第四十一話



 テレビの中からクレアの声がしていた。
『事故や脳内出血などの病気によって脳の神経が傷ついた場合、今までその治療法はありませんでした。
もちろんリハビリによってある程度の機能回復はあったとしても、それは多大なる苦労の末に、新たな
神経網を構築したに過ぎないのです。失った神経は、決して戻ってこない。記憶もまた。
 でも、わたしの開発したこのナーブリバースは、失った神経網を回復することを可能にします』
「クレアカッコつけすぎだろ」
 ソファーに座ってテレビを見ていたジーナが、鼻で笑いながら青い薬の入ったチューブを記者たちの
前にかざしてみせるクレアを見つめる。
 中継で撮られているこの生の映像は、たった今隣の部屋で撮られ、全米に流されているものだった。
 公表しよう。
 そう言ったのはヘイワード議員だった。
 無事にエリザベスを取り戻し、穏かな顔で眠っている孫娘を見たあとの決意だった。
 公表すればヘイワード議員自身への追及も避けようがなかった。
 エリザベスを盾にとられていた結果とはいえ、海外へのナーブリバース密輸入に手を貸していたのだ
から。
 それでもこれからエリザベスが取り戻した人生を楽しめるように、ナーブリバースの存在を公式のも
のとすることで、人生を取り戻せる人がいるのだとしたら、それを自分の保身のために隠すべきではな
い。そして、海外に流れたナーブリバースの使い道にも懸念があった。消えたケヴィンとともに。
『先日起きた政府の極秘研究機関での事故とも関係があるとの情報を我々は入手していますが』
 記者の質問が飛ぶ。
『はい。残念ながら、悪用しようという意図のもとに、ナーブリバースはわたしの手を離れ、卑劣な実
験が行われていたようです。事故に先立って暗殺されたポートマン議員もこの実験の被害者です』
 記者たちのざわめきが、隣りの部屋とテレビの中から同時に聞こえてくる。
「おお、驚いてる驚いてる」
 ジーナが嬉しそうに笑いながら手を叩く。
 その姿を横目に見ながら、サイドルはテレビの前を離れると庭へと出て行った。
 夏の景色が一瞬、強い太陽光の下で白色に脱色されたように見える。
 だが次第に強い陽射しにも目が慣れ、鮮やかな緑の庭園を見渡す。
 緑と白の調和よく組み合わされたホワイトガーデンの一角にある東屋。
 そこに車椅子の上に座るエリザベスの姿があった。
 景色に見とれているのでもなく、うつむいたエリザベスがいた。
「エリザベス」
 後ろから声をかけたサイドルに、エリザベスがビクッと肩をすくめる。
「ごめん、驚かしちゃったね」
 サイドルがエリザベスの前に回りこんで言うと、何かを背中に隠し、気まずそうな笑みを浮かべてみ
せる。
 今日は水色のリボンとワンピースを着たエリザベスだったが、もう人形じみた美しさではなく、少し
のいたずら心を覗かせる快活な女の子に戻っていた。
 髪から少し浮いてしまったリボンに手を伸ばし、縛りなおしてやれば、目のすぐ前にあるサイドルの
腕に恥ずかしげに身をもじもじさせる。
「かわいいよ、リボン。すごく似合ってる」
「………本当?」
 はにかんだ笑みを見せて笑ったエリザベスだったが、なかなか背中に回した手は出してはくれなかっ
た。
 サイドルはテーブルの上に目を落とした。
 そこにあるのは随分とかわいらしいクマのイラストつきの裁縫セットだった。
 オレンジ色の糸を使っているのか、糸巻きからオレンジ色の糸が長く伸びていた。
「何か縫ってるの?」
 サイドルの問いに、エリザベスの顔がうっと詰まる。
 そしてなんとかいい言い逃れはないものかと視線を右往左往させたあとで、仕方なく頷いた。
 背中から出された手には、やはりオレンジ色の糸の通された針があった。そして片方の手に握られて
いたのは、あのサイドルが買ってやったウサギの人形だった。
「ニンジンが取れちゃったみたいなの。でもどこを探してもニンジンがなくて、仕方なくフェルトで作
ったの。でもこんなにヘタクソ」
 恥ずかしそうに俯いたエリザベスの手からウサギの人形を受け取りながら、サイドルが微笑む。
「そうかな? おいしそうなニンジンに見えるよ。ウサギさんも早く食べたいよぉって」
 サイドルは顔の前にウサギの人形をかざすと、その手を動かしてニンジンを食べたそうにするウサギ
を演じさせてやる。
「それともあんまりにもおいしそうだから、ぼくが代わりに食べちゃおうかな?」
 ウサギを自分の方に向かせ、ニンジンをウサギの背中に回させる。
「やめてよ、これはエリザベスがわたしのために作ってくれたニンジンなんだから、君にはやらないよ」
 サイドルのヘタクソな腹話術に、エリザベスが笑顔を見せる。
「ほら、ウサギさんにニンジンを持たせて上げなきゃ」
 ウサギを差し出すと、エリザベスがうんと頷く。
 そしてせっせと危なっかしい手付きで針を動かし始める。
 その真剣な顔を見つめながら、サイドルがそっと背後の庭園を見渡した。
 何年この地にその根を下ろしているのかと思わせる立派な樹の幹の向こうに、隠れているつもりなの
か、トニーの背中が見えていた。
 心配でついて来たのだろうか?
 サイドルの口からクスリと笑いがもれる。
 エリザベスの記憶は、サイドルとクレアの手によって構築し直されていた。誘拐という恐ろしい記憶
は抜きにして。
 だがどこにその記憶を隠していたのか、エリザベスはウサギの人形のこともサイドルのことも覚えて
いた。ただ曖昧に迷子になったときに助けてくれて、人形を買ってくれたお兄ちゃんとしてではあった
が。
 こうして人が記憶を弄くってやろうが、本来の記憶を人は全て捨ててしまえるわけではないのね。大
切な記憶は、何枚も何枚も大切な写真を焼き増しするように、何箇所にも分けて脳の宝箱に仕舞ってあ
るものなのよ。
 クレアの言葉が甦る。
 ならば、エリザベスもいつか誘拐の記憶を取り戻すことがあるかもしれない。
 それでも、自分の生きてきた人生の記録として、それはなくしてはならないものなのかもしれない。
その経験を通して、エリザベスと今こうしている自分との絆もできたのだから。
 エリザベスが雑多な縫い目が見える人形をサイドルの顔の前にかざし、それから愛しそうに抱きしめ
る。
「ミス・スノウはわたしの大親友」
 エリザベスがウサギの腹に顔をうずめて言う。
「そしておにいちゃんは、わたしの大好きな人」
 ちろっと目を覗かせるエリザベスの顔が、赤く染まっていた。
 こんなに小さな恋人をもったことはないのだけれど。
 サイドルは内心でそう思いつつ、エリザベルを胸の中に抱きしめた。
「ぼくもエリザベスが大好きだよ。だからずっと側にいるから」
「うん」
 顔を上げれば、庭の向こうから呆れた顔でこちらを見ているトニーと目があう。
 その口が「犯罪だぞ!」と言っている。
 サイドルはトニーに肩をすくめて見せると、美しい庭園の中の空気を胸の中に吸い込んだ。
 世界がここと同じくらいに美しければいいのに。
 そうしたら、ナーブリバースなんて必要ないのかもしれない。
 でも、ナーブリバースを必要とする人がいるのだとしたら、またそれは、自分の存在価値にもなって
いくのだ。
 だったら、その価値を証明してやりたい。
 呆れた顔で首を振り、背を向けてトニーが庭から去っていく。
 その頭の上を一匹の蝶が戯れながら飛んでいた。
 トニーの頭を叩くようにして飛んでいる姿が、まるでサンドラが蝶になってやってきたかのようだっ
た。
 真っ黒なアゲハチョウ。
 空はどこまでも澄み渡った青だった。






                               〈 了 〉





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