「灼熱の太陽をこの手に掲げ」



28  ジョリーの挑戦
 チェスナットを吊った縄には滑車かなにかがついていたに違いない。勢いを増したチェスナットの体 がロープを伝って運ばれていってしまう。ヒラヒラと風に舞う白いドレスの裾が翻って、ぐったりと垂 れた足が見えていた。きっと意識がないのだろう。頭も下に垂れたまま振動に揺れているだけで動かな い。  それに比べてジョリーはといえば、一歩一歩というように、手足でロープを掴んで進んでいくしかな い。 もどかしいほどに前には進まない。  その目の前で、チェスナットの体が崖に激突する勢いで進んでいく。  永らく陽の光を浴びずに海水の湿り気だけにさらされた黒い岩が、チェスナットの眼前に迫っていた。  ロープに下がったまま声も上げられず目を見開いていたジョリーは、チェスナットの身に起こること を予想して息を震わせた。  チェスナットの体が岩に激突して骨が砕かれる。目を覚ましたチェスナットは、だけど叫びをあげる こともできずに口から血を吐き出す。蹲って痛みに悶えようにも縄で拘束された体ではうめき声しか上 げられない。  そんなのはダメだ!   口から飛び出してきそうな心臓の鼓動で目の前が真っ赤に染まった瞬間、チェスナットの体を吊って いた滑車が音を立ててチェスナットの体を離した。  金属の滑車だけがロープを伝ってすべり、ガチャンと高い金属音をたてて強かにその体を崖の岩にぶ つける。その勢いに岩壁が一部砕けて飛び散る。  そして宙に放り出された形になったチェスナットの体は、弧を描いて舞い上がり、崖の張り出した、 人一人が横たわればいっぱいになりそうな岩棚も落ちる。  勢いよく岩の上に落とされたチェスナットが衝撃にうめき声を上げる。 「チェスナット!」  ジョリーが声を張り上げて呼びかける。  その声に脳震盪でも起したのだろうか、ふらふらと揺れる頭を抱えながらチェスナットが身を起こす。  その顔が痛みに歪んでいた。手で覆われた額から一筋血がこめかみへと流れている。  ああ、チェスナットに怪我をさせてしまった。きっと足を挫いているかもしれない。  焦るジョリーがロープを急いで伝い始める。  それを呆然と見ていたチェスナットだったが、次第にクリアになっていく思考に悲鳴に似た音を立て て息を飲んだ。  ジョリーが掴んでいるロープの下はゆうに20メートルはある。間違って手でも滑らそうものならま っ逆さまに落ちて、とてもではないが命は助からない。  それにしてもなんでわたしはこんなところにいるのだろう。  チェスナットは辺りを見回しながら思った。  ついさっきまで船の上にいたはずなのに、自分の体は今は船よりも遥かに高い崖の上に置かれている。 しかもよく見れば自分の身も非常に危うい位置にあるではないか。  もしこの岩棚が自分の体重に堪えられなくなって崩れ落ちでもしたが、それこそ一貫の終わりだ。  船の上を見れば、全てを見守るように腕組みして立つアンギアンドの姿が見える。  あの男のもつナイフが頭上に掲げられたことを思い出す。その後に起こったのは、白光の爆発だった。  チェスナットが自分の左の手首を見れば、繊細な細工のブレスレットが嵌っていた。蔦に見立てたシ ルバーの曲線の中ほどに、透明な石がつながれていた。その透明な石に守られるように内部に水色の雫 が見える。まるで凍らされた乙女の涙。  それを目にとめた瞬間に、チェスナットの中で今までには感じたことのない力がはじけた。  指に背中に足の先に、燃え上がりそうな熱を感じる。  その熱に反応したのか、腕ごと胴を縛り上げていたロープが焼け焦げて足元にバラバラと落ちる。 ―― 戦乙女の涙に選ばれし乙女よ。我の元へ  チェスナットの脳内に聞こえた声に、背後を振り返った。  そこにあるのは、行く手を阻むように立ちはだかるただの崖の岩肌があるだけだ。  だが頭に語りかけてきた優しい声に、チェスナットは導かれるように岩肌に手の平を押し付けた。  それが合図であったかのように、岩肌に浮かび上がった扉がゆっくりと口を開いていく。 崖の中へ とつづく闇の階段が上へと続いていた。 「チェスナット!」  ジョリーの声に振り返ったチェスナットは、まだロープの中ほどにいるジョリーに笑いかけた。 「ジョリーも早く来て。あの人がわたしたちを待っているから」  そういうと、チェスナットは岩壁の中へと入っていった。  岩壁の中へと消えていくチェスナットの背中を見送って焦ったのはジョリーだった。  いったいチェスナットは何をしたのだろう。体を縛り上げていた縄をいとも容易く解き、いきなりた だの岩壁だったところに黒々とした口をあけた扉を出現させたのだ。  それが戦乙女の涙を継承したものに与えられる能力だとでもいうのか。  そう思っている先で、チェスナットを飲み込んだ黒い口が消滅する。  唖然として見守る中で、元の岩壁だけがそこに残る。はじめからそうであったように。  どういうこと? チェスナットはどこへ行ったの?  疑問にロープを握る手がおろそかになり、滑って危うく片手でロープに吊り下がる。たわんで揺れる ロープに、体から冷や汗が噴出す。  くるりと反転した体に後ろを向いたジョリーが、船の上に立つアンギナンドを目にとめて叫ぶ。 「チェスナットはどこへ行ったの?」  だがそれに返されるのは、無情にも無言で肩をすくめる姿だけだった。 「それは同じ秘宝、灼熱の太陽を継承したおまえにしか分からないよ。ただ」 「ただ?」  痛む手で前へと進みだしたジョリーの背中にアンギナンドが語る。 「灼熱の太陽は裁きを司る石。公正を語る石だ。裁きを下すものには絶対的な強さが求められる。人を 断罪するのだけの力があることを」  ロープを握る手の平の肉に食い込む自分の体の重みに歯を食いしばり、荒い息をつきながらジョリー が進んでいく。  それをハラハラと見守るシスターバイオレットの隣りで、アンギナンドが小さな体で必死に力を振り 絞るジョリーの背中を見守る。 「だから灼熱の太陽の守護者に値するかどうかを、おまえは試されるんだよ」  その声が聞こえたのかどうかは分からなかった。  だがロープを渡りきって崖の一角に降り立ったジョリーが、額の汗を袖で拭いながら振りかえる。 「ぼくはチェスナットを助けてみせる」  肩で息をしながらも、闘志を燃やした瞳がアンギナンドを射抜く。 「そうだ。おまえはあの子を救え。俺はクロニアを救う」  つぶやくアンギナンドに背を向け、ジョリーはチェスナットの消えた岩棚に向ってジャンプした。
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