「灼熱の太陽をこの手に掲げ」



 25  勇気の守護者 クロニア
 アンギナンドが始めて幻の島にたどり着いたのは、彼が22歳のときだった。  幻の島が彼の前にその姿を見せたのは、彼が特別な力をもった船乗りだったからでも、海に愛された 男だったからでもない。  その手に戦乙女の涙があったからに他ならない。  アンギナンドと同じように、自分の姉妹を理不尽に奪われた男がこの世に存在していたということに 過ぎない。いわば妹を救おうとした者同士。もう少し早く出逢っていれば、もしかしたら一緒に島に乗 り込み、お互いの家族を取り戻すことができたのかもしれない。だが、運命とは気まぐれでしか幸運な ど運んではこない。  戦乙女の涙を手にした男は、胸にすでに息絶えた女児の亡骸を抱きしめ、瀕死の状態で波間を漂って いたのだ。 「助けてやろうと思ったのに。この子もママに会いたいと言っていたのに。……どうだ? 島から出し た途端に陸に上げられた魚のように呼吸すらできずにもがき苦しんで死んでしまった。……俺はなにを したのだ。……妹を殺しにきたのか……」  一度この秘宝を巡るループに組み込まれれば、決して抜け出せない。  アンギナンドは胸を過ぎった考えに目をつむった。  船の上に引き上げられた男はすぐに息を引き取った。最後にアンギナンドに戦乙女の涙に触れるなと 強い言葉で遺言を残して。  だがアンギナンドはそれを自分の乗っていた船の船長には告げなかった。  心に忍び寄った囁きがあったのだ。そうすればお前はこの船を手に入れられると。  そしてアンギナンドはその囁きに従い、確かに船を手に入れたのだった。  戦乙女の涙の美しさは船長を虜にした。そして骨抜きにしたのだ。船の中では腑抜けになった船長に 取って代わろうとする争いが頻発した。  アンギナンドはただ見守っていればよかったのだ。海賊どもが自ら崩壊し、戦いを起しては命を断っ ていくのを。  一年とかからなかった。その間にアンギナンドは戦乙女の涙の力を観察しつづけた。  触れた者の生気を吸い取るように輝きは増していき、魅入られた人間は戦うという意志を失っていく。 それは人生という自分の命を賭した戦いすらを放棄させるようなものだった。 『この光には平和が満ちている』  一人の船長がそう呟いているのを聞いたこともあった。  だからアンギナンドは決して触れようとしなかった。  海賊船の幹部がほとんど消えたところで、アンギナンドは行動に出た。  戦いに疲弊していた海賊の中で、我こそが次の船長であるという名乗りをあげたのだ。現船長の首を 全員の前ではねるという仕方で。  それは海賊船の中の誰もが予想だにしない変事であった。なぜならアンギナンドは歴代の船長の愛妾 に過ぎなかったからだ。先の船長のつぶやきもベッドの中で聞いた言葉だった。そして戦乙女の涙の観 察もまた、船長の一番側にいることが許される存在だったからこそできたことだった。  細腰の美貌の青年になど、なぜ仕えなくてはならない。そう思う船員も確かにいた。だがそう思った ものは即座に殺された。美貌の青年は、その容貌に反して冷酷であった。  恐怖による支配。それがアンギナンドのとった支配だった。  反抗するものは血の一滴までもを注ぎだして、苦しみの極地を味わせる。  同時にそれは船の内部だけに留まるものではなかった。他船にも向けられる刃だった。  海賊。その本分を発揮した。奪い、殺す。ただし犯すことはご法度だった。  禁を犯して女をいたぶったことが明るみになった船員は、どんな命乞いも受け入れられなかった。そ の中で一人「船長は自ら経験済みだから、犯される女の痛みも恐怖も分かってんだよな。だからお優し い」とのたまった奴もいた。だがその男の辿った末路は、ただ殺される以上の恐怖だった。手足と局部 を切断されてマストに吊るされた。三日三晩苦しんだ末に海鳥の餌にされた。  逆らうものには容赦ない。  だが同時に仕える意志のある、能力の高いものには地位も金も信頼も与えられた。  次第にアンギナンドの名は知れ渡り、彼の船に乗りたがる海賊たちも増え始めていた。  そして機が熟したとき、彼は戦乙女の涙の導きに従って船を死の海流ファウーヤに向けて進めたのだ った。  戦乙女の涙が、進むべき進路を示してくれる。それに従いさえすれば、荒れ狂って船の進入を拒んで いたはずの海がその腕を開いて船を誘導してくれる。  やがて現れた巨大な低気圧に包まれた大嵐の雲。海の水を自ら吸い上げて天高く聳える巨大な雲を作 り上げている嵐の目。  船もろとも空へと舞い上げられるかと思ったとき、戦乙女の涙が輝きを放ち、その雲の中に一条の光 を放ったのだった。 「光に沿って舵をとれ!」  アンギナンドの指示で船が荒波が逆巻き、甲板を穿つように打ち付ける波の中を進んでいく。  目を開けていることも困難なほどに激しい水飛沫の中を通り抜けた瞬間、そこには地上の楽園が待っ ていた。  船は甲板もマストも大水に濡れ、船員は全員決死の顔で逆巻く風と水飛沫に目を細めていたのに、飛 んでくる水飛沫はなくなり風も穏かな凪いだものに変わる。  寒さにかじかんでいた手が嘘のように、頬を暖かな空気が撫でていく。  ゆったりと波打つ海に、船が浮んでいた。目の前の空には七色の虹が二重でかかっている。 「船長これは……」  今通ってきたはずの嵐はどこにもなかった。  逆巻く巨大な低気圧は、どこか別の世界へと吸い取られたようにどこにも存在しなかった。 「これが幻の島、ノーダンビリア。聖なる神の島」  どこまでも平和にゆったりとした時を刻む島を、生い茂る緑と青い空、その下を飛ぶ極彩色の鳥たち が彩っていた。 船はゆっくりと誘導されるように岸へと流れていく。  そして白い砂浜にその腹を擦った船が停まる。 「船長、あそこに人が」  船首に立つアンギアンドに船員の一人が言う。  美しい海辺に現れたのは白い装束をまとった子どもたちだった。  その一人に目を奪われ、アンギアンドは言葉を失った。 「兄さん」  あの日。妹を奪われたあの日のままの姿の妹がそこにいた。  船の上ではどんちゃん騒ぎの酒盛りが続いていた。  どこから出てくることやら、いくつもの酒樽が船の上に運び込まれ、見たこともないような色鮮やか な魚の料理や、大きな肉の塊を焼いた料理、フルーツの盛り合わせが次から次へと運ばれてくる。  そしてこれまたこんなに人がどこにいたのかと思うほどに、美しい女性たちが船の上にやってきて、 浮かれた船員たちの間に座ってお酌をしてくれている。あまりに美しすぎる上に上品なその仕草に、あ まり下品に手を出すようなものはいなかったが、それでも十分にこの島には不似合いなくらいに大声を 上げて笑い転げ、歌う男たちの声が響いていた。  その喧騒に耳を傾けながら、船を下りていたアンギナンドは久しぶりに会う妹とともに海を眺めなが ら砂浜の上に座っていた。  本当にあの日のまま、時間が逆転してしまったのではないかと思うくらいに、何も変わらない妹の存 在に、感覚がおかしくなっていく。  なぜ自分だけが年をとっているのか。ともすると、感覚だけが元に戻ってしまい、自分まであの日の 少年だった頃の姿になっているのではないかと錯覚するくらいだった。  だが見下ろした自分の手は、子どもの頃、一緒につないでも握るのがやっとだった頃の大きさの手で はなく、海で生きる間に硬い皮で覆われ、さらには多くの命を奪ってきた血のしみこんだ手になってい た。  あまりに無邪気で清冽な姿を隣りに置くと、自分の薄汚さが堪えられないほどに悪臭を放って自分の 心に迫ってくる気がした。自分への嫌悪が湧き上がる。  だがそんな自分を受け入れるように、クロニアがアンギナンドの手を握り返す。 「兄さんにまた会えて本当に嬉しい。わたしのことを大事に思ってくれてたんだって、実感できて幸せ」  トンとクロニアがアンギナンドの腕に頭を預けて寄りかかってくる。  その体を胸の中に抱きかかえて、一緒に月が滲む海を眺める。 「よく俺が分かったな。一目で兄さんと呼んでくれた」 「……それは分かるわよ。だって、今まで一日だって兄さんのことを忘れた日はないもの。毎日、兄さ んのことを考えていた。それに、兄さんのことを見ていた。そして、導いていた」 「……見ていた?」  その言葉にアンギナンドはゴクリとツバを飲んだ。  そして胸から顔だけを上げたクロニアと目が合う。  その瞬間に、アンギナンドはさらなる自己嫌悪のために吐き気がする思いで、クロニアから目をそら した。  クロニアの瞳は、大人の女の目だった。姿形が子どもであっても、やはり過ごしてきた年月がその瞳 を無邪気で何も知らない無知な子どものままにはしていなかった。清も濁もともに飲み込む瞳。  クロニアは抽象的な意味で、ずっと思い見ていたという意味でアンギナンドを見ていたのではなかっ たのだ。文字通りに見ていたのだ。アンギナンドがこれまでの間に何をしてきたのかを。  船に乗り込むために、自分の体を利用したこと。のし上がるために、人を陥れる策略をめぐらせてい たこと。そして残忍な海賊王という名を欲しいままにするだけの、処刑を顔色一つ変えずに行い続けて きたことを。  妹一人を救おうとするために、自分はどれだけの屍を足の下に積み上げてきたのだろう。 「兄さん。それは兄さんの罪ではない。わたしの罪。わたしが兄さんをここへと呼んだから、世界の流 れが兄さんをここへと呼び寄せるように組まれてしまった。兄さんはわたしの求めに呼応してくれただ け」  まるで全てを見透かしたように言うクロニアに、アンギナンドは恐ろしさも感じてその顔を見つめた。  世界そのものから遊離して、空気の中に溶け込んでしまうのではないかと思うほどに、その存在は希 薄で、それでいて燦然と光を放つものだった。  人間ではない。違う次元に住まう生き物の気配。 「違う。俺は自分の意志で来た。確かに仕組まれているかのように感じるくらいに、チャンスが何度も 与えられた。それは認める。でも、それを使うか使わないかの選択は自分でしたはずだ。そうだろう。 あきらめることだって何度もできた。でもしなかった。それは、俺がおまえを救いたかったからだ。普 通の娘として生きて幸せになって欲しかった」  だが言いながら、自分の言葉から力が抜けていく。  普通の娘。  その言葉はすでに目の前のクロニアには当てはまらない。もう、手遅れなのだと告げるように、クロ ニアの瞳が哀しく微笑む。  クロニアが普通の娘でないのと同時に、自分も普通の男ではなくなっている。  陸地に足をつけようものなら、すぐに逮捕され処刑されることが確定している、犯罪者なのだ。  そんなことは海の上にいるときから重々承知していた。だがクロニアを前にして、そんな自分が酷く 生きる価値のない存在に思え、迷子になった子どもに似たおびえが顔をのぞかせる。 「……わたしはこの連鎖を断ち切りたい。宝玉を巡る連鎖を」  クロニアは海を見つめながら、兄だけに秘めていた心情を吐露する。  子どもの体にあって、だが表情は大きな重圧に耐えながら決然とそれを受け入れる達観の顔だった。 「連鎖?」  アンギナンドはクロニアの言おうとしていることを理解できずに眉間に皺をよせる。 「宝玉四つを、破壊する。それがわたしの望み」  衝撃がアンギナンドの脳を直撃してクラリと眩暈すらを感じさせた。  クロニアがそんなアンギナンドの目をじっと見つめながら言う。 「お願い、兄さん。わたしを助けて。そのために、兄さんはここにいるのだから。いえ、この世に生を 受けたのだから」  握られたクロニアの手は、熱く力がこめられていた。         
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