
で止めてはなりません。
 そして飲み終わったら3分以内に熟睡すること。

アクシデント

 会いたい彼に直接会うまで、おでこの真ん中に1ミリほどのミニ唐辛子が生えてしまいます。食べて
も、また生えてきます。
 彼に食べさせて、はじめて消滅します。

「う〜ん。このアクシデントって、どうなの?」
 もし会いたいと思う人に一生会えなかったらどうなるというのか? 一生生えっぱなしか?
 ちょっと便利な気もしないでもないが、かっこ悪いだろう。
 しかも自分には、その最悪が起こる可能際が濃厚なのだ。
 自分の中では、必ず彼がこの世に存在していると信じてはいるが、もしかしたらパパの言うとおりに
自分の妄想なのかもしれないからだ。
 だとしたら、妄想の相手にどうやって額の唐辛子を食べさせると言うのか。
「思いっきり危険よね」
 う〜〜んと腕組して考え込むナルミだったが、頭の中で銀髪の彼が笑顔で振り向くシーンが展開され
る。でも、そこにあるのは顔なしの青年。
「ああ、どんな顔してたのか、思い出せないじゃないのよ〜」
 悔しさにベットの上でジタバタしたナルミだったが、十数年のうちに自分のうちで頑固に張った彼へ
の思いの根の深さを再確認すると、「よし」と声をかけて起き上がった。
「絶対彼はいる。絶対に会いに行ってみせる」
 思いのたけをこめ、髪の毛を引き抜くのであった。


 出来上がった呪いのドリンクをカップに移して、立ち上る湯気に鼻を近づける。
「うん。別に普通にミルクとミントの香り」
 幾分色が灰色がかっているような気がするが、この際味にはこだわるまい。なんといっても呪いドリ
ンクなのだから。
 熱そうな湯気をフーフーと吹いたナルミは、気合を入れると一気に飲み干した。
「えい!」
 掛け声とともに飲み干したナルミだったが、次々と襲い来るいろいろな味にうっとむせながらも飲み
下す。
 ミルクとハチミツの甘さがきたと思ったら、次に鼻を抜ける寒いほどのミントの香りが口から鼻腔の
中を駆け抜け、飲み干した瞬間に強烈なトウガラシの刺激で舌が痺れる。
「うえ。まず……。れ……、あれ?」
 口の中が火のように熱くなるのに堪えながらカップをベットサイドのテーブルに下ろした瞬間、くら
っと眩暈のように部屋の模様がくねるのに気付いて額に手を当てた。
 自分が回っているのかと思うくらいに大きく揺らいだ視界。
 それがコーヒーに垂らしたミルクのように、マーブル模様を描きながら回転している。
 まずいかも。これが呪いの効果?
 自分の中で問いかけながら、立っていられなくなってベッドの足音に座り込む。
 そしてそのまま、崩れ落ちるように眠りの中へと引き込まれていくのであった。


 ナルミの目の前にあるのは、あの恋焦がれてきた銀色に輝く髪と尻尾。それが軽快なリズムを刻むよ
うに左右に振られている。
 やっと見つけた!
 ナルミはハシっとその尻尾を掴む。
 そのナルミの行動に、背をむけていた青年の頭が巡らされる。
 あ、顔が見れる。
 子どもの頃から思い描いていた青年の顔。
 それは思っていたよりも、ずっと繊細で黒い瞳が濡れた美しい顔だった。
 だがその瞳からは、途絶えることなく涙が零れ落ちていた。
 水晶の雫のように澄んで光る一滴が、次から次へと頬を流れ落ち、顎で溜まって滴り落ちる。
 あまりにキレイだったその雫を、手の平でうけたナルミに、青年は泣き顔のまま視線を合わせる。
「あの、キレイだったから」
 なんだかあまりに純粋な視線に晒されて恥ずかしくなったナルミが言い訳のように言う。
 そんなナルミを、びっくりしたような大きな目で眺め続け、青年は口を開かない。
「えっと、こんにちは」
 何を言っていいものか言葉が見つからないナルミは、言ってからなんて間抜けな言葉をかけたのかと
頭を抱えたくなった。
 どうしてもっと気の利いたことが言えないのか?
 だってこんなにキレイな男の人が、人目もはばからずに泣いているって言うのに。
 そう自分の中で言ってから、ふと自分の言葉に首を傾げる。
 人の目?
 そう思ってあたりを見回したナルミは、そこが暗い野外であることが分かった。
 なぜ青年の顔が鮮明に見えるのか、それは理解しがたいことではあったが、これは呪いによる便利機
能に違いないと頷いてみる。
 頭上には巨大な木々が広げた枝が絡まりあい、複雑なレースの模様を作りあげ、その間からひんやり
とした月の光が零れ落ちていた。
 自分が倒れて手をついていた場所は、枯葉の積もったフカフカの大地。
 辺りにある気配は闇の中を滑りぬけていく風と、風の手によって撫でられていく草の立てる音ぐらい
だった。
 遠くから犬の遠吠えが聞こえる。
 改めて青年に目を向ければ、銀髪もその間から覗いた耳も瞳も、あの日見たままに美しく輝いていた。
 だが、その身につけている服はボロボロに汚れて破れ、色も何色なのか分からないほどに泥と垢にま
みれていた。
「あ……あの………お」
 ながらく言葉を発していなかったかのように、青年の声は酷く掠れて言葉も片言だった。
「え?」
 辛抱強く先を待つ態度で青年の前に顔を寄せる。
 すると臆面もなくナルミの頬を両手で挟んだ青年が、再び涙をたくさんこぼしながらいう。
「あのとき……女の子」
 あのとき自分が助けた女の子。
 自分のことを覚えていてくれたのだという喜びと同時に、いったい彼に何が起きたのかと不安が大き
くなる。
「ねえ、今あなたはどこにいるの? わたし会いに行きたいの」
 青年は頷くとナルミの頭を抱きしめた。
「ぼく………あのときから……山。はじめて会った……山」
 抱きしめられたナルミは、青年の胸から立ち上る土と太陽のにおいに包まれてドギマギしながら頷い
た。
「わかった。会いに行くからね」
「うん。……これでぼく、家、帰れる」
 青年の泣き笑いの顔が次第に遠ざかっていく。
 ああ、なんて素敵な青年に抱きしめられてしまったのかしら。まだ目覚めたくないのに。
 消えていく夢の残渣を抱き寄せ、ナルミは思った。


 図書館の仕事を休んで、ナルミは今せっせと汗水たらしながら山道を登っていた。
 額の汗をタオルで拭えば、小さな固まりが指先に触れる。
 呪いの反動でできたミニミニトウガラシだ。
 これがなかなか厄介な存在で、見た目がどうこうというよりも、汗をかくと辛味成分が溶け出すのか、
やたらおでこがヒリヒリと痛み、熱を持つのだ。
「こんなんじゃ、かぶれないかしら?」
 指先で触れれば、弾力をもって僅かに弾むトウガラシ。
 これ見つけ出した彼に食べてもらわないと、一生このトウガラシと付き合っていかないとならなく
なる。
 ちなみに一度自分で千切ってみたのだが、なかなか悲惨な結果が待っていた。
 小さなトウガラシのくせに、しっかり皮膚と繋がっているらしく、引きちぎると痛みを発して血まで
流れた。プツンという音もしっかりナルミの耳に届いたくらいだった。しかも、千切ってものの5分で
新しいトウガラシができ当あがっていたのだから、引きちぎって痛がるぶん無駄というものだ。
 山登りのための完全防備でリュックを背負ったナルミは、かつて青年に会った山の斜面を目指して歩
いていた。
 まさか子どものときに迷子になった山に、彼がそのまま留まっているとは思わなかった。
 拍子抜けするくらいだった。
 ナルミは来る日も来る日も、図書館の膨大な量の本に話し掛けては、彼の行方を追っていたからだ。
 世界に数多いる種族の中には、彼のような耳と尻尾をもった種族がいるかもしれないと生物学の専門
書を調べたり、幻のモンスターのたぐいまで調べてきたのだ。
 だが似たような外見的特徴の種族がいたとしても、それは大陸を越えたはるか彼方の地であり、多く
が貴重種となって保護下にあって、勝手に大陸を越えて旅行しているはずもない存在であったりしたの
だ。
 でも呪いを信じるならば、彼は子どものときに登った山のどこかにいることになる。
「おーーい。わたし、来たわよ。おーーい、どこにいるの?」
 呼びかける段になって、そういえば名前を知らないと気付く。あの夢の中で聞いておくべきだったと
後悔するが、もう遅い。
 たくさんの大きな蕗の葉が広がる斜面を歩きながら、ナルミが声を上げる。
「会いに来たよ、銀髪のおにいさん。出てきてよ〜」
 そう叫んだときだった。
 背後の草薮を掻き分け、あの銀髪が現れたのであった。


 夢にまでみた憧れの邂逅。
 美しいまでの銀髪は、長い年月に埃と泥にまみれてぱさついてはいたが、銀糸のように光り肩を覆っ
ている。
 黒い大きな瞳は、その中にナルミを映して輝いていた。
 細身のすらりとした体を背を覆うほどの草薮の中から現し、青年がナルミを凝視する。
 そして次の瞬間、ナルミが言葉を発するよりも早く駆けより、両腕の中に抱きしめたのだった。
「え? あ、わたし……」
 ぎゅっと抱きしめられ、青年の胸の鼓動までが体に伝わる密着。
 くらりと眩暈を感じるほどの快感に目を閉じたが、青年の腕から伝わるのが力強い抱擁というよりも、
縋りつくような気配を漂わせているのに気付いて目を開く。
 頭の上にある青年の顔をそっと見上げる。
 そしてそこにある涙にくれた顔をみて呆然とする。
 まるで迷子になった子ども、が母親をみつけて安堵のあまりに緊張の糸が切れて泣崩れるようにして、
滂沱と涙を流している。
「あの、どうしたの?」
 大人の青年に声をかけるというよりも、幼い子どもに声を掛けるようにして言えば、涙でしゃくりあ
げる声が答える。
「どうしてこんなにぼくを一人で残していってしまったの? 君がぼくをココまで連れてきたのに」
 声は大人のそれだったが、話口調は全くの子ども。
 もうこんな山の中に一人で取り残されるのは嫌だと全身で示した青年は、ますます力をこめてナルミ
を抱きしめる。大好きなクマの縫いぐるみを不安のあまりに抱き潰す子どものように。
「うっ……苦しいから、どこにも行かないから……腕緩めて」
 美貌の青年の抱きしめられる幻想はどこへやら、息すら満足につけない苦しさに、青年の腕を叩いて
訴える。
 途端に青年の腕にこめられていた力が緩められ、「ごめんね」という涙声の謝罪とともに抱擁から解
放される。
 その心細い声に、咳き込みながらも頷いたナルミは心細さに両手をギュッと握る青年に苦しさを残し
た顔で笑いかける。
 そして爪がくいこみ、間接が白くなっている拳を開かせると、手をつないだ。
「ね、こうすれば不安じゃないでしょう」
 青年は子どものようにコクンと首を頷かせる。
 かわいらしい。
 もちろんナルミの理想は自分が守ってもらえる、大人の男に出会えることだったのだが、それはそれ、
これはこれ。
 しばらくして笑顔を取り戻した青年を見上げ、自身も笑みを浮かべる。
 だが先ほどの青年の言葉に気になる点があった。
 ――君がぼくをここまで連れてきた
 どういう意味なのだろう?
 わたしは、迷子になって救われたとき以前に、彼に会ったという記憶はない。
 こんな美形な銀髪にキツネ耳と尻尾がある人物に出会ったことを忘れろというほうが無理な話だ。
「ねえ、わたしがあなたをココに連れてきたって、どういうこと?」
 青年の顔を探るように窺いながら聞けば、途端に傷ついたように繊細な眉が顰められ目が潤む。
「覚えて……ないの? ぼくのこと……」
 今にも瞳から零れ落ちそうな涙に、ナルミは慌てて首を横に振る。
「違うの。ちゃんと覚えてる。あなたが山で迷子になったわたしを背負って助けてくれたのよね。だか
ら、あなたに会いたくて、呪いのジュース飲んでまで探してたの。でも、それ以前に出会ったという記
憶が……」
 青年は繋いでいた手を顔に引き寄せ、ナルミの手の甲を頬擦りする。
「じゃあ、ぼくの名前も覚えてないの?」
 大好きな母親に縋りつくような青年の動作に後ろめたさを感じつつも、頷くしかない。
 青年の目から涙が一筋、流れ落ちる。
「ごめんね」
 堪らなくなって謝ったナルミに、青年が目を開け、ナルミを見つめる。
「ぼくの名前はヴァシリニアン」
 そっと発せられた言葉に、ナルミの脳裏にひらめくものがあった。
「その名前は……」
 ナルミはまざまざと過去の自分の映像が甦って、声を失う。
 ヴァシリニアン。
 それはかつてナルミが愛した絵本の中のキツネの名前であった。


 ヴェシリニアンに手を引かれて歩いていく。
 岩山の一角に開いた穴の前で立ち止まったヴァシリニアンが「待ってて」と言って穴の中に入ってい
く。そして手にして戻ってきたのが、ナルミがどこへでも持って歩いた宝物だった絵本だった。
 雨風に晒されて変形した紙を捲る。
 そこには幼い日々、ヴァシリニアンと旅した野原がや川、魔の森が描かれていた。
 子どものころから想像力がたくましかったナルミは、本当に絵本の中の世界を感じ、自分も旅してい
たのだ。
 だが絵本の中に、肝心のヴァシリニアンの姿がなかった。
 まるで初めからそこにはいなかったかのように、背景だけが残り、対峙したクマの邪王の威嚇する先
には何もない。
「まさかこの絵の中のヴァシリニアンが、あなた」
 絵の中のキツネは、大人になるための旅に出たところであったはずの少年キツネだった。
 仲間から銀色であるがゆえにのけ者にされたヴァシリニアンは、だが素直に自分の明るい未来を信じ
る少年キツネだった。
「あの日、君と一緒に山に来た。でも、君は途中で泣崩れて恐怖のあまり暗闇の中で気を失った。
 それでも誰か助けてと君は助けを叫び続けていた。その声に、ぼくはどうすることもできずに手をこ
まねいていた。でも、ぼくは君を助けたくて助けたくて、必死で君の泣き顔に手を伸ばしていたんだ。
 そうしたら気がついた時、ぼくは絵本の中から飛び出して君を抱き上げていたんだ」
 そんなことが本当に起こるのだろうか?
 ナルミは信じられないという思いと同時に、そこまで自分を思ってくれた青年に感謝の思いを抱いた。
 少年だったヴァシリニアンは、自分を助けたためにこんな山の中でたった一人で過ごすうちに青年の
歳にまでなってしまった。
 自分がヴァシリニアンに寂しい時間を与えてしまったのだ。
 自分ならば、ヴァシリニアンに絵の中から現実に現れる力を与えることができたかもしれないと思い、
そっとヴァシリニアンの頬に手を伸ばした。
 本の声を聞き、時にその中にこめられた作者の思いを映像として見ることができる自分になら。
 昨日の料理本のときも、作者は幸せな自分の在りし日を思わせる姿で自分の本を読んでくれるように
懇願しながら現れたではないか。
 幼い日の自分は、同じようにヴァシリニアンに呼びかけ、彼を現実の世界に呼び出し、そして置き去
りにしてしまったのだ。
「ごめんね」
 どんな償いができるのかも分からなかった。
 そんなナルミの思いを感じとってか、ヴァシリニアンはもういいんだよ、と首を振ってくれる。
「ヴァシリニアン、あなたはどうしたい?」
 ヴァシリニアンは笑顔に少しの寂しさを覗かせたままに言う。
「帰りたい。元いたぼくの居場所に」
 それはナルミの手にある絵本の世界の中だった。
 今手に手を取り合い、体温さえ感じる青年を、それは失うことを意味していた。
 絵本という二次元の世界の住人としてしか出会えない存在に変えてしまうことに。
「そうか。わかった」
 ナルミは頷いて俯いたが、青年に笑いかけると本を胸に抱き寄せた。
 そのナルミを青年が体ごと覆うように抱きしめたくれる。
「ナルミ、ありがとう。ぼくは君に会うことだけが望みだった。その夢は叶った。だから、ありがとう」
 ナルミは声もなく頷くと、じっと絵本の中の世界に意識を集中した。
 頬に野原を駆け抜ける風を感じる。
 空からは、冷たい月の光が降り注ぎ、足元を覆う豊かな草の一本一本を光らせている。
 立ち上る匂いは春の匂いと雨上がりの匂い。
 手を伸ばせば、ふんわりと温かさを感じる優しい手触りの毛皮。
 目をあけたナルミの目の前に、少年ギツネよりも精悍になった青年ギツネがいた。
 言葉を話すことがなくなったキツネのヴァシリニアンが、前肢でナルミの手を撫で一声鳴き声を上げ
ると、颯爽と野原の中を掛けていく。
「ヴァシリニアン!」
 ナルミの声が野原の中に溶けていく。
 ヴァシリニアンが振り返る。
 銀色の毛に月の銀粉を纏った幻想的な美しさであった。
「また会える?」
 問いかけたナルミの脳裏に、ヴァシリニアンの大人の声が聞こえる。
―― いつでも。君がぼくの絵本を持っていてくれる限り。
 ナルミが目を開けた。
 目の前にあるのは野原ではなく、木々に覆われた鬱蒼とした森の中。
 でも手に乗せた絵本の中には、確かにヴァシリニアンがいた。
 野原の中に佇んだヴァシリニアンが、じっとナルミを見つめていた。


「ヴァシリニアン!」
 図書館で返却された本を棚にしまっていたナルミは、脚立の上から転げ落ちそうになるくらいに驚い
て声をあげる。
 あの銀髪の青年が、ナルミの目の前に棚の上に腰掛けた姿で現れたのだ。
 だがもちろん、図書館で本を読んだり探したりしている人たちにヴァシリニアンの姿は見えてはいな
い。
「やあ、ナルミ。会いに来たよ」
「急に現れて驚かせないで」
 小声で囁くナルミを、訳知り顔の館長が笑顔で見あげて通り過ぎていく。
 ナルミはあれから、肌身離さず持ち歩くようになったカバンが増えた。
 薄いスケッチブックを入れて歩くようなカバンは、「はじめての手芸」の本の美人奥様、クリスの手
ほどきで作った手作りだった。美人で笑顔を絶やさないクリス婦人だったが、意外に毒舌で、不器用な
ナルミは毎晩冷えた笑顔に罵倒されながら、苦心のすえに作ったかばんだった。
 もちろんその中にはヴァシリニアンが住む絵本が眠っている。
「絵本の中の世界も住みやすくて大好きなんだけど、やっぱりこの体にならないと、ナルミと触れ合え
ないから」
 この頃図書館に現れては本の中の世界を渡り歩いているヴァシリアンは、くどき文句をあらゆる本か
ら参照してナルミを翻弄してくれる。
「おおナルミ、ナルミ。どうして君はナルミなんだい?」
「それは女のジュリエットがロミオに告げる愛の言葉ですから」
 ナルミは苦笑してヴァシリニアンに告げる。
「だったらナルミがぼくに言って」
 少年の語りから、すっかり青年のそれになったヴァシリニアンに眩暈すら覚える。
「おおヴァシリニアン、ヴァシリニアン、どうしたあなたはヴァシリニアンなの」
 ナルミは顔を赤くしながら言う。
「君に出会うためにさ」
 ヴァシリニアンの唇がナルミの額を掠める。
 そのキスは、ナルミの在りし日の冒険の末の清々しさとトキメキを甦らせるのであった。
 だが次の瞬間に聞こえたのはヴァシリニアンの悲鳴のような声。
「辛い、なんだよこれ!」
 はっとしたナルミが額に手を触れる。
 するとそこに生えていたはずのミニミニトウガラシが消えていた。
「ヴァシリニアン。食べてくれたんだ」
 絵本に返す前に食べてもらうのを忘れて、生えっぱなしだったトウガラシに、内心諦めてしたナルミ
は、口に手を当てて悶絶しているヴァシリニアンに声を殺して笑う。
「ヴァシリニアン。どこまでも一緒に旅しよう」
 好奇心に目を輝かせた少女のナルミがそっと囁いていた。






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