「灼熱の太陽をこの手に掲げ」



 17  水への恐怖
 ガボガボともがいて水の中でパニックを起したジョリーの腹にチェスナットの手が入り、起してくれ る。 「ジョリー、落ち着いて。ここ足が着くから」  水から顔が上がって荒い息をつきながらチェスナットにしがみ付くようにして気持ちを落ち着けてみ れば、確かに自分の足で立っていることに気づく。  額に張り付いた前髪からポタポタと滴る水を見るとはなしに見ながら、ジョリーを大きく息をついた。  パニックを起して水の中で見た映像が頭の中で再生する。  透明な緑色の水の中を光の波紋が広がり、それを乱すように自分の暴れる手足が幾多の泡沫を発生さ せる。  もがく手足がいやにリアルに見えていた。  重い水が手足にまとわりつき、体を圧迫する。  空気がない。息ができない。どうしたらいいのかわからない。死んでしまう。  自分の視界を塞ぐほど体の周りを覆っていく水泡に正常な思考など巻き取られて焼失していくのがジ ョリーにも分かった。 「大丈夫? ジョリー」  耳元とした声に我に返ったジョリーは、自分の目の前にチェスナットの濡れた長い髪があるのに気付 いてギョッとした。  そして次に自分がチェスナットの体に抱きついていることに気付く。 「わあ、ごめん」  慌てて抱きついていたチェスナットの体から手を離すが、不安定な水の中で足を取られて再び水没し そうになり、伸ばされたチェスナットの腕に縋りつく。  チェスナットの腕につかまって安心するのと同時に、情けなさが湧き上がってくる。  これじゃあ海賊になりたいと夢見る少年というよりも、水が怖くてママにしがみつく坊やじゃないか。  失望はするが、だからといって目の前にあるゆらゆらと揺れるエメラルドの水に挑んでみようなどと いう勇気は湧いてこない。なんとも恨めしい。 「いきなり水に飛び込ませたのは失敗だったみたいね。じゃあ、もうちょっと浅いところに行ってみよ う」  優しい先生のように笑ったチェスナットに、ジョリーは決まり悪げに目を伏せて頷く。  今の胸まで水に浸かった状態では、いつ水が口を覆ってしまうか分かったものではないという恐怖が ジリジリとジョリーの思いを蝕み続ける。  チェスナットに手をとられながら、おっかなびっくりで水の中を歩き出す。  足元は苔が生えたフカフカした感触で、その色が透明な水に反射して緑色に見せているのだと気付く。  やっと落ち着いて周りを見回す余裕ができたジョリーだったが、目と鼻の先でチェスナットがトプン と音を立てて潜ったことに、再び息を止めるほどビクリと身をすくめる。  ほんの数秒で顔から水の中から上がってきたチェスナットが、青い顔をしたジョリーとは正反対の楽 しそうな顔で笑う。 「ねえ、この水、海水じゃなくて真水。海水が入り込んでるんだと思うけど、地下の層を通り抜ける間 に濾されてるんだろうね。すごくおいしい水だよ」  チェスナットのまつ毛からも一滴水が滴り落ちる。  すごくキレイだった。  一滴の水も、チェスナットも。  再びまつ毛の先にたまって落ちそうになる水にむかって手を伸ばす。  そして指の先に丸くふくらむ水滴を受ける。  すでに濡れているジョリーの手の水と溶け合ってすぐに形を崩してしまった水滴を、心底もったいな さそうに見つめたジョリーだった。  そしてジョリーの行動を見つめていたチェスナットも、ただ青いばかりだったジョリーの顔から恐怖 が消えかけていることに気付いてほほえむ。 「ねぇ、ジョリー。水ってきれいでしょ?」  自分の指の先からも滴る水滴をみつめていたジョリーが、チェスナットの声に顔をあげる。 「……水が?」  言ったジョリーの指先からまん丸に形をかえた水滴が落下していく。そして水滴は水面を叩くと沈み 込んだ次の瞬間、王冠の形に跳ね上がり、周りに波紋を作りあげていく。  思い返せば、怖かったのも事実だが、水の中で見た光景はキレイだったかもしれないとジョリーは思 った。  自分を包み込んだエメラルドの世界と揺らめく太陽光の波紋。石の上を覆い尽くしたフカフカの苔。 その表面に浮んだ透明な丸い気泡。  ジョリーがはじめて水を美しいものと捉えた瞬間だった。 「ジョリーは今まで水をどんな風に思ってた?」  地底湖の淵に腰掛けたチェスナットが水の中のジョリーの向って言う。  その問いかけに、ジョリーは手の平で水を掬い上げるとじっと見つめた。  手の平の水溜りに自分の顔が浮んでいた。暗い瞳の色でじっと自分を見つめ返している。 「水は、いつも真っ黒でぼくに襲い掛かってくるものだった」 「真っ黒?」  自分の言葉の矛盾に気付いていたが、意識の中にあるジョリーに恐怖を抱かせる水は、いつも逆巻 く黒い水で、頭からジョリーを飲み込み、メチャクチャにその中でかき回すのだ。  息ができなくて、苦しくて、痛くて。  ジョリーは顔を洗うために水を顔につけることもできない。いつも温かいおしぼりをカイリが作って くれて拭いてもらっていたのだ。今では自分で拭いているけれど。  思い出せる限り、昔からそうだった。洗面器に汲んだ水で顔を洗った記憶などない。母のカイリはそ うして洗っているというのに。 「ジョリーは昔、水で怖い思いとかしたのかな?」  チェスナットが足で水を跳ね上げながら言う。  その水しぶきが顔にかかり、目を眇めながらジョリーが首を傾げる。 「お風呂にも入ったことないし、顔も濡れフキン拭いてたんだよ。……海なんて入ったことないし」  だったらあの逆巻く黒い水の記憶は何なのだろうと、ジョリーも自分自身に問い掛ける。勝手に水へ の恐怖から自分が作りあげたイメージなのだろうか?  いや。それにしてはあまりにリアルだった。  体感があるのだ。冷たくてザラリとした砂を含んでいて、乱暴な荒波に翻弄される体と塩辛い味。肺 に入り込む水の苦しみ。  そして声?  ジョリーは僅かに甦ったものに意識を集中した。  今まで意識したことはなかったが、苦しくの先にあるものがあった。  それは泣き叫ぶ自分の声と、その合間に聞こえてくる女の声だった。 『ごめんね。ごめんね。おまえを海に差し出せば、あの人が帰ってくるなんてことあるはずないのに』  ギュッと抱きしめられた感触が甦る。  小さな自分の体を覆い尽くした柔らかく温かいものは、母カイリの体温だったはずだ。  ハッと目をあけたジョリーを、チェスナットが大きな目をして見つめていた。 「……どうしたの?」  その声に返事を返せないままに、ジョリーは初めて気付いた母カイリの、自分の父親への気持ちに心 の底が引っかかれたような痛みを感じた。  いつもなにも言わないけれど、ママはずっとパパを待っていたんだ。諦めたわけでも忘れたわけでも なくて。ぼくはまだ人を好きなるってことが分からないけれど。  そのとき、チェスナットが大きく息を吸うと、大きなクシャミをした。  顔を手で覆って照れた顔で笑うチェスナットだったが、水から上がって体が冷えたのか、ブルリと体 を振るわせた。 「ちょっと寒くなっちゃった」  そういって水の中に入ってくる。 「水の中の方が温かい」 「だったら水の中にいて。ぼくが焚き火作るから。体乾かさないといかないし」  水から上がろうとしたジョリーの手を、後ろからチェスナットが取った。 「ちょっと待った。その前に、今日の特訓の成果を確かめよう」  チェスナットはそう言って水の中で手を動かした。 「ジョリー、水に潜ってわたしの手の指が幾つ立っているか確かめて」  ジョリーは湖の淵にかけていた手に力をこめると、ゴクリとツバを飲んだ。  水への恐怖は自分が心に抱えているイメージから来るだけだということには気付いた。水がキレイだ ということも知った。だが、だからといって水に顔をつけられるかは別だ。 「ねぇジョリー、気付いてた? さっきわたしわざとバタ足してジョリーの顔に水飛沫かけてたんだよ。 でもジョリー、迷惑そうな顔はしたけど水を怖がってなかった。前は海の波が顔にかかるだけで硬直し てたのに」  前に一緒にアサリ採りをしたときのことを言っているのだと分かり顔をしかめたジョリーだったが、 言われる通りに顔に水がかかることに嫌悪はあっても恐怖はなかったのだ。  ジョリーは水をじっと見つめた。  その下で滲んで動くチェスナットの指が見える。  ジョリーは湖の淵を掴んでいた手を離すと、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出した。  できる。できるはずだ。さっきだって湖の中の景色を見ていたじゃないか。  ジョリーは決意を固めると大きく息を吸って息を止めた。そして湖の中へと身を沈めた。  閉じていた目を開ける。  目の前にチェスナットの指があった。  指は二本立てられていた。  そしてその指の向こうにチェスナットのほほえむ顔があった。  水の中に一際強い陽の光が入り、明るく照らしだす。  水中を揺らめくチェスナットの長い髪が目にはいる。まるで生き物のようにゆらゆらと揺れ、その髪 の上を陽の煌めきが輝く。  空気を含んでぷっくりと頬を膨らませたジョリーの顔に笑いかけたチェスナットが、泡を吐きながら 何かを言う。 「よくできました」  そういっているのだと分かってジョリーも頷く。  そのジョリーの額にチェスナットがキスをしてくれる。  ジョリーには、まるで人魚姫が自分のために現れ、海と仲良くなったご褒美をくれたような気がした。
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