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 誰もいるはずのない深夜の道路で、律儀に明滅を繰り返す信号機を見上げて声をかける。
「真面目にご苦労さん」
 いつもは人や車で溢れる通りが、人っ子ひとりいないだけで、普段とは違う顔を見せている気がした。
 秘められた奥ゆかしいお嬢さんの寝起きの顔を見た気分とでも言うのか。
「なんかやらし」
 自分の思考に突っ込みを入れつつ、赤信号を突っ切っていく。
「ヒャッホーー!」
 ハンドルから両手を離し、叫び声を上げる。
 周りにあるのは寝静まった商店街と、神社、そして街を貫く川だけ。
 それでも夜中に上げる大声は、なんとも気持ちを高揚させた。
 自分がこの世界の中心。法律。支配者。
 長い長い街灯に照らされた道を一人ひた走り、現実の爽快感と妄想に笑い声を上げる。
 だが次の瞬間、大口を開けて笑っていたことを酷く後悔し、自転車を止めるとつばを吐き出した。
 吐き出されたのは唾液に塗れた蛾だった。
「うぎゃー、燐ぷんが口の中でーーー」
 慌ててリュックからペットボトルに詰めてもってきた麦茶をつかみ出し、口をゆすぐ。
 びちゃっと音を立てて、麦茶が道の上に吐き出される。
「はー、参った、参った」
 足元の水溜りを眺めながらしみじみと呟く。
 その足元で、もう一人分の人影が動いた。
 はっとして振り返った裕樹は悲鳴こそは上げなかったが、手にしていたペットボトルを落とした。
 そこにいたのは白いワンピースを着た、長い髪の少女。
 俯いた頭部が目の前に迫り、裕樹は思わず後退さった。
 少女が顔を上げる。
「裕樹くん、何してるの?」
「……水野さん?」
 本人を見ても、どこか幽霊じみた白い透けそうな肌に、心臓はバクバクしたままだった。
「……わたし、幽霊にでも見えた?」
 真面目な笑みのない顔で言われ、裕樹は思わず頷いた。
「いきなり現れるから。白い服着てるし、貞子みたいに髪の毛長いし」
「ずいぶんストレートね」
 そう言ってから、不意に見せた笑顔に、裕樹は口を開けたまま言葉を見失った。
 人形だと思っていたら、突然目の前でかわいらしい女の子に変わった。
 そんな瞬間を見た気分だった。

 川岸に下りていく。
 先に下りながら、裕樹はふとこんなとき男は女の子に親切にすべきか? などと思い振り返って手を
差しがした。
「なに?」
「急な坂だから、手貸したほうがいいかなって」
 ぶっきらぼうだが、そう言って自ら女の子の手を取る。
 夜とはいえ、夏に似合わない冷たい手だった。
「裕樹くんって、もてるでしょ?」
「は? もてたことなんてないけど」
「……ふーん。そうなんだ」
「水野さんは?」
「わたし? もてるわけないじゃん。裕樹くんみたいにお化け扱いよ」
「あれはびっくりしただけ。俺だってお化けと手をつなぐ趣味はねえ」
 川べりまで下りたところで、裕樹は首に巻いていたタオルを石の上に敷いた。
「どうぞ。座って」
「いいの?」
「そのまま座ったら服汚れるだろ?」
 そう言いつつ、自分はじかにごろごろと転がった石の一つの上に座る。
「で、水野さんはこんな時間に何してたわけ?」
 スカートの裾を気にしながら膝を抱えて座り込んだ水野に、裕樹がまるでお兄さんのような口調で聞
いた。
 それがおかしいと水野は笑う。
「その水野さんってのは止めてよ」
「だって俺、下の名前知らないもん」
「美紀」
「美紀……ちゃん?」
 名前を呼ぶことに照れがあるのか、酷く言いにくそうに言って頭を掻く。
「その美紀ちゃんは、どうしてこんな時間に出歩いてるんですか?」
「裕樹くんだって」
 そういって細い手首の時計を見る。
「今、3時40分。夜明けもまだ先ね」
「俺はただの夜の散歩。ちょっとした探検気分?」
 担いでいたリュックを膝の上に置きながら笑う裕樹は、リュックのポケットから飴を出し、美紀に投
げた。
 水色の包装セロファンに包まれた大玉の飴はソーダ味だった。
「俺のはコーラ」
 喜々として口の飴を放り込む裕樹に、美紀は笑顔を浮かべた。
「わたしは……昼間は自由に出歩けないから。太陽のない夜だけが、自由時間なの」
 裕樹は寂しげな笑顔を浮かべた美紀を無言で見ながら、あのプールで見たシーンを思い返していた。
 太陽の光が煌くプールを、闇に沈んだ教室の中から見下ろしていた美紀の姿。
「病気なの?」
「……そんなに死んじゃうような病気じゃないけどね。日光アレルギーって知ってる?」
「アレルギーは知ってるけど、太陽の光がアレルギーの素になるってこと?」
「うん。もともと太陽がダメってわけじゃないんだよ。ドラキュラじゃあるまいし。でも太陽の光を浴
びるとね、たくさんブツブツができて痒いし、わたしの場合熱が出たり、喘息も出始めたりって酷くな
るの。だからなるべく陽には当たらないようにしてるの」
「ふーん。それでプールには入れないのか」
「うん。実はプールの塩素もダメだったりして」
「大変だな、そりゃ」
 深刻な顔で頷く裕樹に、美紀は笑顔で頷いた。
「裕樹くんが羨ましいよ。プールで楽しそうに泳いでるところとか、真っ黒に日焼けして腕まくりして
自転車こいでく姿とか、わたしには眩しいくらい」
 裕樹は美紀の真っ直ぐな視線に照れて笑うと、立ち上がって川の方へと歩いていった。
「美紀ちゃんもさ、泳いで見たいとか思うの?」
 背を向けたまま、水の中に手を差し入れながら裕樹が言う。
「うん。小学生までは普通にプールに入れてたんだもん。あの気持ちよさはまた味わいたいよ」
「この川はね」
 裕樹は振り返ると、美紀に向かって川の水を梳くって空中へ放り投げた。
「すごくキレイな水質なんだって。だから俺、よくこの川で泳いでたりするんだ」
「深くないの?」
「深いところもあるよ。でも俺、この川のこと知り尽くしてるし」
 自慢げに言って立ち上がると、裕樹は美紀に言った。
「明日も来いよ。水着持って。川で泳ごうぜ。夜なら太陽もなし。川の水には塩素もなし」
 びっくりした顔で見上げてくる美紀だったが、次の瞬間に裕樹から視線がそれて顔を輝かせた。
「見て、蛍」
 いつの間に現れたのか、裕樹の後ろを無数の蛍の緑色の光が舞っていた。
 スーっと光ながら夜の空気の中を漂っては消え、また離れたところで輝きだす。
「蛍も歓迎だってさ」
 自分の計画した演出とばかりに、蛍をバックに両手を開いてみせる裕樹。その鼻の頭に蛍が止まり、
光を灯す。
「裕樹くん、ピエロみたい」
「ちぇ、せっかくカッコつけてみたのに」
 言ってから、顔を見合わせた二人は声を上げて笑った。
「ありがとう、裕樹くん。明日が楽しみなんて、初めてだよ」
 裕樹の隣りまで歩いてきた美紀は、裕樹の鼻先の蛍を両手で覆って手の平に乗せた。
 白い手の中で、光る蛍が美紀の笑顔を幻想的に光り輝かせる。
 美紀の手の中から飛び去っていく蛍。
 美紀はその蛍を見つめ、裕樹は美紀の横顔を見詰めていた。



 


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