「灼熱の太陽をこの手に掲げ」




6 ジョリーのママ
 海水を満たしたバケツの中で、アサリが砂を吐いてピューと水を吹き上げる。  それを並んで見下ろしたジョリーとチェスナットだったが、思いがけず勢いよくあがったアサリの鉄 砲水が顔を直撃したジョリーが慌てて顔を拭う。 「うわ! 水」  まるで溺れた子どもみたいにブルブルと顔を手で擦るジョリーを、チェスナットがびっくりした丸い 目で見つめる。 「もしかして、ジョリー……」  二人で並んでアサリ拾いをしているときから気になっていたことがあったのだ。  波打ち際でアサリを拾いながら、足元をくすぐる波には気持ち良さそうにしているくせに、少しでも 大きな波がきて、白く渦巻く海水が膝ぐらいまでに達すると、慌てて海岸へと走るのだ。  はじめはただ単に服が濡れるのを嫌がっているのかと思ったが、明らかに過剰反応だった。しかも、 今のほんの少し海水が顔にかかっただけで慌てる動作。  じっと見つめるチェスナットの視線に気付いたジョリーが、ばつが悪げに視線を泳がせる。 「ジョリーって」 「そうだよ、泳げないんだよ。水が怖いんだ!」  フンと鼻を鳴らして赤くなった顔を隠すように、バケツを下げるとさっさと歩き出すジョリー。 「あ、待ってよ、ジョリー」  チェスナットはガシガシと音を立てて、荒っぽく砂を踏み砕きながら進むジョリーの背中を追う。 「でもジョリー、海賊になりたいって」  泳げない海賊なんて聞いたことがない。  チェスナットの素直な言葉に、だがジョリーは顔をなおのこと赤くして立ち止まると怒ったように叫 ぶ。 「そうだよ。口だけで泳げもしないだめな男だよ!」 「………別にそんな風に思わないけど………」  思いの他、男のプライドを傷つけたしまったことに気付いて、チェスナットは困ったように俯き、上 目遣いでジョリーを見上げた。  そんな視線に、ジョリーは重いバケツを砂の上に下ろして腕を組む。  ダメな自分の図星を刺されて怒った男としてのプライドと、そんなことでチェスナットを困らせて しまっているダメな自分への情けなさ。  チェスナットにしても、ジョリーの力になりたいと思ってやってきておきながら、がんばっているジ ョリーをバカにしたようなことを言ってしまった自分への後悔と、それでも側にいたいと思う恋心。  無言の葛藤を示して、じれたように静寂が二人の間を流れていく。  早く何か気の聞いたことを言わないと!  お互いに焦れば焦るほど、言葉は頭の中で乱舞するだけで捕まえることができず、口だけが何かを言 おうと開いては閉じられる。  そんな二人の空気など関係なしと、波の音とそれに乗ったカモメの声が間抜けなほどのんびりと通り 過ぎていく。  ついその声に気を取られた二人は、同時に空を見上げ、青いぬけるような空とその空にういた大きな 入道雲を見た。  まるで大海原のような穏かの空を、悠々と入道雲が泳いでいく。  滑らかに、気持ち良さそうに。 「泳げるようになりたいな」  何の気負いもなく出たジョリーの言葉に、チェスナットが空を見上げたままのジョリーの横顔を見つ めた。  日焼けして少し赤くなった頬や鼻の頭と、太陽光にまぶしそうに眇められたつり気味のまなじり。  黒い髪は長くなっているうえにボサボサで、鳥の巣のよう。  それでも、生きようとしているパワーは、どこの誰よりも輝いているのをチェスナットは知っていた。 「大丈夫。泳げるようになるよ。わたしも子どもの頃、泳げなくてお父さんに猛特訓してもらったんだ よ」 「チェスナットが親父さんに?」  つい脳裏に浮んだ、デカパン姿の海賊亭の親父の木刀を持った姿と、かわいらしいフリルのついた水 着を着たチェスナットが並んだ姿に噴出しそうになりながら、ジョリーは咳払いで誤魔化す。 「だから、今度はわたしがジョリーに泳ぎを教えてあげるよ」 「え?」  思わぬ提案に、にやけ顔を手で隠していたジョリーが真顔になってチェスナットを見やる。 「あ、なにその信用できないって顔。大丈夫だもん。ちゃんと教えられるから」  頼りない細腕で薄い胸を叩いて言うチェスナットに、ジョリーが曖昧な笑みを浮かべて見せる。 「本気の本気だからね。ジョリーがちゃんと海賊になれたら、俺に泳ぎを教えてくれたのは、海賊亭の 美少女のチェスナットだって宣伝してよね」  どこまで本気なのか分からない顔で自信たっぷりに言うチェスナットに、ジョリーはバケツを持ち上 げると頷いた。 「美少女のチェスナットね」  ふ〜んとわざとらしく頷いてみせるジョリーだったが、横目でこっそりチェスナットの顔色を窺う。  そこには案の定赤い顔をしたチェスナットが、拳を固めてジョリーの腕を叩こうとしている姿があっ た。 「あ、ちょっとタンマ。俺、大事な夕飯の材料のアサリ持ってるから」  ジョリーの声にチェスナットの拳を握った手が止まる。  怒りのもって行き場を失って「ウー」と唸るチェスナットに、ジョリーが微笑みかける。 「チェスナットにもご馳走するから。俺の手料理」  ご機嫌を取るように顔を傾けてチェスナットの顔を覗き込めば、一瞬でにやけ顔に変わったチェスナ ットがいた。 「本当?」  バケツの中で、再びアサリがプシューと水を噴き上げていた。 「まぁ、髪の中まで塩だらけね」  ジョリーの家の中に入ったチェスナットを迎えてくれたのは、時々挨拶をするだけで親しく話しをし たことのなかったジョリーの母親、カイリだった。  よく目にする、布団でも腰周りに巻きつけているのではないかと思うほどのおばさんたちとはまるで 違い、細くて折れそうな腰は、子どものチェスナットと変わらないほどだった。  長い髪は肩の上で細い三つ編みにされ、粗末なワンピースの上に夏の只中だというのに、ほころび始 めたショールをかけている。  額や顔に優しく触れてくれたその手は、熱を持っているのか、日の下にいたチェスナットの体温より も高かった。  そのカイリが、水を浸したタオルで髪を丁寧に拭ってくれる。  それは大事な娘を抱きしめるようにする仕草で、髪を拭かれながら、お母さんに抱きしめられている ような気持ちのよさに包まれ、チェスナットはうっとりとしてしまうのであった。 「こんなになるまでアサリ拾いを女の子にさせちゃだめでしょう、ジョリー。塩は髪も肌も痛めてしま うんだからね。こんなにきれいな髪のかわいらしい女の子なんだから」  頭上から声をかけられ、そっと横目で見上げたチェスナットは、目が合って微笑んでくれたカイリに 照れて目をそらす。 「別に俺が拾ってって頼んだんじゃないし」 「そんな憎まれ口を叩いてはダメですよ。一緒に夢中になってアサリ拾いをしていたのは、その赤い顔 を見れば分かります。言い訳はダメです」  優しい言葉と声にかかわらず、有無を言わせぬ視線の前に、ジョリーが納得できない不満顔のままに 台所に立つ。 「うちにちゃんとお風呂があれば入れてあげたいところなんだけどね。ごめんね」  頭を撫でるようにタオルで拭かれていたチェスナットは、慌てて首を振る。 「そんなの気にしないでください。わたし、本当にジョリーと海で遊べて楽しかったし、こうしてジョ リーのお母さんとも会えて嬉しいから」  朱に頬を染めながら言うチェスナットに、カイリは嬉しそうに微笑み、ぎゅっと胸にチェスナットを 抱きしめた。 「ありがとう。ジョリーの大事なお友達ね」  抱きしめられたカイリの胸元から、お母さんの柔らかな香りがした。 「おい、チェスナット、手伝って」 「は、はい!」  カイリのベットの上に座っていたチェスナットは、髪を拭いてくれたカイリにありがとうございまし たと頭を下げると、ジョリーの側へと走っていく。  ジョリーの家は、本当に小さくゴチャゴチャとした家だった。  カイリとジョリーの二人暮しだからとはいえ、一部屋しかない家の中には、カイリのベットとジョリ ーが寝るのに使っているのだろう、毛布が丸まって載せられた穴のあいたソファー。折れた脚にみっと もなく添え木をしてもたせているイスがニ脚並んだ食台。それが家具の全てで、それでほとんど部屋の スペースを埋めていた。  わずかばかりの調理器具をつめた木箱が水を溜めたかめの前に置かれ、その中にふきんで包んだお皿 が数枚とスプーンが何本か。  勉強机も、服をしまう洋服ダンスもない。  ジョリーの荷物らしきものは、ソファーの側の床の上に積まれていたし、服も部屋の片隅に張られた ロープに無造作に掛けられた数枚以外には見当たらない。  そして壁の至るところに、打ち付けれた釘で、買い物用の袋やどこかでジョリーが摘んできたらしい 花をいけた錆びた缶、悪戯書きのような絵や何に使うのかわからない道具のたぐいが吊るされていた。  とてもお客を呼べるようなキレイな家とは言えない。  それは事実であったが、チェスナットはゴチャゴチャとした家の中にある暖かさを感じて、まるで自 分の家であるかのように溶け込める空気感に、和んでさえいた。  小さな食台に小麦粉を広げ、先ほどから捏ねていた小麦粉の固まりを落としたジョリーが、それを小 さな固まりに丸めてみせる。 「アサリでスープ作って、パスタにしようかと思って。これで貝型のマカロニ作ろう」  今度は鼻の頭に白い小麦粉をつけたジョリーが、楽しそうに親指で潰して捻った貝型を目の前にかざ してみせる。  前から海賊亭での働き方を見ていても、随分と手際がいいなと思っていたが、それはジョリーの毎日 の中では当たり前に繰り返されている働くことから生まれているのだと気付き、チェスナットは尊敬の 目でジョリーを見つめた。 「わかった?」  その熱のこもった視線に不可解と眉間に皺をよせたジョリーだったが、その様子を見ていたカイリの クスクスともれた笑いに首を傾げる。 「なに?」  いつも青白い顔で寝ているばかりの母親が笑ってくれていることは嬉しいのだが、意味も分からず 笑われるのは癪に障る。  しかも笑い声を耳にしたチェスナットが、飛跳ねるようにして体を固めると、突然猛スピードでマカ ロニを作り始めたのも理解不能だった。 「なにそんなに焦って作ってんだよ。もっとゆっくりやってもちゃんと食わせてやるからさ」  そんな乙女心を全く解さないジョリーの言葉に、高速で動いていた手が止まる。  マカロニ作りをしていた頭に刺さる視線に顔を上げれば、じっと恨めしげに睨むチェスナットと目が あう。 「……なに、怒ってんだか。俺には全然わからねぇ」  考えることも取り合うことも放棄しますと、さっさとマカロニ作りに戻ってしまったジョリーを前に、 チェスナットはちょっと切なくため息をつくのであった。  小麦の固まりを千切っては丸め、二人の間にマカロニの山を築き上げる作業に専念する。 「……ジョリーのママ、かわいいね」  黙って黙々とマカロニを作っていたチェスナットが不意に言う。 「かわいい………か?」  その息子の言葉に、わざとらしい咳払いがカイリのベットから聞こえる。 「ジョリーのママが、わたしのママになってくれればいいのにな」  ボソッと呟いたチェスナットの言葉に、ジョリーが顔を上げる。  チェスナットの母親は、昔あの親父と大喧嘩の末に出て行ってしまったのだと噂で聞いたことがあっ た。  あの無骨そのものの親父が、こんなかわいらしい娘を男で一つで育て上げたというのだから、あっぱ れといえば、あっぱれだと思った覚えがあった。 「それって、あの親父とうちの母さんが結婚したらいいなってこと?」  ありえないと笑うジョリーだったが、またしても入ったカイリの茶々に、二人は顔を赤くするのであ った。 「ジョリーとチェスナットちゃんが結婚しても、わたしがママよ」 「これわたしの得意料理でジョリーがはじめて覚えた料理なのよ。将来のジョリーのお嫁さん、覚えて おいてね♪」  もちろんおいしくできたアサリのマカロニスープは、だがジョリーとチェスナットには、いつ食べて しまったのか分からないくらい、ドギマギした恋の味になったしまったのであった。
back / top / next
inserted by FC2 system