「灼熱の太陽をこの手に掲げ」



 36 大海原へ
    暗くかび臭い船底にガンガンと音が鳴り響く。 「野郎ども、朝食だ!!」  ヴァイロンの野太い声が響く。  寝起きに聞く声としては、全くもって愉快な声ではなかったが、ジョリーはまだ閉じていたいとくっ 付きそうな瞼をなんとか開けた。 「うう……」  まだ寝るのに慣れないハンモックに腰が痛くて顔をしかめ、下りようとした次の瞬間にはハンモック から転げ落ちる。  ドタンバタンと大音を立てる毎朝の恒例となりつつある。 「いたたた」  船の底で光も射さないような荷物置き場の片隅が、ジョリーに与えられた場所だった。  アンギナンド曰く、「おまえはまだ海賊の中でもペーペーもペーペー。ただの小間使いでも上等!  ゆえに船室は与えられない。自分で実力を示して俺の片腕にでもなってやると野望を持つことだな」  そんなわけで、毎日朝から晩まで働きづめでいるのだ。  今日も甲板の掃除の後は洗濯、晩飯のための魚釣り。そしてそのあとはシスターヴァイオレットによ るお勉強タイム。  昔はあまり好きでなかった勉強も、ここに至っては楽しくて仕方のない時間で、ジョリーは真剣その もので取り組んでいるのだった。もちろん、その楽しいの中にはチェスナットと一緒だということも含 まれているのだが。  そのチェスナットは、船ではお姫様扱いで、アンギナンドも着せ替え人形扱いでおもしろがって遊ん でいた。 「ジョリー? 今日もハンモックから落ちちゃったの?」  床の上で腰を摩っていたジョリーに、様子を見にきたチェスナットが声をかける。  入り組んだ梯子の一つから顔を覗かせているチェスナットを見れば、今日はどこぞのお嬢様かと思う パフスリーブのピンクのワンピースと同色でレースがヒラヒラと舞うリボンを髪に縛っている。 「チェスナット……今日もかわいいね」  ボサボサ頭を掻きながら立ち上がったジョリーが笑顔で言うと、照れた顔でチェスナットが微笑む。 「毎日毎日、あの船長どっからこんなに大量の服を引っ張り出してくるのかしらね」 「うん。でも、チェスナットも楽しいでしょ?」 「まあね。でも抱っこさせては困りもの」  本当に海賊王なの? と問いたくなるくらいにデレデレの顔でアンギナンドは日に一回だけとヴァイ ロンに釘を刺されているのだが、チェスナットを抱っこしたい病に襲われているのだ。  一方ジョリーは、ボロボロだった服がアンギアンドに与えられた服でまともになり、今も大事そうに 寝ていて皺になった服を手で伸ばし、チェスナットについて甲板へと出て行く。  暗闇に慣れていた目に差し込む強い朝日に目を眇め、果てしなくどこまでも続く海を見つめる。  今日も凪で緩やかに揺れる船から見えるのは、青い海と白い海鳥。空を雄大に流れる雲。それだけだ った。 「今日の朝食はお父さん特製のバナナのマフィンだから、おいしいよ」  海賊亭でも人気メニューの一つだ。  その海賊亭だが、今はカイリとケーヌの二人に託されていた。  チェスナットについていくといって譲らなかったヴァイロンは、ケーヌのじじいなら海賊亭の飯を全 部作れるだろうと言って決めてしまったのだ。 『それにカイリが女将さんになれば、美人女将の登場で売上アップ間違いなしだ。そのうえチェスナッ トみたいな可愛い若女将ができればさらにな』  今ごろカイリは、実は父親だったらしいケーヌと一緒に働いているのだろうか。今までよりもいい生 活はできそうだから、そうしたらたくさんおいしいものを食べて元気になってくれるかもしれない。  別れ際に抱きしめてくれたケーヌが「帰ってきたら妹か弟がいるかもしれねぇぞ」などと言ってカイ リを赤面させていたが、何が恥ずかしいのかジョリーには分からなかった。ただチェナットと手を取り 合って喜んだだけだった。ともに弟がいいだの妹がいいだのと言いながら。  そこへ大あくびをしながら甲板に出てきたのは船長アンギアンド。  緊張感の欠片もなく、本当に海賊王として恐れられた男なのだろうかと疑いたくなるのだが、優しい のだから文句はなかった。  目尻に涙をためたアンギナンドが、二人が並んで立っているを見つけ、笑顔になる。 「おはよう、チェスナット」  そう言って明らかに抱きしめようとして腰を屈める。  それを横目で睨みながらジョリーが言う。 「朝一番でチェスナットを抱っこしちゃったら、今日一日もうチェスナットに触れないですよ」  その少し棘のある声に、出しかけていた手をピタリと止めたアンギナンドだったが、やはり横目で新 入り船員であるジョリーを睨む。 「これは抱っこじゃない。抱擁だ。朝のあいさつだ」 「だったらぼくにもするの?」 「だれがだ」  気持ち悪いと顔をしかめるアンギナンドだったが、チェスナットを抱きしめるタイミングを逃して気 まずい顔をするとわざとらしく伸びをして海を眺めた。 「うん、今日もいい海だ」  海の上を渡る風は心地よい冷気をはらみ、照りつける太陽の熱に火照る頬を撫でていってくれる。  ここ数日ですっかり色が抜け始めたジョリーの髪が風に揺れる。  その髪を上からかき回すようにして撫でたアンギナンドが、今思いついたようにポケットから何かを 取り出す。  それは赤いバンダナだった。  ジョリーの正面に立って上目遣いで様子を探るその頭に被せてやる。 「よし!」  ポンとジョリーの頭を叩いたアンギナンドが言う。  シスターヴァイオレットに切ってもらった髪が、赤いバンダナの裾から跳ねて覗く。 「おまえの親父がこんな格好していたなぁと思ってな」  ジョリーの知らない、かつて海賊だったケーヌの若かりし日の姿。  その姿に自分は似ているのだろうかと思いながら、ジョリーは頭のバンダナを手で撫でた。 「ま、昔俺が洟かんだバンダナだってのはご愛嬌で」  ぼそりというアンギナンドの言葉にジョリーの手が止まる。 「差別だ!!」  叫んだジョリーが笑ってみているチェスナットを指さす。 「チェスナットはお嬢様ドレスで、ぼくは洟かんだバンダナ?!」  顔を赤くして叫ぶジョリーだったが、取り合う気がない様子で背を向けたアンギナンドが声を上げて 笑う。 「野郎ども、さっさとしねぇか。せっかくの飯が冷めちまう!」  言い合うジョリーたちに向かって船室から現れたヴァイロンが怒鳴る。  その後ろに控えたシスターヴァイオレットの元へ、チェスナットが駆け寄っていく。  今やシスターはチェスナットの母親代わりだった。  それをアンギナンドとジョリーがおもしろくない顔で眺める。 「なぁ、あの図は気にいらねぇよな」 「…………うん」  かわいいチェスナットを挟んで立つヴァイロンとヴァイオレットは、まるで父と母のようで、幸せ家 族の図に見える。 「……船長権限でどうにかできないの?」 「そんな職権乱用はしない」 「ふ〜ん」  口を尖らせて言うジョリーに、アンギナンドがその頭に手を置く。 「大丈夫だ。バンダナは洗濯してある」 「当たり前だ!」  叫ぶジョリーにアンギアンドが言う。 「今日も泳ぎの特訓やるからな」  強気で喋っていたジョリーが一歩後退さるのを楽しみながら、みんなが食堂へと入っていく。  それにため息をついたジョリーだったが、背後に広がる海原を見つめて微笑む。  憧れていた光景がそこにあった。  どこまでも果てしなく広がる青い海原。その海との境界線に広がる海。  そして海賊王との船旅。 「今日もがんばるぞ!」  ジョリーはきらめく太陽に誓うように言うと、食堂へと駆け込んでいった。  目指すが聖なる島。  ジョリーの旅は始まったばかりだった。                                 〈了〉
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