「狂乱の旋律」



 胸の上に乗る重苦しい重量感に、サンドラは目を開けた。
 女の腕が乗っている。
 肩が毛布から剥き出しになった女の寝息が頬に当る。
 どうやら仕事のために使っている部屋で仲間と飲んだあとで寝過ごしたらしい。
 部屋中に酒の残り香と乱交の余韻が漂っている。
 ベッド代わりにしたソファーは誰かがゴミ捨て場から拾ってきたもので、予想に反せずに雨の染みや
破れが目立つが、ガムテープで補修してあるだけのわりに重宝していた。 
 それでも人が二人も横たわるスペースがあるわけがなく、眠ったサンドラの上に完全に馬乗りになっ
た体勢で女が眠っていた。
「起きろ!」
 女の髪を掴んで顔を上げさせれば、寝ぼけた顔が途端に痛みで歪む。
「なに? ……離してよ!」
 軽い悲鳴を上げて上半身を起した女が、下から不快感を体中から発散しているサンドラに気付いてゴ
クっとツバを飲んだ。
 上下した喉の下の胸が冷えた朝の空気に晒され、薔薇色の乳首がツンと上を向く。
「……サンドラ?」
 ヘビに睨まれたカエルのように、体を硬直させて動かない。
 そんな女をサンドラは上から下まで見やると、女の腰を覆っていた毛布を足で絡め取る。
 完全な裸体が露わになる。
 プエルトリコ系の小麦色の肌をした腰は見事な曲線を描き、自分の腹を跨いだ太ももが扇情的に艶や
かに光る。
「昨日の夜はサンドラ、すぐに寝ちゃってできなかったから、朝からしたいってんなら、わたしは全然
構わないよ。サンドラの女になれるなら、わたし何でもする!」
 この界隈では新入りの女だった。
 サンドラは売春婦も斡旋する。無茶をする男たちから彼女たちを守る用心棒のような仕事をする代わ
りに、売上のポン引きをする。
 そしてそんな中でヤク中の女ほど、ヤク欲しさに組織の男の女になろうとする。
 この女もそんな中のひとりか。
 サンドラの肌蹴たシャツの胸を開き、首筋に舌を這わせ始めた女の腕を掴み、捻りあげてその内側を
見る。
「痛い! なにするの!」
 威勢のいい怒鳴り声でサンドラの腕を叩き落そうと反撃に出るが、その拳が当る前に床に投げ落とさ
れる。
「まだ注射の痕はないみたいだな?」
 ヤクやってんのか? と言外に聞かれ、女が床の上で無様に転がった体を起して蹲った。
「ヤクやるような金なんてない。食べるのにだって精一杯で」
 悔しさの滲む口ぶりで言う女を横目に見ながら、サンドラは机の上に転がっていたタバコを一本口に
くわえると火をつけ、煙を胸の中に吸い込む。
「で? 俺とやれば今よりもましな生活ができるって?」
 どうせ誰かが面白半分のゲームのつもりで、まだ何も知らない娘をたぶらかしたのだろう。
 サンドラをものにできたら、あんたはここではクイーンになれるよ。なんせ、サンドラがキングだか
ら。
 だがすでに仲間内でクイーンと呼ばれる存在があることなど、新入りには知りようがない。
 サンドラの弟、サイドルがクイーン。手を出そうものならサンドラの逆鱗に触れることになる秘めら
れた宝だ。
 サンドラの感性はこの弟だけにしか働かない。どんな女の奉仕にも反応しない。
 裸の女が恐れられているサンドラの意外なほどに穏かな喋りに、もしやと可能性を感じ取ってサンド
ラの前に這い進む。
 そしてズボンのファスナーに手をかけると、中からサンドラのものをつかみ出す。
「わたしがサンドラを天国に行かせてあげる」
 笑みさえ浮かべて言う女を見下ろし、サンドラが口から紫煙を吐き出す。
 両手で捧げ持った女が赤い唇を開く。
 だがその頭をサンドラが掴んだ。
「誰がそんなもの咥えろと言った?」
 頭皮から毛が抜き取られる痛みに悲鳴を上げた女が、身を仰け反らせてサンドラから離れようとする。
「そんなに咥えたきゃ、これでも咥えてろ」
 サンドラが手に持ったもの。それはついさっきまで自分が咥えていたタバコだった。
 だが女に向けられているのは、フィルターではなく、赤く火がついた焼けた葉の部分。
「なにする気? ……お願い、やめて!」
 恐怖に戦慄し、涙を流して懇願する女に、サンドラがほほえむ。
「存分にあじわえ」
 女の舌に押しつけられたタバコの火が、唾液にジュっと音を立てる。
 白目を剥いて昏倒した裸の女を見下ろし、サンドラが立ち上がる。
 部屋を出ようとして振り返ったサンドラは、惜しげもなく大きな双丘を晒した女の体を見ながら呟く。
「嫌なことを思い出させやがる」
 苛立ちとともに、ドアが閉められた。


「サンドラ」
 そう自分の名を呼ぶあの声を聞いたのは、何年ぶりだっただろうか。
 自分が弟のサイドルを守るために男を刺して家を飛び出してからだから、ゆうに十年は経っていた。
 仲間が周りにいなかったのが不幸中の幸いだった。
 ストリートにたむろす不良グループのトップの右腕とも言われ始めている自分が、怯える姿を見られ
なくてすんだからだ。
 家で待つ弟のために夕食の買出しを終えて帰るところだったサンドラを呼び止めたのは、山奥から百
年ぶりに出てきた魔女のような風体の女だった。
 酷く伸びた髪は油と埃で汚らしく束になって背中を覆い、顔も手も茶色くまだら模様を作っている。
 だがその声を忘れるわけがなかった。
 母親だ。
 自分たち兄弟に愛情らしい愛情を注いでくれたことなどなかった、身勝手で軽薄な売春婦。隣りの部
屋に子どもを押し込め、毎夜男たちとの乱交を見せ付け続けた女。
「サンドラ、サンドラだろ? わたしの息子のサンドラ」
 髪を振り乱した女が路地の裏から地を這い進むようにして近づいてくる。
 逃げろ!
 頭では分かっていながら、震えてしまう足は一歩たりとも動こうとはしてくれない。
 憐れだと思ったのか、それとも、実の母親をこんな姿になる境遇に追い込んだのは自分だという罪悪
感があったのか。
 自分でも分からないままに、女に手を取られるまでそこに立ち尽くしていた。
 振り乱した髪の間から、自分たちと同じ青い瞳が覗く。
 赤く目を充血させた、疲れきった顔だった。
「母さん」
 引き攣った声が喉からもれる。
「ああ、そうだ。母さんだよ。ずっとおまえたちを探してたんだよ。サイドルも元気かい?」
 口だけは母親の愛情を振りかざすような言葉を吐く。だが、その腹の中にある思いが母親の愛情など
ではないことは、血走った目といやらしい笑みを浮かべた口元が如実に語っていた。
 この息子たちを養うために、自分は売春婦などという仕事を続けてきた。そのうえ、殺人という汚名
まで着せられた。殺したのはおまえたちだということは分かっている。警察はたった5歳と3歳の子ど
もに大の男を殺すことなどできるはずがないと決め付けてかかったが、わたしは知っている。やったの
は、おまえ、サンドラだ。わたしを蔑みながら、同じように男を体の中に受け入れて金を貰った末に殺
したんだろう。
 腕を型がつくほどに強く握った母親が、サンドラのもつ紙袋に気付いて身をすりよせる。
「食べ物もってるんだろう? わたしにも分けてくれよ。母さん、もう3日もなにも食べてないんだよ」
 確かに力は異常なほどに強いが、自分の腕を握る手の甲は、皮を骨にうえに貼り付けたような姿だっ
た。
「お願いだよ。おまえたちの家に連れて行っておくれ。母さんは病気なんだよ。このままじゃ、死んじ
まう。お願いだから」
 取りすがられたサンドラは、母の手を払いのけることができないままに後退さった。
 家になど連れ帰えるわけにはいかない。家にはサイドルがいる。この女のことだ。サイドルをなにに
利用するかわかったものではない。俺がずっと守ってきたサイドルを。
「母さん、休めるところへ行こう。そこで好きなものでも何でも食えばいい」
 湧き上がる吐き気と怒りを押し殺して薄ら笑いを浮かべて母の手を引く。
 このままこの女をのさばらせておくわけには行かない。
 

 うらぶれた通りに建つ今にも崩れそうな安ホテルの一室に入った瞬間、サンドラの手から紙袋を奪い
取った母親が、袋を開けるのももどかしく破り捨てると、中からすぐに食べられるものを掴み取り、ガ
ツガツと口に運ぶ。
 人間の食事の姿とは思えなかった。
 床に這いつくばって手掴みでパンやソーセージ、果物を手当たり次第に口に入れて咀嚼して飲み込む。
味わうというよりも、ただ単に腹を満たしたいという欲求のままに、口の中に物をつめこむ行為。
 唸りさえあげて貪欲に食べ続ける母親は、もう人間には見えなかった。
 人間の皮を被った怪物だ。
 机の上に伏せて置かれたコップをとって、床に散らばったものの中からミルクを拾い上げると注いで
母親の前に差し出す。
「ほら、そんなにがっついて食わなくても、誰もとらねぇよ」
 差し出されたコップを、全身の毛を逆撫でて警戒を示すネコのように、背を丸めて胸にパンを抱えた
まま後退さった母親だったが、それが息子の差し出すミルクなのだと理解すると、慌てた様子で受け取
って口をつける。
 口いっぱいの詰め込まれていたものが、ミルクとともに強引に飲み下され、喉が上下して咽る。
 口の端から零れ落ちたミルクが、喉から胸へと滑り落ちていく。
 食べられるだけのもので腹を満たした母親は、汚らしいゲップを吐きだしながらバスルームに消える。
 お礼も何もない。与えられることが当たり前で、自分の不幸をすべて他人のせいにして生きているよ
うな女だ。
 サンドラは床に散らばったゴミを拾い集めると、ベッドの上に腰を下ろしてため息をついた。
 なぜあの女が生きてるんだ。さっさと死ぬか刑務所にでも入っていてくれればいいものを。
 このままで済むわけがない。生きている限りたかり続けるだろうし、自分だけならいくらでも追い払
うことができるが、いずれあの女の手はサイドルに伸びる。そうなれば、あの繊細で優しい弟は家にだ
って引き入れてしまうだろう。
 家捜しして金をありたっけ持ち去られ、あげくはサイドルに仕事をさせようとするかもしれない。あ
の顔ならいくらでも買ってくれる男も女もいる。
 どうしたらいい……。
 頭を抱えて考え込んでいたサンドラの背中で、バスルームのドアが開き、中から半裸の母親が出てく
る。
 丈の短いバスローブを着てはいたが、腰の紐は縛らずにダラリと下げ、息子の前でも平気で恥部をさ
らす。
「ちゃんと着ろよ」
 目を反らしてはき捨てたサイドルに、冷蔵庫からビールを抜き取りながら母親が笑う。
「恥ずかしがることはないだろう? おまえはここから出てきたんだから」
 かえってバスローブの裾を開いてみせる姿に、吐き気すら感じて顔をしかめる。
 そのサイドルの後ろに寝転んだ母親の体の重みでベッドが揺れる。
「サイドルは元気かい?」
「………ああ」
「あんたが育ててるんだ。偉いねぇ」
 お湯にあたって高くなった体温の手が、サンドラの背中に触れる。
「あの子はわたしに似てたけど、あんたは父親似だね」
「ハッ。あんたに売春させて金かせがせて、最後は若い女と逃げた男?」
 顔も知らず、意味も分からずに怯える子どもに悪態と愚痴の中で聞かせつづけた父親の存在。
 サンドラの背中に触れていた手が一瞬動きを止めたが、すぐに開き直ったようにビールを飲み干して
サンドラの背中に体を押し付ける。
「そう。ろくでなしで暴力まで振るうとんでもない男だったよ。けどアッチの方は最高にうまかったね」
 耳元から香るビール交じりの息に閉口していたサンドラだったが、股間に伸びた母親の手に慌てて立
ち上がった。
「なにしやがる、てめぇ! 俺はおまえの息子で夫じゃねぇ」
「そんなことは言われなくても分かっているさ。あの男よりも若くて活きがいいってことも」
 起き上がった母親の肩からバスローブが滑り落ち、かつての姿よりも衰え下がった乳房が露わになる。
 たとえ裸を見せられようが、欲情するわけがない。あれは母親であって、あの乳房も自分が赤ん坊の
頃に乳を飲んだ乳房なのだ。女ではない。母親なのだ。
「てめぇは男ならなんでもいいのか。実の息子にでも欲情するのか」
「息子息子って、もう十年も会ってなかったんだ。その間に子どもから大人に、顔つきも体つきも変わ
っている。もう初対面の人間ってなもんだ。それに、どうしてわたしがこんなに苦労してると思ってん
だい。あんただろ? あの客の男を殺しておいて。分かってんだよ。あんただってあの男に体許して金
貰ったんだろ? そんで殺した」
 かつて自分を犯そうとして圧し掛かってきた男の重みや体臭を思い出し、喉元に吐き気が湧きあがる。
 初めて人を包丁で切り裂いた。自分を痛めつけた男のいちもつを切り取ってやったのだ。
「あんたのせいでわたしはどんなに苦労したと思ってんだい。あそこにいることもできなくなった。そ
の上、まともに客も取れなくなった。みんなあんたのせいだよ。せめてわたしを捨てたあの男のかわり
にうずいた体を慰めることくらいしてくれてもいいんじゃないかい?」
 母親の妄執がヘビのように体に纏わりつき、サンドラの体を絡めとっていく。
 震えて動けない体に舌舐めづりした飢えたヘビが、絡みつく。
 ベッドの上から立ち上がった母親の体からバスローブが落ち、やせ衰えた女の裸が目にはいる。
 ぎゅっと目をつぶったサンドラの体に腕を回した母親が、ヘビのように冷たい舌でサイドルの頬を舐
め上げる。
「そんなに緊張しなくても大丈夫。こっちはプロなんだから」
 ベッドに押し倒され、シャツの裾から入り込んだ手に戦慄し、ズボンの中に割り込んだ指の動きに声
を上げる。
 快感はない。ただ自分を支配する恐怖に肌が粟立つ。
 萎えたまま反応しない体に苛立ちを見せながら、母親が罵倒の言葉を吐く。
「若いくせに勃ちもしねぇのか。え? そんなにわたしの体が醜いっていいたいのかい? おまえがダ
メならサイドルだって構わないよ!」
 涙さえ浮かべて震えていたサンドラだったが、その言葉にカっと目を見開くと叫んだ。
「それはさせない。サイドルに手は出すな!」
 そして自分の上から母親を突き飛ばすと、自分の手で萎えたままのものをしごき始めた。
 目を閉じ、痛いほどの摩擦に唇を噛みしめる。
 充血させれば勃つはずだ。ただの生理反応でいいから勃て!
 やがて手の中で体積を増やした自分のものに、ベッドに後ろ手をついて倒れこんでいた母親を押し倒
す。
「そんなにやりてぇなら、さっさとやってやる」
 それがサンドラの最初で最後の女の体だった。
 自分の下で悶える姿に吐き気を覚え、殺してやりたい憎しみを胸の内でたぎらせ、ぬめる体液の感覚
に恐怖した。
 それがサンドラの感じた全てだった。


 寝入った母親の顔を見下ろし、マクラを手にとる。
「最低のアバズレだったよ、あんたは」
 そしてマクラを母親の顔に力いっぱい押し付ける。
 酸欠に陥って目を覚まし、力の限りに暴れる体を力でねじ伏せる。
 やがて抵抗をやめた母親の体を見下ろし、サンドラはマクラをその顔に残したまま立ち去った。


 あれからサンドラの体も心も、壊れて正常には働かない。
 ただサイドルだけが、人間の心を取り戻させてくれる存在だった。自分が体をはってまもってきた宝
物だから。
 二人の住むアパートのドアの鍵を開ける。
 ベッドにはサイドルが布団の中に丸まりこんでできた山がみえる。
 あの日、母親を殺して帰った日をフラッシュバックで見るかのように感じるほど、同じ光景だった。
「サイドル」
 弟の眠るベッドの枕元に腰を下ろし、声をかける。
 モゾモゾと動いた布団から、やがて寝ぼけた顔のサイドルが顔を見せる。
「サンドラ……今帰ってきたの?」
「ああ」
「昨日のサンドラの分の夕飯は冷蔵庫に入ってるから、ちゃんと片付けろよ」
 半分目が閉じた状態で言いたいことだけ言って、再び寝息を立て始めた弟の頬にサンドラが唇を触れ
させる。
「………」
 それを不快そうに寝返りをうって避けたサイドルだったが、かわりに布団から出した手でサンドラの
手を握る。
 あの日よりも、骨ばって大きくなった弟の手だったが、温かさは変わらなかった。
 震える体を引きずって帰り、眠っていた弟を抱き起こしたサンドラの腕の中で、サイドルはじっと息
をひそめて兄の様子を伺っていた。
 そして何一つ聞かずにその背中を抱きしめてくれたのだ。
 そのまま手を握って狭い布団で一緒に眠りにつくまで、一言も発しないままに。
 あの日から、二人だけの家族で生きてきた。
 サンドラにとって、サイドルだけがこの世で生きている命であり、価値だった。
「サンドラ、コーヒー飲みたい」
「俺はおまえの僕じゃない」
「兄ちゃんだろ」
 珍しく兄という言葉を発してサイドルが目を閉じたままほほえむ。
「お願い」
 その平和ボケした顔に舌打ちしたサンドラだったが、立ち上がるとキッチンに向う。
「お子様なおまえのコーヒーはミルクたっぶりだったな」
「ミルク8に、コーヒー2」
「そんなのはコーヒーじゃねぇ」
 ぶつくさと文句をいうサンドラの顔には、だが笑みが浮んでいた。
 そしてベッドの中からそれを見守るサイドルの顔にも。
 部屋の中を、芳しいコーヒーの芳香が漂っていた。








                               〈 了 〉





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