「灼熱の太陽をこの手に掲げ」



32   振り向いてはならない。前だけを見つめて
 いくらもがいても海面が現れてくれない。  必死に手足を動かし、胸に溜めた息を頼りに泳いでいるのに、白く泡立った海水の中では見えるもの がない。  無数に海の中に飛び込んでくるものが、空気の層を纏った弾丸のように勢いよく突き進んでいく。そ れらが自分の体に突き刺さってこないだけでも幸運といえばそうなのだが、そんな風に感謝する気持ち にはこれっぽちもなれなかった。  パニック寸前で口から空気の塊を吐き出してしまったジョリーだったが、グイッと手を引かれ、自分 の手がまだチェスナットとつながっていることに気付いて、その先を見つめた。  チェスナットが先へと泳ぎながら、振り返った顔でジョリーを見てうなずいてみせる。  淀んで逆巻く水の中でも、その顔がジョリーを安心させるように微笑んでいるのがわかった。  チェスナットとて、この逆巻く波の中で泳ぐことは容易ではないはずで、恐怖心だってあるはずだ。 だが、それを飲み込んでジョリーを助けようと必死になってくれている。  ジョリーは下手な泳ぎでも、チェスナットの足手まといに極力ならないようにと、パニックを押し殺 して足を動かし続けた。  海底から続いている太い石柱の横を進む。  その二人の頭上に巨大な岩隗が降り注ぐ。それを受け止めた石柱が真っ二つに砕かれて、水の中の二 人にも巨大地震のような大振動を伝える。  泡立つ水の中で、メリメリと音を立てて裂けていく岩が目に入り、頭上の水面を見上げたジョリーは、 巨大な岩が斜めになりながらゆっくりと、だが確実に加速をつけながら水の中に転げ落ちようとしてい るのを見た。  このままでは岩の下敷きになって身動きが取れなくなる。  チェスナットも頭上を見上げて大きく目を見開いた。  だがここは水の中。思うように体は動かない。そのうえ、分かっているのに差し迫る死の予感に体は 硬直して、ただ傾いていく岩隗を見上げていることしかできなかった。  ジョリーは手をつないだチェスナットを引いて腕の中に庇って抱きしめた。  そして二人が見上げる中で、大岩が突き刺さるようにして水の中にその顔を投入した。  だがその瞬間、ジョリーは大岩が動きを止め、その下で輝く発光体があるのに気付いて目を見開いた。  するとあれだけ揺れ動き体を翻弄していた波さえもが動きを止める。  動いているのは自分一人。腕の中のチェスナットも目を見開いたまま、まばたきもせずに動きを止め ていた。  白光が瞬くように光り、そしてジョリーの語りかけた。 『力を貸してやれるのは、ほんの数十秒が限度だ。その間に戦乙女の涙の守護者を守りながら自力で泳 げ』  それはあの薄衣の青年の声だった。  姿を纏うこともできず、白光も力なく明滅を繰り返しているだけだったが、それが彼の最大限の助力 であることは理解できた。 『ありがとう』  頭の中の声に礼を述べ、ジョリーはチェスナットの胸に抱いて泳ぎだした。  時間を止めて、水の濃度もまったりと重たいものに変わっているのを感じながら、それでもジョリー は必死に泳ぎ続けた。  思うように体は前に進まず、飲み込んでしまった海水に咽て溺れそうになりながら、それでもチェス ナットを胸に抱えて泳ぎ続けた。  後ろを振り返ることはなかった。ただ、青年がくれた僅かな時間の中で、前に進むことだけを考えて 突き進んでいく。  その数瞬の後に再び流れを取り戻した時間の中で、大きく水面を砕く水音を立て岩隗が海の中に落下 する。  その水流に巻き込まれて水底に引き込まれながら、ジョリーはチェスナットだけは助けようと腕の中 から離す。  時間の復帰とともに意識を戻したチェスナットが、自分を押しやるジョリーに気付いて手を伸ばす。  だがその手よりも早く、岩隗の巻き起こした流れという腕が、ジョリーを虜として引いていく。  そしてそれに反するようにチェスナットの体は、巻き起こった大きな波に飲み込まれて押し流されて いく。  必死で海面に顔を出したチェスナットがジョリーを求めて叫びを上げる。 「ジョリー! ジョリー! どこ!」  だが船が外海に出るのに使ったであろう大穴の前まで流されたチェスナットの目には、未だ崩落が止 まない断崖と、その岩が水飛沫の波を立てる様子だけしか見えなかった。ジョリーの姿はどこにもない。 脳裏に過ぎるのは、自分の背中を力いっぱいに押して水底へと引きずり込まれていった姿。 「ヤダ……」  海水に濡れた顔に、涙が伝う。  なぜ手を離してしまったのかと悔やみながら、それでも最悪の事態にだけはなってほしくないと願い 続ける。ジョリーは絶対にどこかから顔を出すはずだと願って海面に目を泳がせる。  そのチェスナットの肩をギュッと掴む手があった。 「小僧はどうした」  ここまで泳いできたのだろう、アンギナンドが言う。  その顔を、チェスナットは潤んだ瞳で縋るように見つめた。 「わからない。海の中に引きずり込まれたのを見て……。それで……」  声が震えて、泣くまいと思っていても涙が溢れて言葉が消えていく。 「ああ、クソ!分かった。おまえは船に戻れ」  そう言い残すと、アンギナンドが泳ぎだし、トプンと音を立てて海の中へと潜っていく。  それを見送り、チェスナットは胸の前で手を握り締めたまま揺れる海を見つめていた。  アンギナンドは海の中を進みながら、今まで何にも縋ることのなかった彼が、祈るように心の中で 呟いた。 『クロニア。もう守護者ではない俺の声は聞こえないかもしれないが、どうか新しい守護者となった小 僧を守ってくれ。灼熱の太陽の力を与えてやってくれ』  闇に塗り込められたように、クロニアと自分の間につながる糸がまったく見えなかった。  だがアンギナンドはきっとクロニアにはこの声が届いているはずだと信じ、海の底を目指して泳いで いった。  そして海底に突き刺さるように斜めに突き立った岩陰から、赤い光の筋が漏れているのに気付いた。 その光が自分を呼ぶように手招きして揺らめく。  光のもとへと泳いでいたアンギナンドは、波間に漂うジョリーを見つけて腕に抱きよせた。  ジョリーの手にした灼熱の太陽から出た光が、その体を力づけるように巻きつき、注がれていた。  アンギナンドはジョリーを抱えて泳ぎだしながら、声の聞こえない妹に向かって礼を言う。 『クロニア、ありがとう。今度は必ずお前を救うから』   水面に顔を出して荒い息をついたとき、ジョリーも目を覚まして波に揺れながら辺りを緩慢な動きで 見回す。 「……チェスナットは……」 「大丈夫だ」 「……よかった」  そう言って再び意識を失いそうになるジョリーを支え、アンギアンドがその体を揺する。 「おい、しっかりしろ!」 「……ぼく、泳げないんだ。……でも、がんばって……船長………ぼく海賊になれ………」  それだけ言って完全に意識を失ったジョリーに、アンギアンドがため息をつき、だがともに苦笑が漏 れる。 「海賊になりたいって奴が、泳げなくてどうすんだよ」  そう言った先で、チェスナットを乗せたボートが近づいてくる。  心配そうに見下ろすその顔に、意識はないが大丈夫だと合図を送り、アンギナンドはその向こうの海 上に浮ぶ船を見つめた。  伝説の船。ポイシーヴィルーゴが、その威容を見せて優雅に海の上で揺れていた。
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