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 薄明かりは、あっと今にその明度を増して周りの景色を照らし始める。
 ついさっきまで曖昧模糊としていた全ての物が、明確に輪郭を取り始め、はっきりとした色をとり始
める。
「おい、まだ大丈夫なのか?」
 後ろに美紀を乗せ、裕樹が必死に自転車を漕ぐ。
「う、うん」
 返事を返しつつ、美紀は後ろを振り返った。
 もうほんのもう少しで、太陽が直接顔を覗かせる。
 直射日光に当たれば、たちまち蕁麻疹が出始めるのは分かっていた。
 赤く染まって痒みを発する発疹。
 今は痒いのなんて、どうでもよかった。
 あまりに醜くなる肌を、裕樹に見られたくないという気持ちだけでいっぱいだった。
 裕樹がキキっと音を立てて自転車を止める。
 そして片足で自転車を支えると、自分の着ていたシャツを脱いだ。
 それを美紀の上に掛ける。
「汗臭いかも。ごめん。でも、これで太陽少しでも防いでよ」
 それだけ言うと、再び自転車を漕ぎ始める。
 美紀は頭から掛けられた裕樹のシャツを片手に握り、片手で裕樹の腰に抱きつく。
 陽に焼けたチョコレート色の肌がそこにあった。
 自分の真っ白な肌とは違う、生きていることを主張している生命力に溢れた背中。
「裕樹くん、ごめんね。わたしのせいで裕樹くんの苦労ばっかかけてる」
「ああ? 別におまえのために苦労してるわけじゃねえよ」
 峠の坂道を転がるようにスピードを上げ、自転車が滑り降りつ。
 住宅街では新聞配達の自転車が時折すれ違い、朝の早い老人の体操を横目に通り過ぎる。
 美紀はさっと自分の腕に目を走らせた。
 赤い発疹が2つ、3つと出始めていた。
 すでに太陽は昇り、アスファルトが真っ黒な表面から光を反射させはじめていた。
「大丈夫か?」
 裕樹が声をかける。
「ちょっとアレルギー出始めた」
「そりゃ、やばいじゃん」
 裕樹が自転車を漕ぐピッチを上げる。
「わたしって本当に役立たずで嫌になるよ。裕樹くんみたいに、太陽の匂いを発散できるような元気な
女の子になりたいよ」
 後ろから囁く美紀が、裕樹のシャツを強く掴んでいた。
 裕樹のシャツからは、夏の干した布団のような暖かい匂いがしていた。
「美紀ちゃん」
 不意に名前を呼ばれ、美紀が顔を上げると、裕樹が前方の家の生垣を指差していた。
「あそこ、朝顔がいっぱい咲いてる」
 自転車で通過しながら、美紀は咲き乱れる朝顔の花を見つめた。
 ピンクや青の花を精一杯に広げた朝顔が、朝露に塗れて光っていた。
「朝顔も、蛍も、昼の光の中では見ることができないじゃん。夜の間に力を溜めて、朝一番で開く朝顔
って、見れただけでもすごく貴重。俺、ちゃんと見たの久しぶりだし」
 走り抜ける自転車の受ける風に髪を乱しながら、裕樹が言う。
「美紀ちゃんも一緒だよ。朝顔みたいに朝にだけ咲いて、秘密の誰かにだけその笑顔をみせてくれる。
そしてそれを見れた人を、ハッピーにしてくれる」
「……わたしは、朝顔?」
「そう、朝顔姫」
 チラっと振り向いた裕樹が笑う。
「俺は太陽の王子」
「自分で王子とか言ってるし」
 美紀は嬉しさに涙が出そうなのを誤魔化して軽口を叩く。
 美紀は俯くと、目を瞑って涙を堪えた。
 わたしはひっそりと咲いて、でも見つけた人には極上の幸せをあげられる人になれればいいや。 
 そして、たぶん、その筆頭に上がるのが、裕樹くん。
 美紀は裕樹の背中に、心の中で感謝を言う。
―― ありがとう。ずっと好きでいるからね。

「じゃあな」
 手を振って裕樹が帰っていく。
 羽織っただけのシャツが、風にはためいていた。
 その後ろ姿が見えなくなるまで見送った美紀は、家に入ろうとして隣りの家のお祖父さんが玄関に立
っているのに気付いて声を掛けた。
「おはようございます、つとむおじいちゃん」
「お、今日は随分と早いね」
 玄関先におかれた花に水をやる姿に、美紀が笑みを送る。
 そしてその花が朝顔であるのに気付いて思わず言った。
「つとむおじいちゃん、朝顔」
「うん。毎年種を撒くんだよ。今年はたくさん芽が出てね」
「そっか」
 美紀はそっと背伸びして柵の向こうの鉢植えの朝顔を見た。
 青紫の大輪の花が咲いていた。
「たくさん芽が出たのはね、おじいちゃんちの隣りに朝顔姫が住んでいるからなんだよ」
「?」
 笑顔のまま首を傾けるお隣りのおじいちゃんに意味深な笑みを浮べ、美紀は家の中へと入っていった。
「ママ、うちでも朝顔の種撒こう!」
 芽を出した朝顔を、太陽の王子がきっと照らしてくれるから。



                             〈了〉
   
   


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