「灼熱の太陽をこの手に掲げ」




1 大海原を夢見て
 気合を瞼に込める。  さあ、閉じるなよ。お願いだから、閉じないで。  だが意思とは反比例するように、視界は黒く塗りつぶされる面積を瞬く間に増やされていく。  もう瞼の力だけではダメだ。なら眉毛ごと上に持ち上げて。  でも瞼は糊付けされてように見事に張り付き、決して開かない。  ああ、意識までもが遠くへ……とおくへ……とお………。 ―― ぐお〜〜〜〜。  まるで部屋の中に牛が乱入してきたかと思うほどのいびきが教室の中に響き渡り、長いすに座って教 師の書く文字を生徒たちが後ろの席を振り返る。 「先生、またジョリーが寝てます」  クラス長の少女が正義感を証明するように立ち上がると叫んだ。  その声に慌てて顔を上げた少年ジョリーは、寝ぼけ眼で自分を見つめているクラスの生徒と教師を見 つめ、頭を掻いた。  年中つきどおしの寝癖頭から白い粉が舞い落ちる。 「やだ、フケ」 「いや、これは昨日海賊亭のエビフライ用のパン粉を被っちゃって……」  ジョリーは欠伸交じりで説明するが、生徒たちは聞いてはいない。 「ヤダ〜。ジョリー汚い。側に来ないで」  すでに十分の距離が開いているにもかかわらず、イスの上で身をそらす女の子たちに、ジョリーは関 心のない顔で教師の顔を見上げるのだった。  そこにあるのも無愛想にジョリーを睨む中年男の鼻眼鏡の顔だった。  神経質に七三に分けられた、嘘みたいに真っ黒な髪をきっちりと油で撫で付けた教師が、ジョリーを 見ているだけで体が痒くなるのか、茶のベストのしたのシャツの裾を引いて身じろぎすると、とってつ けたようにエヘンと咳払いする。 「ジョリー。勉強するつもりがないなら、この教室にいなくても構わないのだよ」  暗に出て行って欲しいと匂わす教師の言葉に、だがジョリーは動じた様子もなく、顔の前で手を振る。 「お気遣いなく。ぼくはただ聞いてますから」  言いたいことが伝わらない風を装い、教科書を開いて勉強をはじめる。  毎晩学校の後に深夜までやっている食堂での仕事が、ジョリーの睡眠時間を奪っていた。  それでも、ジョリーは学校を休むことはなかった。  教師が思い通りにならなかった不機嫌を顔に掘り込みながら、鬱屈を黒板を叩くムチにこめて授業を 再開する。 「はい、次のページ!」  だがその声が発せられたとき、ジョリーの顔は教科書に突っ伏し、鼻から吐き出される息にページが フルフルと震えていた。 「ちょっと、ジョリー!」  女の子の剣のある声に教科書から顔を上げたジョリーは、自分を遠巻きに囲んでいる三人の女の子を 見上げた。  最初からお下がりで破れていた教科書が、ジョリーのヨダレでよれよれになって、千切れ落ちそうに なっていた。  ジョリーが口の端から頬に流れていたヨダレを手の甲で拭ってシャツの裾で拭えば、女子たちが揃っ て顔をしかめる。 「で、何?」  目の前の女の子たちは、そろって長いワンピースに白いエプロンをつけたスタイルで、長い髪を三つ 編みにして肩に下ろしていた。  笑顔になればかわいいのかもしれないが、そんな顔はジョリーに向けられたことがない。今も三角に 尖った目が釣り上がり、ゴミにたかるハエを見下ろす視線がジョリーを見ていた。 「なんで学校来るの? お家にお金ないから働かなきゃならないんでしょ?」 「ああ。そうだよ。でも、夜働けばいいから」 「だから、夜働かないで昼間働けばいいじゃない」 「それじゃあ、学校に来れないから」 「学校に来なきゃいいじゃない」  次々と台詞が決められていたのか、隙を与えずにジョリーに返答する女の子たち。  なんかの操り人形みたいだな。  自分が攻撃されているにもかかわらず、呑気にそう思ったジョリーは、教科書と小さすぎる鉛筆一本 を、穴の開いていない方のズボンのポケットにしまい、立ち上がった。 「俺、勉強したいし」 「なんで? ジョリーには必要ないでしょ?」  女の子の一人が、頭から足の先までを眺め、あまりの汚さに顔を顰めた。  本人の言葉を信じるなら、パン粉まみれの髪は鳥の巣そのものだし、羽織られているチェックのシャ ツは、ボタンが全て取れているために前がダラリと開いたままだった。そのシャツの下に見えているラ ンニングのシャツは、元が本当に白かったのを疑わせるほどに茶色く変色し、油染みやオレンジのトマ トソースの染みなどをつけていた。  ズボンも右足は膝から下が裂けてなくなっている上に、両方の靴のつま先が破れて足が見えていた。 もちろん見えている足は真っ黒に汚れている。 「なんで俺には勉強が必要ないの?」 「だってジョリーは商売人になるわけでも、学者先生になるわけでも、もちろんお医者様になるわけで もないわ」 「せいぜいいいところ、一年に一回しか帰って来れないマグロ漁船の船漕ぎ人夫よ」 「だから必要なのは脳みそじゃないくて、筋肉。学校来る暇があったら、力がつく仕事でもしてればい いのよ」  まるで高尚な教えを説いてやっているという態度の女の子たちに、内心呆れ返り、関心をなくすと、 教室を後にしようと歩き出した。  その一歩に慌てて後ろに飛びのいた女の子たちを横目で睨みつつ、ジョリーが歩み去る。 「ちょっと、明日も学校来るつもり?」  女の子たちの叫びは無視し、ジョリーはギシギシと軋む板の廊下を足早に歩き、石造りの玄関の階段 を駆け下りて町へと飛び出していく。  そこで立ち止まって後ろを振り返ったジョリーはフンを鼻をならした。 「俺は使い捨ての船漕ぎ人夫になんかならねえよ。海賊になるんだ」  海賊はバカじゃ、務まらねえんだよ!  ジョリーの夢は海賊になること。  夕飯の買出しに忙しい人々の間を走り抜けていくジョリーの目には、大海原を走る船から見る白波と 海鳥が見えていた。
top / next
inserted by FC2 system