「灼熱の太陽をこの手に掲げ」




4 ケーヌじいさんの青春
 今日の捕り物を最後に、俺は海賊から足を洗う。  手にした拳銃の重さを確かめ、腰にさした青竜刀を左手で確認する。  全力で進む船が白波を泡立たせ、船首から塩辛い水しぶきを豪快に立てる。  その先にあるのは、同じように全力で背を向けて逃げようとしている海賊船。  潮風に髪をなびかせ、体の中で熱く沸騰しはじめる血を宥め、ケーヌは黒い大きな船に照準を合わせ て睨みつける。  あれが史上最高の危険な獲物。  海賊王、キャプテン・アンギナンドの船、ポイシーヴィルーゴ号。  黒塗りの大きな船の船頭に象られた戦乙女が印だ。  今、その戦乙女の掲げる大きな帆の幾つかから、黒い煙が上がっていた。  アンギナンドが今回の航海で秘宝とされる《灼熱の太陽》を狙って、死の海流に挑んだことは有名だ った。  そのアンギナンドの船、ポイシーヴィルーゴが、忽然と水平線上に現れたのが数時間前。  追いすがるケーヌの乗る海賊船に気づいたポイシーヴィルーゴ号は、だが迎え撃つでもなくただ逃げ るだけであった。  推力の違いがあろうはずのポイシーヴィルーゴに追いつき、大砲で砲撃する。  明らかにおかしいポイシーヴィルーゴの動きに、海賊たちは次第に興奮の色を強めていくのであった。  これは、アンギナンドが《灼熱の太陽》を手に帰還したところに違いない。だがその戦いにすでに疲 弊してしまっているのだ。  ここはキャプテン・アルギナンドを倒す千載一隅のチャンスなのではないか。己こそが新たなる海賊 王となり、ポイシーヴィルーゴ号を手に入れ、秘宝《灼熱の太陽》を手にしてみせる。  そんな野望が渦巻く。  赤く潮に焼けた髪をターバンの中にたくし込みながら、ケーヌは血気はやる同じ海賊船に乗る海賊た ちを見やる。  血走った目の奥で燃え上がるどす黒い欲望の炎は、殺すこと、奪うこと、犯すことを思いみて獰猛に 猛っていた。  俺は違う。  まだ下っ端の使い捨ての乗組員にすぎないケーヌは、胸の中で高鳴る心臓の音に荒い息をつきながら もそう思う。  俺は殺したくて殺すわけじゃない。奪いたくて奪うわけじゃない。馬鹿な獣の顔で逃げ惑う奴隷女た ちを犯したこともない。  俺はただ、船の上しかしらない。船の上で生まれ、船の上で成長し、船の上で働いてきた。  だから、選択肢がなかったのだ。海賊になる以外の道などない。  でも、この船を下りる決心がついたのだ。彼女のために。  初めて恋した彼女のために、一から人生をやり直すのだ。  そのための軍資金を手に入れて、この船ともおさらばだ。  ポイシーヴィルーゴに向って鉤つきのロープが投げられる。  ガシっという音を立てて鉤を付きたてたロープを伝って、ポイシーヴィルーゴの向って海賊たちが乗 り込んでいく。  ケーヌも大きく息をつき、腹の底に力を込めると雄たけびを上げてロープに飛びついた。 《灼熱の太陽》をこの手に入れてやる。そのために進む俺の前に立ちはだかる奴は、全て切り捨ててや る。  ケーヌが自らの意思で人を殺してやろうと、奪い取ってやろうと黒い欲望を宿した瞬間であった。  潮のにおいを乗せた風が窓から入り込み、破れて黄ばんだ白いカーテンをゆらゆらを揺らしていた。  ベットの上で目を覚まして「ほぅ」と息をついたケーヌじいさんは、朝からだるい体に癖癖しながら、 起き上がることなく天井のしみを見つめていた。  雨漏りのためにできた天上のしみは、だがどこか秘密の地図のようにも見えて、霞む目でじっと見つ める。  あの色濃い茶色のしみの辺りがラジンナ島だ。その前に渦巻く潮の流れが海流ルイスガ。あの海流に はうまい魚が多い。わしはあの海流に乗ってやって来るイワシが好物じゃったな。  昔を思い描きながら、船の上で下っ端の海賊に与えられた甲板掃除や魚釣りを思いだして笑う。  目はやがて天井の隅のひときわ大きな流れを描く海流へと向けられる。  四つの大陸を取り巻く海流の合流地点、死の海流、ファウーヤ。  多くの船と人命を飲み込んできた海の死神の本拠地。  あの場所から唯一帰還した人間をこの目で見たのがわしじゃな。  ケーヌじいさんの目の裏に、黒く変色した肌と突出した眼球をもった男の顔が浮かび上がる。  海賊王・アンギナンド。  刺し貫いたタガーの刃を伝ってケーヌの手に触れた海賊王の血。だがそれは赤くはなかった。呪われ た黒い血。  そしてその血にふれたケーヌもまた、その呪いを身にうけることとなったのだ。  アンギナンドの最期の掠れた声が耳に甦る。 「ありがとよ。俺は俺を殺してくれる人間を求めて百年も彷徨ってたんだ」  今もあの言葉の意味は分かっていない。  にやりと皺のように笑ったアンギナンドが崩れ落ちながら手渡してきた石の細工。何度も捨てようと しながら、決して手離せなかったその石。  だがそれが今は手元にない。  ジョリーにやってしまったからだ。はじめて自分の手から離れるときが来たのだと直感のように思っ たのだ。  この二十年、懐にあり続けたものが動きだした。  我息子の手に渡ることによって。
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