「灼熱の太陽をこの手に掲げ」



21  ぼくたちの役割 
 甲板の上にあがったジョリーとチェスナットを、一人の男が迎える。 「ようこそ、俺の船へ」  慇懃に膝を折って礼をしてみせる男が笑う。  右の瞼を切り裂いて額から頬へと進む傷が凄みを加えてはいるが、若く活力にも満ちた男の笑みは想 像していた海賊王の姿ではなかった。 「アンギナンド……」  シスターバイオレットが怯える二人の後ろで声をかける。  やはりこの男が海賊王と呼ばれる男、その人なのだろう。それにしても、この若すぎる容姿はなんな のだろう。  シスターバイオレットの呼びかけに顔を上げたアンギナンドが、二人に向けるのとは温度の違う笑み を浮かべる。 「守護者としての仕事、しくじったな」  鷹揚そうに笑うアンギナンドの手が腰に当てられる。そのすぐ横には、ベルトに刺されたナイフがあ る。  シスターバイオレットもナイフに今にも伸びそうな指を見つめながら、震える視線を少しずつアンギ ナンドの顔へと上げていく。  そして目があったシスターバイオレットに、アンギナンドが小首を傾げてみせる。 「俺たちの世界に失敗は許されない。……失敗したものには、それなりの制裁がくわえられるのが掟だ」  凍ったように顔にある笑みが、ジョリーにもチェスナットにも恐ろしかった。足元から這い上がった 冷気で、体中を流れる血が凍りついていく気がするほどに。  ジョリーは目を動かすだけでも殺されそうだと思うほどの殺気を感じながら、軋む首をめぐらせてシ スターバイオレットを見た。  蒼白な顔で立ち尽くしていたが、命を賭した覚悟を示して逃げることなく真っ直ぐに立ち、アンギナ ンドを見つめ返していた。  アンギナンドが刃が鞘から抜かれる音を響かせ、ナイフを抜き放つ。  薄く砥がれた刃に親指を押し付ければ、スッと肉の中に沈んで血を溢れさせる。  だが、その溢れた血を見た瞬間に、ジョリーは声を上げそうになった。  銀色の刃を伝い、アンギナンドの手の平へと流れ落ちた血が赤くはなかった。黒かった。漆黒の液体 が粘りを見せて流れていく。そしてポタリと甲板に落ちた血は、ベタリと重い動きで飛び散る。  それを凝視していたジョリーとチェスナットに、アンギナンドがこれが見せたかったのだと示して酷 薄な笑みを浮かべてみせる。 「この呪いを解く使者がおまえたちなのかもしれない。だったら、いくら守護者といえど、バイオレッ トにおまえたちを止めることはできなかっただろう」  そう言ったアンギナンドがシスターバイオレットを見つめて片眉を上げて見せると、ナイフを鞘の中 に戻す。  そしていつの間にか、深く切れていたはずの親指の傷が消えたアンギナンドが二人を招き入れて船室 へ入るように手振りで示す。  船自体も、アンギナンドと同じように時を止め、朽ちることなくそこにあった。  軋みの音もなく開け放たれた扉の向こうへと、一歩を踏み出しながらジョリーは後戻りできない呪い の輪に、自分たちも飲み込まれようとしている気配を感じていた。  雑然と物が散乱した部屋の中で、アンギアンドは当たり前のように大きな机の向こうにあるイスに座 ると、机の上に脚を投げ出してふんぞり返るようにして座る。 「バイオレット、客人にはお茶でも入れてやれ」  それに無言で従ったシスターバイオレットが茶器を音を立てて扱う横で、アンギナンドはワインのボ トルから飛び散る雫に頓着しない様子でグラスになみなみとワインを注ぐ。  そしてそれを喉仏が露わにあるほどに仰け反って飲み干して、深く息をつく。 「バイオレット以外の人間を見るのは久しぶりだ。この船で死んでいった人間の亡霊はよく見るがな」  アンギアンドの言葉に、チェスナットがビクリと首をすくめて部屋の隅を見つめる。当然そこに揺ら めく影などない。  ただ子ども二人をからかっているのだと分かる笑みを浮かべているアンギナンドに、ムッと顔をしか めたジョリーとチェスナットだったが、案外それがただの冗談には聞こえずに押し黙っていた。  この船で何百何十という人間が死んでいったのは事実なのだろうし、それが凄惨な殺し合いの末であ ったことは聞くまでもないことだからだ。 「どうぞ」  冷たく強張った声でシスターバイオレットが二人の前にお茶の入った茶器をおく。  長い時間闇の中を歩き続け、食べることも飲むこともなかった二人の鼻先を芳ばしい茶の匂いがくす ぐる。 「どうした。とっておきのジャスミンだぞ。茶器の中を見てみろ。花みたいに開いていくだろう」  自慢げに言ったアンギナンドが、お湯の中で開いていくジャスミンの葉で作った花を示して言う。  確かに美しく、芳しい香りを放つお茶だった。  だがどうしても手をつける気にはなれなかった。これを口にした途端に、アンギナンドの施した呪い にかかりそうな気がしてならなかったからだ。  ゴクリとツバだけを飲み、茶器を手にしようとしない二人に、アンギナンドが声を上げて笑う。 「なかなか賢い子どものようだな。警戒することを忘れない。腹も減っているだろうが、安易に欲望に 負けずにいるとは、なかなか見込みがある」  アンギアンドが嬉しそうに言って再び注いだワインを飲み干す。 「大丈夫だ。それを飲んだからといって俺と同じように呪われるわけじゃない。それはバイオレットが 俺のために外から持ち込んだものだ」  アンギナンドの横に控えて立っているバイオレットが、下げていた視線を上げ、二人に頷いてみせる。 「もうあなたたち二人に危害を加えるつもりはありません。アンギナンドが迎え入れたのなら、あなた たちはアンギアンドの客なのですから」  シスターバイオレットは落ち着いた声でそう言うと、クッキーの乗った皿も差し出す。 「食べて落ち着きなさい。これから、長い話を聞かなければならないのですから」  長い話。  見つめ返すジョリーに、アンギアンドが肩をすくめて見せる。  知りたいことはたくさんあった。  教会がなぜアンギアンドを匿っているのか。ケーヌじいさんのことを知っているのか。灼熱の太陽と は何なのか。そして彼にかかっている呪いとは何なのか。  それら全てに答えてくれるのかと問うジョリーの目に、アンギナンドは答えの見えない笑みを見せる だけだった。  ジョリーは意を決してお茶に手を伸ばすと、ぐっと煽る様にして飲み干した。  それを見てチェスナットも恐る恐る茶器に手を伸ばし、ちびりとお茶を口に含む。  そのチェスナットの胸のうちで、暗雲を垂れ込めるように重く圧し掛かる疑問があった。  それはアンギアンドの言葉だった。 『呪いを解く使者』  自分たちがアンギナンドに掛けられている呪いを解く使者だというのだろうか。もしそうなら、呪い から解放することに躊躇いはない。だが、その後に起こることを思うと恐ろしくて仕方がなかった。  時間を止められ、黒い血を体に流す男は、その呪いを解かれたときどうなるのか。そしてそれは教会 の意志に背くことになるのではないか。  俯いたシスターバイオレットの顔から、真意を汲み取ることはできなかった。  だが以前と同じ世界に無事に帰っていけるという確信は、もうどこにもなかった。無事にここから解 放されるとしても、その先にあるのは今までとは違う世界であることは確定した未来としてチェスナッ トには見えていた。  そんな物思いに耽る二人の前で、アンギナンドが机から足を下ろして立ち上がると、壁を覆っていた 大きな布を引いた。  舞い散った埃に顔をしかめた二人は、次の瞬間に壁一面に鮮やかに描きだされた海図に圧倒されて言 葉を失った。 「さて。長い話でも始めるとするか」  黒い布を床に放り投げたアンギアンドが振り返る。 「呪われた秘宝の話を」
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