「悪魔はどっち?」

    

 ジュージューと豪快な音を立てるフライパンが空中に舞い上げるのは、芳ばしい香りを撒き散らすお 茶がら。 「本当にそんなのがおいしくなるの? ぶっちょう」 「大丈夫です、先輩。明日の先輩のお弁当のご飯を彩ること請け合いです」  フライパンを振るうエプロン姿の女子高生、秋吉桜子が長いポニーテールを振りながら笑顔で頷く。 「ふ〜ん。いずれにしろ腹減らかし部員たちがお待ちかねだから」 「はい!」  一年生でありながら部長という地位についている桜子を取り囲むのは、エプロンもせずに片手にご飯、 もう片手にお箸をセットした上級生を含む部員たちだった。 「は〜い、できましたよ」  フライパンの上で湯気を上げているものを覗き込み、部員たちが「おお〜〜」と声を上げる。 「おいしいものはお金をかけなくても食べられるはず! というコンセプトのもとに開発しました、ク ズで作る極上ふりかけ。略して《クズかけ》完成です!」  こぞってご飯茶碗を差し出す部員たちに、スプーンですくってかけていく。 「入っているのは、お茶がら、ダシをとり終わったニボシと鰹節、袋の底に残っていた桜海老の粉、砕 けた海苔&おせんべい。あとは塩、醤油、みりん、酒などで味付けしただけです」  得意満面で説明する桜子の言葉をよそに、授業終わりで腹の減った女子高生たちがふりかけご飯を口 に掻き込む。 「ん?! うまい!」  男子がいない調理室の中は、親父の飲み会もかくやというほどに可愛げのない声が飛ぶ。 「でしょ、でしょ? 先輩。これはかなり満足の一品でしょう?」  今度はかいがいしくお茶などついで回っている桜子に、一家の大黒柱の親父さんばりに湯のみからお 茶を飲んだ先輩が「かぁ〜、うまかった」などといって頷く。 「今日の料理研究部の活動も有意義だった」  先輩の鶴の一声で部員たちも「ごちそうさま〜」と閉会の合言葉を口にする。 「じゃ、来週もまた頼むわな、桜子」 「はい!」  週一回の定例の部活動。しかし名ばかりの活動は、いまや桜子のお料理披露会&お食事会となってい たが桜子はそれで満足だった。  自分が立ち上げた部に賛同して入部してくれた人たちがこんなにいて、自分の料理を喜んで食べてく れる。  去っていく先輩たちの背中を見送り、後片付けをする合間も幸せな気分の桜子だった。  余ったふりかけを、佃煮の終った空き瓶に入れてホクホクと調理室を出ようとしたところで桜子は、 目の前を通りかかった人物に思わず頬を赤らめて立ち止った。  憧れの先輩、伊集院楓。  天使の輪ができるほどのサラサラの黒髪が似合うさわやかな生徒会長。もちろん勉強も学年一位で、 東大合格間違いなしといわれるパーフェクト男。それが、桜子の憧れの伊集院楓だった。  手にしたファイルに目を通しながら、隣りに立つ美人副会長の裕子先輩と言葉を交わしながら通り過 ぎていく姿は、まさしくできる男そのものだった。  その楓が不意に立ち止り、調理室の入り口で目をハートマークにしていた桜子へと振り返る。 「いい匂いだね」  楓が言う。  声まで素敵だ。  ほぉ〜と惚けていた桜子だったが、その楓の目が自分に注がれているのに気づいて飛跳ねて姿勢を正 した。 「あ、はい。料理研究部で調理した後ですので」  上官を前にした仕官のように敬礼しそうな勢いで折り目正しくいった桜子に、楓がクスクスと笑う。 「確か一年生で部活動を立ち上げた子がいるって文化部の部長から聞いてるけど」 「はい、わたくしであります」  桜子はそう言ってペコリと頭を下げる。 「そうなんだ。君がね。今日は何を?」  楓がこんな大勢の人間の中では埋もれてしまうような目立たない存在の自分に声をかけてくれている。  それだけで舞い上がっていた桜子は、ハイテンションで顔を上げると手にしていた佃煮のシールが貼 られたままの瓶を自慢げに掲げた。 「これです。普段はゴミとして捨ててしまうような食材の再利用をテーマに作りました、お茶柄ふりか けです。とっても芳ばしくておいしです。先輩もおひとつどうですか?」  瓶のふたを開けて見せようとする桜子に、楓が苦笑いを浮かべながらやんわりと辞退すると、それで も愛しい後輩を見つめるように微笑む。 「それは今度ごちそうになるかな。今はちょっと生徒会の仕事で忙しいから。でも、学校の活性のため にも君みたいな頑張り屋の明るい女の子がいてくれるのは、生徒会長として嬉しいよ。これからもがん ばってね」  キラリと白い歯が光りそうな爽やかな笑顔を残して去っていく後ろ姿を見送り、桜子は深々と頭を下 げた。  その姿を美人副会長がクスリと笑って見送る。  その笑いは少し気に障ったが、それでもそこは美人のすること。いちいちとがめだてすることはしま い。  それに今は初めて憧れの先輩の瞳に自分を映してもらったというだけで舞い上がりまくりだ。今日は きっと、わたしは最高の運勢だったに違いない。占いでおとめ座A型はナンバーワンの運勢に決まって る!!  桜子は佃煮の瓶を握り締めて「よし!」とガッツポーズを決める。 「威勢がいい姉ちゃんだな」  そこへ、軽い男の声がかけられる。  楓先輩が消えたのと同じ方向から歩いてくる男に、桜子は思わず後退さる。  楓と同学年の女子の人気でいえば楓と二分するといわれている男、一之瀬彰だ。  だが桜子はこの彰が大の苦手だった。  楓と同様、今日この瞬間まで一度たりとも口を聞いたことなどないのだが、それでも在る意味で学校 中の誰もが知る有名人だった。  楓が善なら、彰は悪。楓が白なら、彰は黒。楓が神なら、彰は悪魔。  桜子の中のイメージで言えば、そんな感じだった。  長い金髪を編みこんでまとめた、完全にバンドマンな外見で、ブルーのカラコンまでした姿は、背が 高いこともあって外人かと思うほどだ。もちろん足も長い。  制服もだらしなく着こなしていると、桜子は思うのだが、そんな鎖がジャラジャラと腰で鳴っている ような姿がこれまた、似合っているのが憎い。  耳に並んだピアスがキラリと光る。 「ふーん、いい匂いすると思ったら、おまえおもしろいもの持ってんじゃん」  彰がにじりよってくると桜子の持った佃煮の瓶を覗き込む。 「なに、それ」 「お茶柄で作ったふりかけです」  先ほどの楓への対応と比べれば、随分とそっけない口調と態度だったが、そんなことは知らない彰は 感心したように桜子の前に座り込むと、瓶を手に取って底からふりかけを覗き見ている。 「へぇ、おまえおもしろいこと考える奴なんだな」 「……おもしろいですか?」 「ああ。うちの姉ちゃんが手下に欲しがりそうだ」 「先輩のお姉さん?」  尋ね返した桜子に、不意に立ち上がった彰が瓶の中からふりかけをつまんで出すと口に入れる。 「お、うめえ。こりゃいいや。ねぇ、これちょうだい」  クールで少し怖いというイメージすら持っていた彰が、佃煮の瓶を握り締めて笑顔でふりかけを食べ ている。しかも口の端に海苔をくっつけて。 「え、いいですけど」 「ほんとう? ラッキー! 絶対にめしがうまくなるよな、コレ」  そして心底うれしそうに笑った彰が佃煮の瓶に頬擦りする。 「ありがとうな。今度お礼するから」  彰が呆然と見上げる桜子の頭をポンポンと叩いて通り過ぎていく。 「お礼なんていいですけど……」  その声が彰に届いたかどうか分からないほど、はしゃいで去っていく彰の背中を見送りながら、桜子 はパチパチと瞬きを繰り返した。  今日はなんて不思議な日なんだろう。  憧れの楓先輩とお話できて、その楓先輩と人気を争う美形バンドマンの彰の意外な一面を発見して。 それからおまけに新作お茶柄ふりかけは大人気で。 「でもいい日はいい日だよね」  桜子はエプロンを入れたウサギのアップリケのついたカバンを振り上げると、小学生のようにスキッ プしながら廊下を駆け抜けていった。     
 寝ても覚めても目の前をちらつくのは、伊集院楓の爽やかな笑顔。 「ああ、……重症だ………」  授業中だということも忘れて頭を抱えた桜子は、数学の教科書の上に突っ伏しながらため息をつく。  それを隣りの席から眺めていた親友の果歩子がニヤニヤしながら見下ろす。 「ああ、愛しの楓先輩、って胸も張り裂けそう?」  胸を押さえて苦しげに演じてみせる果歩子に、桜子はムッと伏せていた顔を向ける。 「そうやって茶化して」 「だっておもしろいんだもん。あんな大物を好きになるなんて勇気あるなぁ」  器用にシャーペンを親指の上でクルクル回しながら他人事と果歩子が言う。 「好きになったくらいで驚かれたら困るのよ。だって、今日こそはって気合入れてきたんだから」 「気合って?」  欠伸交じりに黒板に並ぶ難解な記号を眺めていた果歩子に、桜子は机の横にかかっていたカバンから 一つの包みを取り出す。  一つだけキレイな包みでラッピングされた丸い固まりを果歩子のノートの上に置く。 「なにこれ?」  ピンクのリボンで絞られた上部に鼻を寄せてクンクンと匂いをかむ果歩子。 「楓先輩への差し入れ。先輩が実は和菓子好きだって情報を得て、昨日がんばって作ったんだから」  果歩子が無造作にリボンを解くと、見事な茶巾絞りの菓子が現れる。  鮮やかな黄色と緑が交じり合う菓子は、手づくりと思えない完成度だ。 「さすが料理研究部部長。職人技」  そして一口で口の中に放り込むと、目を閉じてモグモグと口を動かし続ける。 「うん、うまし」  満足げに頷く親友の横顔を真剣に見詰めた桜子は、机の上から身を乗り出すと、果歩子に顔を近づけ る。 「楓先輩気に入ってくれるかな?」 「この菓子を? それともあんたを?」  手についた餡を舐めとりながら、鋭い視線で言う果歩子に桜子がウッと言葉を詰まらせる。 「告白する気なんだ」 「……うん」  赤い顔をして俯く桜子に、果歩子は笑顔でその肩に手を置く。 「玉砕されて来い!」 「そんなぁ」  折しもそのとき鳴った授業終わりのチャイムに、桜子の悲痛な叫びはかき消されるのであった。 「あの、楓先輩!」  放課後に一人昇降口から出てきた楓を見つけた桜子が勇気の限りを振り絞って声をかけた。  一緒に行ってと頼んだ果歩子に至っては、結果の見えた悲劇は見る価値なしと付き合ってもくれずに さっさと部活へ直行。今ごろ竹刀を振るっていることだろう。 「ああ、君はこの前のふりかけの子だよね」  ふりかけの子……か……。  少し微妙な思いもした桜子だったが、覚えていてくれたことの方が嬉しくて頷く。  そして下げていた手提げから果歩子に渡したものより格段に気合の入ったラッピングの包みを取り出 し、楓の前に差し出す。 「あの、これ、楓先輩のために作りました。よかったら食べてください」 「え? ぼくに?」  唐突に大きな包みを手渡され、ためらいを見せた楓だったが、笑顔で頷くと受け取ってくれる。 「ありがとう」  やっぱり爽やかな笑顔だった。  このまま一緒に並んで帰るなんてことができたら、一生分の運を使い切ってしまいそうだと、妄想だ けは膨らんでいく。  だがそんな妄想を実現させるためには、その前にやるべきことがあるのだ。  うつむいて動悸と闘う桜子と楓の間に沈黙が落ちる。  ヒュールルと吹いた木枯らしに枯葉が足元を舞い、二人が首に巻いたマフラーが揺れる。 「楓先輩!」  両手をぎゅっと握り締めて顔を上げた桜子を、楓はいきなりの大声に面食らいつつも真面目に見つめ ていた。 「楓先輩が大好きです! もし今彼女とかいなかったらお付き合いしてください」  言った!  昨日の夜から何度も何度もシュミレーションして練習してきた言葉が、口から途切れることなく吐き 出された。  あまりの緊張に息が切れる。  はぁはぁと息をついてしまいそうなのを堪え、そっと先輩を見上げる。  そこにあったのは、少し困った顔をして微笑む先輩の顔だった。 「ありがとう。……でも、ごめんね。今、つきあっている彼女とかはいないんだけど。彼女とか作るつ もりはないんだ。ぼくたちはこれから受験に備えないとならない身だし、生徒会とか何かと忙しくて、 彼女になっても寂しい思いさせてしまうだけだと思うから」  心底申し訳なさそうな悲しげな微笑に、桜子の方が恐縮して「いいんです」と首を振る。 「気持ち伝えたかっただけですから。でも、彼女になれなくても、楓先輩のことは好きでいさせてくだ さい」  実は涙が出そうなのを誤魔化して桜子が笑う。 「………ぼくみたいなので良ければ。でも、優しい彼氏を見つけてほうが、楽しいと思うんだけど」 「楓先輩以上なんて、なかなか現れてくれませんよ」  笑顔でそう言いきった桜子は、勢いよく楓に向って頭を下げると「ありがとうございました」と言っ て昇降口へと駆けていく。  その背中に楓の「これ、ありがとう」という声が聞こえた。  自分の下駄箱に手をついてうな垂れた瞬間に、口から子どもの頃以来の泣き声がもれる。  予想はしていたのに、それは頭が失恋という言葉を思い浮かべていただけで、事実として突きつけら れたとき、自分の中にその覚悟や理解はなかったのだと思い知らされる。  振られたんだ。  あんなかっこよくて、素敵なパーフェクトな男に、自分なんて不釣合いなのは分かるけど、あの自分 に笑いかけてくれた笑顔をずっと見ていたいと思うこの気持ちは、どうやって折り合いをつけたらいい のだろう。  ポタポタと足元のコンクリートの上に涙の飛沫が飛び散るを、他人事のように見下ろしながら思う。 「振られてやんの」  その桜子の耳に聞こえてきたのは、あの日聞いたのと同じ軽い調子の声だった。  いつからそこにいたのか、隣りのクラスの下駄箱の陰に身を隠すようにしてコンクリの上にじかに座 り込んでいる一之瀬彰がいた。  絡まりそうだと桜子が思うほどの長い足を体育すわりで抱えた姿は、強面の彼には似合ってはいなか った。 「……何してるんですか?」 「見てわかんね? 隠れてんの。今日、朝寝坊しちまったからバイクで学校きたら、生活指導の児玉に 見つかってよ」  指にキーホルダーの輪を引っ掛け、バイクの鍵を鳴らして見せる。 「で、あんたは楓に告白して玉砕?」  そんなところも見られていたのか……。  彰と話している間も止まらない涙を頬に流しながら、桜子は彰から目をそらして強がって鼻をすする。 「別にいいんです。どうせわたしなんて気に入られるなんて思ってませんでしたから」 「そのわりに、大号泣しているように見えるんですけど」  顔が歪まないように堪えているのに、痛いところを突かれて桜子がハンカチで涙を拭いながら彰の背 を向ける。  その様子を茶化すでもなく、黙って見守っていた彰が小さな声で言う。 「あいつは止めとけ。おまえじゃ手に負えない」 「……そうですよね。わたしみたいな平凡な取り柄のない女はつり合いません」  ツンと顎を上げて言う桜子に、彰はヨッと声をかけて立ち上がる。 「そういう意味じゃない。それにあんたはすげえ特技もってるだろ。わたしなんかなんて言うな」  彰はそう言うと、後ろからヒョイと桜子の顔を覗き込む。  そこには、案の定強がったことを言いながら涙を流してハンカチで顔を覆った桜子がいた。 「……そんなにあいつのことが好きなのか?」 「だって……かっこよくて、優しくて、頭良くて、人望があって、……王子様みたいじゃないですか」  次第に泣きしゃっくり混じりになる声に、彰が慰めるようにその頭をポンポンと撫でる。 「あいつの本性はそんなんじゃないのに」  ため息交じりの彰の言葉に、ハンカチの隙間から目だけを上げた桜子がキッと鋭い目で睨む。 「本性ってなんですか!」 「おっかねぇ」  その視線の鋭さにおどけて見せた彰だったが、桜子の腕を掴むと予告もなく歩き出した。  足の長さが違うのを考慮に入れない早足に、桜子は半分引きずられるようにして小走りで付いて行く。 「な、なんですか? 何する気ですか?」  涙と鼻水まじりの顔で叫べば、彰が腹黒そうな笑みで目を細める。 「おまえを拉致」  いやぁぁぁぁぁ!!  内心で悲鳴を上げる桜子を、ヒョイと肩に担ぎ上げた彰は嬉しそうに歩き出す。 「下ろして!」 「あんまり暴れるとパンツ丸見えになるよ」  肩の上でシーソーのように揺れながらも短いスカートの裾を必死に押さえる桜子に、彰は笑い声を上 げるのだった。  彰に拉致された桜子がいるのは、彰のバイクの上だった。  繁華街を抜け、桜子はいつも決して近寄らない夜の街の路地でバイクが止まる。  こんなところに連れてきて、わたしをどうするつもりなんだろう?  ゾクッと背筋が震える。  辺りをそっと見回せば、ひしめき合う飲み屋の看板の合間に、毒々しい色で彩られた、怪しい宣伝文 句のホテルの看板が点滅する光に囲まれて光っている。 《濃厚な愛を交わす秘密の城、ムーランルージュ》 《ふたりの囁きタイム、ライムライト》  ま、まさか?!  わたしはこの男に手篭めにされるのか?! それとも売り飛ばされるのか?  ヘルメットを外した金髪の頭を後ろから眺めながら、逃げなければと思うのだが、いかんせん小さな 背で短い足は地面からは程遠いところでブラブラと揺れるばかり。  この一之瀬彰。いろいろと悪い噂が耐えない男であるのは、一年の桜子でも知っていた。  女をとっかえ引返して妊娠させたあげくに捨てただとか、柄の悪い男と夜の街を徘徊しているのを見 たとか、果てはヤクにまで手をだしているだとか。  伊集院楓とは真逆に存在している男だと桜子は思っていた。  わたしは楓先輩と一緒にいたいのに、なぜこんな男に掴まっているのだろう。神様は意地悪だ! 悪 魔にわたしを売り渡したんだ!  被せられたメットの中で悪態をつく桜子だったが、バイクを降りた彰に急接近されて悲鳴を上げる。 「な、なにを!」 「なにをって、バイクから下ろしてやろうかなって」  過剰な拒否反応に目を丸くした彰だったが、掛け声一つで桜子を子どものように抱き下ろすと、バイ クを止めた自販機の陰に身を寄せた。 「あの角見てろ。楓の奴が来るはずだから」 「え?」  彰が指さしている方向を見て、桜子は声を上げた。  そこにあるのは小洒落てはいたが酒を扱う店だ。もちろん女の子がつくタイプのクラブだ。 「なんでこんなところに楓先輩が! 先輩は品行方正で真面目で、どっかの誰かさんとは違います!」 「どっかの誰かって、誰だよ」  拗ねた口調でいう彰を無視して、それでも必死に店の入り口を凝視いていた桜子は、そこに現れた黒 塗りの車に目を見開いた。  場違いなほどに上等な、ボンネットに天使の乗った車から、スラリと背の高い男が降りてくる。  間違いようもない。それは伊集院楓だった。  だが顔つきが違う。  冷徹で残酷な光をともした目が、傲慢に自分のためにドアをあけたスーツ姿の男を見下ろす。 「楓様、お荷物は?」  車の中から楓に声がかけられる。 「家に運んどけ」 「このプレゼントの包みもでございますか?」 「あ?」  不愉快そうに振り返った楓が上半身だけを折ってリボンのかけられた包みを手に取る。  そしてそのまま包みを車の外に放り投げる。 「俺にこんな貧乏くさいプレゼントが似合うと思ってんのか? あんなクズを俺に処理させるなんて、 てめぇも無能だな」  身を起こした楓が側についていた部下に、車の中の男を首にしろと自分の首を親指で掻き切る真似で 示す。  それに頷いた部下を引き連れると、店の中へと消えていく。  車が走り去り、路地に放り出されたプレゼントの包みが悲しく取り残される。 「……あれ……わたしがあげたプレゼント……」  呆然と呟く桜子の肩に手を置くと、彰は楓の消えた店の入り口を見つめた。 「うっ……うう……うわぁぁぁ……嘘よ。……これはきっと夢でぇ……」  パニックを起して現実逃避しようとする桜子の隣りで、彰が困った顔で涙にくれる様子を見つめてい た。 「そんなに泣くなよ。な、これでも食って元気だせよ」  彰の言葉と同時に桜子の前にラーメンのドンブリが出される。 「ほら、おごりだから」  顔を覆った指の間から見た桜子の目の前で、芳ばしい匂いと温かい湯気が上がっていた。 「俺の親父の特製ネギラーメン。うまいって結構有名なんだぞ」 「先輩のお父さんの?」  桜子が真っ赤になった目で見上げれば、眩しいほどに禿げ上がった頭の親父が捻りハチマキで桜子を 見下ろしていた。 「おい、嬢ちゃん。うちのバカ息子がなんか悪さしたんか? そんならあとで力いっぱい父ちゃんが叱 っとくからな」 「俺が泣かしたんじゃないから。親父は口挟まないでくれる?」  金の長髪息子と、毎朝磨いているのではないかと思うほどの見事な照りを放つハゲ頭が並んでいた。 「先輩も、……いつかラーメン屋になるんですか?」 「俺が? まさか。絶対にラーメン屋なんてならねぇよ」 「オウオウ、おまえなんか売れないミュージッシャンにでもなって三畳一間のボロアパートでひもじい 思いでもしとればいいんじゃ!」 「今どき、三畳一間なんてあるか!」  絶妙な親子の掛け合いで応酬を飛ばし合う様子に、桜子は自分が泣いている理由を見失いかけて眦か ら流れた涙を手の甲で拭った。  親子の言い合いを横で聞き流しながら、桜子はラーメンを見下ろす。  ミソラーメンだ。  黄色いコーンともやしを覆い隠すほどにこんもりと盛られたネギは、チャーシューとあえたピリ辛仕 立てになっている様子だった。  レンゲを手に取ってスープをすする。  喉を通って胸に伝わる温かさと、ホッとするミソの味わいに胸の奥底から深いため息がもれる。  心に溜まった鬱屈した思いが解きほぐされて、体が緩んでいく。 「おいしい」 「そうだろう、嬢ちゃん。俺っちのラーメンは最高でい」 「うん。気持ちがほぐれて、また涙が出てきちゃった」  鼻をすすりながら同時にラーメンもすすり、苦しそうに咽る桜子を、彰と親父さんが苦笑しながら眺 めるのだった。  そこへ暖簾をくぐってラーメン屋に入ってくる美女が一人。 「親父、ネギミソラーメン大盛りとギョーザ二人前! あ、それから彰、ビール大ジョッキでもってき な」  気風のいい姉さんという雰囲気のペールブルーのスーツを着こなした美女が、彰の隣りにダンと音を 立てて腰を下ろしながら命令を下す。  そしてイライラした調子でヘアースタイルが崩れるのも構わず髪を掻き毟る。 「早く!」  その一言で、ため息交じりではあったが彰が立ち上がってビールを取りに行く。  そして壁となっていた彰が消えたことで、ラーメンを頬張った桜子と豪快美女さんの目が合う。 「ん? あなた彰の新しい彼女? にしちゃあ、随分今までと毛色が違うけど」  口からラーメンの麺を下げた桜子ににじり寄った美女だったが、ヌッと突き出されたビールのジョッ キに遮られる。 「俺の彼女じゃありません。楓の奴とちょっとあって落ち込んでたから連れてきただけ」 「ああ、……楓ね」  ビールに喉を鳴らした美女、もとい彰の姉が訳知り顔で頷く。 「見てくれに騙される年頃かもしれないけどね、あれは止めときな。傷だらけにされちゃうからね。純 真なかわいい女の子が関わっていいやつじゃないのは、この姉さんが保証するから」  焼きあがったギョーザをつまみながら、彰の姉が頷きながら言う。 「……そんなに悪い人なんですか? 楓先輩って……」  楓のことを良く知っている風な彰とその姉の複雑な顔に、桜子が恐る恐る聞く。  それにカウンターに身を乗り出した姉が言う。 「この世の中に本当の悪人なんていないの。真の悪は、完全な人間が故意に犯す罪くらいよ。楓も悪人 じゃない。……ああなったのには理由がある。同情すべきね。善と悪で語れるほど単純じゃないのよ。 だからこそ、あいつの抱える複雑に絡まった感情を理解できるくらい広い心をもつ人間じゃないと、抱 え込めない人間なのよ。楓っていう男は」  初対面の自分に真剣に語ってくれた言葉だったが、桜子には半分もその言葉の意味が理解できなかっ た。  ただ自分のような底の浅い人間は、楓にとってお呼びでないということだけは理解したのだった。  暗く沈んだ心に突き刺さった真実に、桜子は言葉も出せずに俯いた。  それを見ていた彰が口を開く。 「あ、そうだ。姉ちゃん、あの、お茶ふりかけあっただろう。あれ作ったの、この子」  思い出したように告げた彰の言葉に、大口を開けてギョーザを口に入れたところだった姉が俯いた桜 子を凝視した。 「え? あれ作った子? うそ! それをさっさと言いなさいよ!」  ペシンと彰の頭を叩いた姉が、弟を押しのけると暗い顔をした桜子の手を握る。  手を握られて、潤んだ目で真剣に見つめられた桜子が目を丸くする。 「え?」 「ねえお嬢ちゃん。あれ、また作ってよ」 「……は、はい」 「これも彼女が作ったものらしいけど」  楓が捨てていった包みを拾ってきた彰が、後ろのテーブル席で包みを開ける。  そしてそこから出てきた美しい茶巾絞りに歓声を上げた彰姉が、両手で掴むと口に運ぶ。 「もう、これもおいしいじゃないのよぉ」  頬に餡をくっつけて叫んだ彰姉が、桜子に擦り寄って言う。 「ねえ、彰なんて捨ててわたしのペットにならない?」  半分本気そうな顔の彰姉だったが、後ろから頭を叩かれて顔をしかめる。 「桜子ちゃんは俺のペットでも彼女でもないの」  不満顔の姉にそう言い聞かせた彰が振り返ると桜子に笑いかける。 「な、言っただろう。うちの姉ちゃんに気にいられるって」  泣いていたことなど忘れて微笑み返した桜子だったが、彰の後ろにヌッと現れた姿に口を手で覆った。  彰の首に回った彰姉の腕が「チョークスリーパー」と叫び、弟の首を締め上げるのだった。 「お姉さまに手を上げようなんて百万年早いわ!」     
 桜子は手にした彰姉作の大雑把な地図を見つめ、何度も周りの看板と確かめながら一つの店のドアを 押した。 「こんにちは」  薄暗く、ムーディーな曲が流れる店に恐る恐る足を踏み入れる。  足裏にはふんわりとした絨毯の感触が伝わり、靴を脱ぎたくなる。 「いらっしゃいませ」  きっちりと黒服を着こなした男が頭を下げる。  幾分気取った大人びた喋りだが、聞き覚えがある声だ。  顔を上げた男が桜子の姿に作り上げていたすました顔をゲっと歪ませる。 「おい、おまえ。何しにこんな所に来た。20歳以下入店禁止だぞ」 「先輩だって17歳じゃん」  言い返した桜子の口を彰が慌てて塞ぐ。 「シィーー!」 「んんん!」  抗議の声を上げた桜子だったが、そのまま彰に引きずられて店の厨房の隅まで連れて行かれる。  その姿の方が十分怪しげだったのだが……。 「何しに来た!」  幾分怒った口調と態度で腰に手を当てて言う彰だったが、怒られている当の桜子はポーとした顔で彰 の顔を見上げている。 「先輩、かっこいいんだ」 「あ? 今ごろ気づいたのかよ。俺様にはファンだっていっぱいいるんだからな。って、そんなこと話 てんじゃねぇよ。だから何しにこんな所まで来たって聞いてるの!」  なんともあしらい辛い相手だと彰は頭を掻きながら思うのであった。 「お姉さんがここに行けば会えるよっていうから」  その言葉に彰が舌打する。  あのバカ姉貴もこんな酒出すような店に、いかにもお子様ですって顔した女を来させるんじゃねぇよ。 「で? こんなところに押しかけるほどの用事があったの?」 「う〜ん……用っていうか、その………」  とたんに歯切れが悪くなった桜子の様子に、薄々感づいていた彰がため息をつく。 「楓のことか?」 「………うん」  ただ振られただけなら泣いて終わりにできたのかもしれないが、楓の裏の顔と姉の意味深な言葉を聞 いているだけに気になっているのだろう。  桜子の方も、立ち入っていいのか分からない不安はあったが、聞ける相手が彰以外に思いつかなくて 押しかけてしまったのだ。  学校では、いつも通りの完璧な笑顔を振り撒く楓がいた。  まさか自分の姿を見られているとは知らないだけに、目があった桜子にも優しい微笑みを送ってくれ た。  だがそれに今までのようにときめくことはできなかった。目の奥にある冷えたものを探してしまう自 分がいたのだ。  彼にこんな二重生活をさせているものは何なのか?  知ったところで自分に何ができるわけでもないと分かっていながら、気がつくとそんなことばかりを 考えている。  おまえには関係ないことだと彰にはあしらわれるかもしれないと思っていた桜子は、俯いていた顔で 上目遣いに彰を見る。  するとそこには予想に反した困った思案顔があった。  その彰が決断を下した様子で組んでいた腕を解くと、子どもに言い聞かせるお兄さんのように桜子に 言った。 「いいか。話してやるけど、俺もお仕事中なの。店に出るから、おまえは目立たないように静かにして ろよ」 「うん」  桜子の顔が途端に笑顔になる。  分かってるのかよ、本当にこいつ。  不安になる彰をよそに、懐いた犬のような桜子が彰の手を握るのであった。 「ほれ、おごり」  キレイに砕かれた氷を詰めた細いグラスに入れられたオレンジジュースが桜子の前に置かれる。 「ありがとう」  それを大人の女がメインのこの店には似合わない子どもじみた所作で、両手でしっかり握って大事そ うにチロチロと飲み始める桜子。 「おいしいね、これ」 「生のオレンジを俺が絞って作ってやったんだから、当たり前」  それだけに高い。それが自分の給料から天引きだと思うとなかなか痛い出費だが、仕方ない。  そう思わせてしまう笑顔が桜子にはあった。無垢で裏のない心をオープンに見せた、包み込んであげ たいと思わされてしまう笑顔。 「おまえって、きっと幸せに育ったんだろうな」 「わたし?」 「ああ。歪んでないもん。まっすぐキレイに育ってきたお嬢さんって感じ」 「そうかな? お父さんとお母さんはそろっているけど、お嬢さんじゃないよ。貧乏だもん、うち」  そしてハハハと笑った桜子が制服のポケットから小学生が持ちそうな小銭入れを取り出す。そこに入 っているのはわずか152円。 「お母さんもずっと働いてるからね、毎日朝飯とお弁当、それから夕飯の用意はわたしの分担なんだ。 中学生のときからずっとね。でもね、全然大変じゃないよ。その中から節約料理が生まれたんだし、毎 晩揃って「いただきます。おいしいね」って言い合えるから」  その言葉に、彰も微笑む。  やっぱりいい家族で育まれた子どもなのだ。  おもしろいほどに伊集院楓とは正反対の存在。 「楓はおまえとは真逆だろうな。金持ちで貧乏料理なんて知らない、毎晩がおつきのシェフとメイドに 世話される王子様みたいな生活。でも……、そこにおまえの家みたいな温かさはない。冷え切った孤独 の食卓があるだけで、幸せとは程遠い」  笑顔だった桜子の顔が表情を無くしていく。 「楓先輩にはお母さんがいないの?」 「いたよ。美人でモデルみたいなのがな。写真でしかみたことないけど」 「今は?」  聞いた桜子に彰が遠い目で何かを思い返すようにして言葉を紡ぐ。 「おまえ、楓のこめかみに傷あるの知ってる?」  その問いに桜子は首を横に振る。  長髪の彰のほうが、どちらかといえばいつも髪を縛っているので顔全体が出ている。だが、短く髪を 切っている楓のほうが、前髪が顔を覆っている。意識して思い返せば右のこめかみを特に見せることが ない。 「5歳のときに母親に窓ガラスを突き破るほどに殴られてできた傷があるんだ。そのとき一週間意識不 明だったんだよな、あいつ」  桜子は想像もできない楓の過去を思って口を手で覆った。 「そんな……。なんでお母さんがそんなことを」 「アル中だったんだよ、その母親」 「そんな酷い」  弱く抵抗のすべを持たない子どもの自分が、最愛の母親に殴られ血を流す場面を想像して桜子が涙目 になる。 「まあな。母親としてやっていいことじゃない。でも、それにだって背景がないわけじゃない。楓の父 親ってのは一年に数回しか家に帰らないくらい多忙な人なんだ。結婚して子どもが生まれてからの5年 もの間、おまえ、一人で放っておかれたらおかしくならないか? 楓を怪我させてからは問答無用で即 離婚だったしな」 「……それは。……じゃあ、悪いのは楓先輩の父親?」 「それもどうだろうな。その父親だって何のために忙しく働いてるんだ? 楓や妻に何不自由ない幸せ な生活を送らせたいって気持ちも入ってるだろう」 「だったら………」  悪いのは誰?   桜子はグラスの中で薄くなっていくオレンジジュースを見つめて、混乱しそうな頭で必死に考えてい た。  人を見下し、心を無くしている楓先輩。  自分の子どもを殴って心に消えない傷を負わせた母親。  家族を省みなかった父親。  どれもが善ではないが、完全な悪と断罪できない酌量すべき痛みを抱える人間であるからこそのあや まちであって………。 「だから完全な悪人なんていないってお姉さん言ってたのね……」  あのときは理解できなかった言葉が不意に心に落ちた。  誰もが足掻いて生きていく中で、道を見誤り、修正することができずに更なる闇へと足を踏み入れて いく。 「でもさ、もう楓だって大人なんだから、自分で自分のゆがめてしまった道を修正する努力はすべきだ よな。そこら辺はあいつの弱さであって、甘やかしちゃいけない点なんだけどな」  深刻になって重くなって空気に彰が明るい声で言って桜子の前のグラスを手にする。 「もう一杯飲む? 俺ってサービスいいよな。俺だって小さい頃に母親が出て行って、姉ちゃんとあの ハゲ親父に育てられたのに歪まなかったんだから、いい子だよな」  自分でいい子と言って照れ笑いする彰に、桜子が微笑みを返す。  きっとそんな彰だからこそ、楓の抱える孤独の辛さをわかってやれるのだろう。  同じように母親がいないからこそ、店の片隅でラーメンを食べる自分にわびしさを覚えた彰がいたの だろう。  そう思った瞬間、桜子が背の高いイスから飛び降りるようにして下りると、ついさっき彰に連れて行 かれた厨房へと走っていった。 「おい! おまえ何してるの!」  後を追ってきた彰が見たのは、厨房にいるスタッフに「ちょっと料理させてください」と元気に言っ ている後ろ姿だった。  あまりに気後れしていない声に、初めて見る顔なのにスタッフたちも「ああ。いいよ」などと圧倒さ れて頷いている。 「彰先輩のために、わたしがお母さんの料理を作ってあげる」 「お母さんの料理?」  桜子はそう言うと、ボールに卵を割りいれるのだった。 「おお!」  桜子がお皿に盛り付けを終えたところで、厨房のスタッフが声を声をそろえて歓声を上げる。  黒い小さな丸いお盆の上に、朝の食卓に出て来たら幸せな気分になるメニューが載っていた。  厚焼き玉子におにぎり。きゅうりの浅漬けに豆腐とわかめのお味噌汁。 「俺も食いたい」  今にもヨダレを垂らしそうなスタッフの一人の言葉に、桜子がにこりと笑う。 「そう言うと思って、たくさん作ってあるんで皆さんでどうぞ」  これに再び低い男の声で、地を這うような歓声が上がる。  が、そんな幸せな厨房とは裏腹な騒音が店の方から聞こえてきた。  ガシャンと大きな音を立ててグラスや皿が割れる音が鳴り響き、女性の悲鳴に混じって男の怒声が聞 こえる。  喧嘩?  音だけで恐怖して首をすくめた桜子に、厨房のスタッフは迷惑そうな顔で言う。 「またあいつだよ。彰の知り合いの」 「まぁ、壊したものは必ず弁償してくれるからいいけどよ。他の客は引きまくりだよな」  呑気に桜子の作ったおにぎりを口にしながら言い合っている。 「あの〜、止めに行かないんですか?」 「ああ。あれ止められるのは彰だけだから」  その言葉を聞いた瞬間に、桜子は店の方へと走り出ていった。  こんな乱闘を彰一人で止めなければならないなんて無謀だ。  だがバックルームと店を仕切るカーテンを抜けたところで、桜子は目の前に広がった光景に怖気づい て立ち尽くしてしまった。  テーブルというテーブルがひっくり返され、床に花瓶から転がり出た花や砕けたガラス片が散らばる。  そしてその花を踏みにじって仁王立ちしているのが、伊集院楓だった。  その手には割ったワインの瓶が握られ、殴られて床に転がる男に今にも振り下ろそうとしている。 「テメェは誰に向って口をきいてる」 「ですが楓様。どんなに楓様がその存在を忘れようとされようと、あの方がいなければあなたがこの世 に存在することもない。今会われなければ後悔することに」  だがその言葉が尚のこと楓の逆鱗に触れることになった様子で、楓の顔が蒼白へと変化し、目に狂気 の光が宿る。  ギュッと握った手の中でワインの瓶が割れて楓の手から血が零れ落ちる。  その自分の手を冷めた目で見下ろした楓がワインの瓶を放り投げると、血で濡れた手を床に転がって いた男に向ける。 「舐めろ」  それに無表情のまま身を起こした男が楓の手を取る。  そして躊躇いを見せながら口を寄せる。  それを嘲りとサディスティックな快感に満ちた笑みを見せていた楓だったが、その男の前に留める手 が差し出されたことで笑みが消える。 「おまえも変態だな。男に自分の手舐めさせて感じるのかよ」  彰が横から楓の手を取ると、ぱっくりと開いた傷口を痛々しく眺める。 「おまえは究極のサドだな。他人を痛めつけるは、自虐はするは……」 「そういうおまえはマゾなんだろ。だから俺に寄って来る」  取られた手を振り払った楓がその血に染まった手で彰の顔を掴む。 「いっつも邪魔しに現れるおまえはいい加減目障りだ。おまえも痛い目にあってさっさと俺に絡むのあ きらめろ」  冷めた目に笑みをのせ、楓が割れたガラスの散らばる床を眺める。  あの床に投げ倒されれば酷い怪我を負うのは目に見えていた。 「やめて!」  反射的に叫んだ桜子に、楓が顔を上げる。  そしてそこにいるのはずのない桜子の存在に一瞬顔色を変える。  同じ学校の生徒に見られてはならない姿を見られてしまった焦り。  だが、そんな焦りはすぐに楓の顔から消え、開き直った残虐を剥き出しにした笑みが桜子に向けられ る。 「やあ、君は俺のことが大好きだとか言った一年だな」  楓が彰の顔から手を離すと、今度は首に腕を回して引きずるようにして歩きだす。  血だらけの顔の彰が楓が向おうとしている先にいるのが桜子だと分かると、その歩みを止めようと抵 抗するが、躊躇いのない拳を顔面に打ち込まれてうめき声を上げる。  今度こそ彰自身の血である鼻血がドッと溢れ出る。 「君みたいな女の子が、こんな店で何をしている? まさか俺に告白してすぐにこの軽薄男に乗り換え たとか? そうだとしたら、君も外見に反して随分と尻軽なことだ」  自分が侮辱されているのだと分かっていたが、それに怒りを覚えるよりも、決して自分では手の届か ないところにある力と悪意をぶつけられる事への恐怖で足が震えた。 「楓先輩……本当に楓先輩?」  歯が鳴るほど震えた声に、楓が凄惨さを含んだ笑みを桜子に向ける。 「ああ。君が恋焦がれた伊集院楓だ」  そして楓の手が桜子の髪をつかみ上げると、抵抗する暇も与えずにその唇に自分の唇を重ねる。  数ミリ先にある楓の瞳が、見開かれる桜子の瞳をじっと見つめる。  ぎゅっと閉じた唇をねぶるように舌がなぞって離れていく。 「てめ、何してやがる!」  彰が楓の顔目掛けて拳を振るうが、首の拘束を解いて身を翻した楓の前で拳は空を切る。 「やっぱりお前がつきやってやってるの? そのお嬢ちゃんと」  嫌味たらしく唇を舐め上げた楓に、桜子を背中に庇った彰が言い返す。 「この子は関係ないだろう。おまえが今荒れているのはてめえと自分のお袋の問題だ。てめえの母親へ の鬱屈を他人にぶつけてんじゃねぇよ。いい加減に大人になりやがれ」  その彰の言葉に、楓の顔が怒りに歪む。 「あんな女のことは関係ない!」 「関係ないなら、なんでこんなに怒り狂う必要があんだよ。素直に会いてぇなら会いにいきゃあいいじ ゃねぇか。おまえのお袋だってお前を呼んでんだ」  言い合う二人の後ろで震えていた桜子は、彰の背中のシャツを掴んでそっと涙の浮んだ目で楓を盗み 見た。  怒りなのか焦燥なのか、ギリギリと歯を噛みしめた口元が歪んでいた。  見たことのない伊集院楓の顔だった。だが同時に、それが初めて伊集院楓という人間の心の中を垣間 見た瞬間だった。 「あの女らしいじゃないか。酒を浴びるほど飲んで果てに肝臓ガンだってさ。ふさわしいじゃないか。 苦しんで死ねばいい」  彰から目を反らして床を睨んだ楓が呟く。  黒い楓の瞳が揺らめいていた。それがガラスの破片が放つ光の乱反射なのか、それとも楓の心の揺ら ぎなのか……。  桜子が彰の背中から走り出ていく。 「逃げられちゃったじゃないか。もっと虐めてやろうと思ったのに」 「おまえなぁ!」  彰が声を荒げるが、楓はもう話したくないことを示して完全に無視を決め込むと、ハンカチを取り出 して血の流れる自分の手を覆う。  いつもこの繰り返しだった。  抱えきれなくなった苛立ちを他人に当ることと自分を傷つけることで解消しようとする。それは、自 分を愛してくれなかった大人たちへの悲痛な叫びであり、愛される価値のない自分を消し去ろうとする 自虐の連鎖だった。  頂点に達した怒りに我を忘れるほどに溺れ、不意に冷めた怒りに途端に心を閉ざす。 「楓、おまえいい加減に……」  彰が吐き出すように言い出したときだった。 「楓、彰。朝ごはんですよ」  不意にそう言って桜子が怯えた顔に無理に笑みを浮かべて現れた。  その手にあるのは、お盆にのせられた料理だった。ついさっき作ったおにぎりとお味噌汁と卵焼きの 一膳。 「?」  彰はただ疑問に体を停止させ、楓は理解不能だと眉をしかめる。  その雰囲気を無視してカウンターの上にお盆を下ろし、箸置きに朱塗りの箸をのせ、湯気を上げるお 味噌汁とおにぎりを並べていく。 「あったかいうちに食べないとダメですよ。朝は一日のうちで一番大切な食事ですからね」  カウンターにカンといい響きを残して並べられていく卵焼きのお皿と浅漬けの小鉢。 「桜子ちゃん、何やって」  彰が言う言葉に桜子が笑顔のまま言う。 「桜子ちゃんじゃないですよ。お母さんです」  そう言って桜子は荒れた店内には目もくれず、転がったイスを起すとその一つに彰を座らせる。  そして棒立ちでいる楓の前に立つと、ゴクッとツバを飲みながらも笑顔でその顔を見上げる。 「楓も早く」  思い切ったようにハンカチで覆われた手を握り、イスの前へと導く。  だが、イスに座らせることはできなかった。  不意に足を止めた楓に桜子が振り返る。 「バカか、おまえ。何がお母さんだ。どうやったらおまえが母親に見えるんだ。くだらねぇママゴトは そこのバカとやって……」  桜子の手を振り解いて立ち去ろうとした楓だったが、目の前に突き出されたおにぎりに言葉を詰まら せた。  桜子が鷲掴みにしたおにぎりが顔の前に突き出される。 「愛情を込めました。どんなシェフの作った料理よりも温かい料理です。楓先輩が求めていたものです。 だから逃げないで」  ぎゅっと握った楓の手から桜子の手に血のぬくもりが伝わっていく。  冷徹を装っても温かくそのうちを流れる血が、桜子へと流れていく。  桜子がそっと掴んでいた手を離す。  だが立ち尽くした楓は立ち去ろうとはしなかった。 「この俺が、どうしてそんな貧乏くさいものを食べなければならない」 「本当は楓先輩が一番食べたかったものだからです」  桜子は血を流していない方の楓の手をとり、おにぎりを握らせる。  それを見下ろした楓が、じっと手の中のおにぎりを見つめる。  こんなもの、食べてなどやるものか。投げ捨ててやる。  そう思うのに、握りつぶすことさえ容易いのに、決してそうしようとはしない自分がいることにも気 付いていた。  幼稚園の頃にいつも楽しみにしていたのが運動会のときに食べるお弁当だった。料理など下手で、ず っとシェフの作る料理の方がおいしいのに、ママの作る焦げた卵焼きと塩味の薄いおにぎりの方が嬉 しくて仕方がなかった。  校庭の木の下に敷いたレジャーシートの上でママと膝を並べて食べるだけのことが、なによりも嬉し かった。  でもそれはいつしか叶わない夢となってしまった。  母親は消えた。  今なら分かる。なぜ母親はあれほど酒に溺れるようになっていったのか。 母にとっての全てが自分だったからだ。  だが父は、その自分を全寮制の小学校に英才教育を受けさせる目的で留学させようとしていた。  母はそれに耐えられなかった。自分の半身をもぎ取られるような気持ちだったのかもしれない。  寂しさはそれを紛らわせる酒を手に取らせ、その酒は一時の忘却とともに彼女の人生を奪い取ってい った。  あの女が悪いわけではない。  だがそれを認めてしまうことは、その後の自分の苦しみを思うとできなかった。  突然の母親の拒絶と喪失は、幼い自分にどれだけの傷を作ったと思うのだと罵りたくなる。  父親の期待という重圧にたった一人で耐える日々を、笑顔のない冷え切った家で一人眠りにつく寒さ を誰が理解してくれる。  でも、今なら分かるのだ。  父も母も自分を愛してくれたのだ。  あの日。子どものときに並んで一緒に食べたお弁当の中のおにぎりには、母親の愛情が詰まっていた。  そしてそこにはいなかったが、お弁当の袋の中に潜ませた父親の一言「がんばれ」の手紙にも。 「……こんな……もの」  呟いた楓の目から涙が零れ落ちた。  その涙に誰よりも驚いたのは楓自身だった。  ポタポタと堪えることなく零れ落ちていく涙を血の滲んだ手の平で受けながら、目の前の桜子を見つ める。  桜子が微笑む。 「おかえりなさい。本当の楓先輩の心に」  そして少し照れた仕草で両手を開くと立ち尽くした楓をぎゅっと抱きしめた。  迷子になって心細い思いをした子どもを抱きしめる母親のように。  自分の胸ほどしかない小さな桜子を見下ろして動けずにいた楓だったが、不意に込み上げた感情に口 から嗚咽が漏れる。  それを宥めるように背中をポンポンと叩いてくれる桜子の手が暖かかった。  膝を折って泣崩れた楓が、ぎゅっと腕の中の桜子を抱きしめた。 「寂しかったね。でも、もう大丈夫だよ」  一緒になって泣いてやる桜子の声がする。  それを見下ろしながら、彰は笑みを浮かべる。  そしてイスを回転させて楓に背を向けると、桜子作の朝食セットの卵焼きを手掴みで口に運ぶ。 「偉大なおにぎりと卵焼きだな」  どんな手を尽くしても救うことのできなかった楓の心を、開かせたのだから。  彰はちらりと後ろを振り返って桜子の背中を見る。 「さしずめ、悪魔を改心させた天使のおにぎり?」  桜子の背中に天使の羽が生えていないかと、探してしまう彰だった。     
「おはようございます、楓先輩」 「おはよう」  いつも通りの朝の学校の風景。  それを廊下の窓から見下ろしていた桜子に、視線を感じたのか、顔を上げた楓が笑みを浮かべる。  もちろん品行方正な生徒会長の笑みから、ほんの少し小悪魔的な笑みが口元に混ざった笑みだったが。 「まったくいい根性してるよな。今だに裏表を完璧に使い分けてんだから」  桜子の横で、壁にドンと背中を押し付けて欠伸交じりに言うのは、もちろん彰だ。 「わたしたちだけになると、本当に裏の顔だけになるもんね」 「筋金入りの悪魔体質だね、奴は」  それでも本心を見せてくれる可愛らしい嘘つきだ。 「わたし、前は、楓先輩が天使で彰先輩が悪魔だと思ってました」  桜子の素直な告白に、彰が作った怒り顔で桜子を横目で睨みつける。 「これだから女ってのは外見で人を判断してくれて」  ため息交じりで頭を振る彰に、桜子がクスクスと笑いを漏らす。 「でも本当はすごく優しい人なんだって分かりました」 「ふ〜ん」  今度は照れた笑いを押し隠して横を向く。  その彰の視線の先、廊下の角から楓が現れる。  崩すことなくキチンと襟まで正した制服の楓が、誰もいない廊下で二人を見つけて目を細める。 「これはご両人、仲がよろしいことで。桜子さんもぼくをあっさり捨てて、このバカ男とつきあってる ので?」  辛らつな言葉だが上機嫌で言う楓の言葉に、桜子と彰が同時に反論の声を上げる。 「捨ててません!」 「誰がこんなお子ちゃまと!」  そして言い放った二人が顔を見合わせ、今度はお互いに言い合う。 「誰がお子ちゃまですか!」 「おまえはまだこんな悪魔男が好きなのか?!」  言い合う二人に肩をすくめた楓が通り過ぎていく。  だがその背中は、とても楽しそうに笑いに揺れていた。  ―― この世に完全な悪なんてない。  だからこそ、自分で選び取ることができるのだ。  悪に染まる道か、それとも天使の道か。  桜子が彰の手を握って、楓を追いかけて走り出す。 「みんなで天使の道を行こう!」  宣言する桜子の顔の向こう、窓の外を仲良く並んだ三匹の蝶が戯れながら飛んでいった。

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