第三十九話



 赤い太陽が険しい山並みの向こうに落ちていこうとしていた。
 その太陽が纏っていた朱の色があたり一面を赤く染めていく。まるで太陽が断末魔を上げながら流し
ていく血の色のようだ。
 いや、自分の体から溢れる愛情を色に変えて人類の全てに差し出しているのか。
 サイドルは庭園の中に置かれたイスに座りながら、夕日を見つめて思っていた。
 自分の中に狂ってしまった感覚と、今までどおりの自分本来の感覚とが入り乱れ、混乱へと引きずっ
ていく。
 今までには一度として、夕日を見て断末魔などと思ったことはないのだから。
「サイドル」
 声のした方を見なくとも、それが誰であるのかはわかっていた。トニーだ。
 分かっていたからこそ、何の反応も見せない自分の目の前に、トニーが湯気を上げるカップを差し出
す。
「ほら、寒いんだから飲んでおけ」
 柔らかな香りを上げるミルクの湯気が鼻先をくすぐる。
 そのカップを受け取ってトニーの方を見れば、自分は純白のカップに満たしたコーヒーを、その顔に
夕日のオレンジ色の光を受けて眩しそうに目をすがめながら飲んでいた。
「なんで自分はカッコつけてコーヒーなのさ」
「あ? 別にカッコつけてるわけじゃないさ。俺がホットミルクなんて飲んでるところ想像できるか?」
「いや、できなきけど」
 サイドルは自分が子ども扱いされた気分で水色のカップの中でゆれる白いミルクを見つめたが、同時
にトニーが自分の好みを今でも覚えていてくれたことが嬉しかった。
 熱そうなミルクを慎重にすする。途端に口の中に広がった甘い味に、ホっとため息が出る。
 強張っていた顔の筋肉も、自然と緩んでいく。
「さっきは悪かったな。目覚めたばかりのお前を混乱させるようなことを言って」
 相変わらず遠くを見つめる目をしたまま、トニーが言う。
「トニーが謝ることじゃないよ。それに、ぼくのほうがトニーにお礼を言わないと。トニーがぼくを助
けてくれたんだ。命の恩人」
 サイドルは目の前にあったトニーの手を握ると、自分を見下ろしているその顔を見上げた。
「ありがとう」
「どういたしまして。結構大変な思いしたんだ。これでも」
 トニーは苦笑を浮かべると、サイドルの隣りの椅子に腰を下ろした。
「よっこいしょ」
 そう掛け声をかけ、その上らしくないおかしな姿勢で腰に手を当てて腰を下ろす。
「どうしたの? ジジくさいよ」
「……筋肉痛なんだ、極度の」
「何したの?」
「だから、おまえを助けに行ってだな………」
 トニーはつい数日前のおこなった無謀とも思える救出作戦の一部始終を思い返して、どう説明したも
のかと口をつぐんだ。
「まあ、俺もよくあの無謀なサンドラの作戦に乗ったもんだと、今では不思議に思うよ」
 ため息混じりにいれば、サイドルが笑みをこぼしながら自分の顔を見つめていた。
「サンドラが計画したことなの?」
「そう。………サンドラの話しても大丈夫なのか?」
「うん。今はちゃんと分かってるから。サンドラが死んだって。でも、きっと悶え苦しんでいったわけ
じゃないから。ぼくの手の中で笑いながら死んでったよ。あいつらしく」
 サイドルは最後に見た兄の顔を思い出して微笑んだ。
「サンドラが死んだことを、どう受け入れていいのかは分からないんだ。でも、よかったのかもしれな
い。ぼくとサンドラが関係を修復するチャンスは他にはなかったのかもしれないから」
 トニーの、悲痛さを滲ませて自分を真っ直ぐにみる瞳に照れ笑いを浮かべながら、サイドルが語る。
「前はさ、誰に聞かれてもはっきりと答えられたんだ。サンドラをどう思うっていわれたら、最悪の死
神だって。でも、今は違う。ちゃんと言える。言いたかったことが。大好きなぼくの兄ちゃんだって」
 涙が零れることはなかった。代わりに心にあるのは最後に兄が残していってくれた、自分を命をかけ
てでも守ろうとしてくれた愛情の結晶だった。たった一人でも自分を愛してくれた人がいるという、か
けがえのない宝物。
「それに、あいつはぼくから親友を奪った奴だったのに、その親友と再会して、さらにもと深い関係を
築かせてくれたし」
 ギュッと握られた手に、それが自分のことだと悟ったトニーがその手を握り返す。
「そうさ。あいつは死神から、愛のキューピットに変わったんだよ」
「キューピット?」
 言いながら、サイドルは頭の中で空を飛ぶ天使の顔をしたサンドラを思い浮かべ、思わず吹き出した。
「似合わない」
「やっぱりあいつには、愛を告げ知らせるラッパより、人の首を刈る大鎌のほうがお似合いか」
 二人の笑い声が庭の中を駆けて行く。
 その声を聞きつけた一人の人が、声をかけて来た。
「やあ、随分よくなったようだね」
 銀の髪を上品に撫でつけた老紳士がそこにいた。車椅子を押しながら、夕方の散歩を楽しむ様子で。
 サイドルが車椅子に目を向ける。
 そこには光の消えた目で等身大の人形のように座るエリザベスがいた。



「エリザベス?」
 イスから立ち上がって声をかけたサイドルに、だがエリザベスは眉一つ動かしてみせることはなかっ
た。
 車椅子の前まで歩いていき、その前に身を屈める。
 すぐ目の前に顔を寄せても、生きていることを確認したくなるほどに、確かな意思というものが感じ
取ることができなかった。
 だが息をする胸は上下し、時折瞬きをする瞼の上で、長いまつげが揺れる。
「これがエリザベス……ぼくの知ってるエリザベスじゃ………」
 立ち上がって呆然というサイドルに、老紳士が笑顔で手を差し出した。
「はじめましてだね、サイドルくん。わたしはエリザベスの祖父、ヘイワードだ」
 サイドルは条件反射のように差し出された手を握りながら、記憶を探る。ヘイワード。上院議員だ。
そして同時に、サンドラが青い薬、ナーブリバースとの関係を疑っていた相手だった。
「君がエリザベスと接触していた間は、まだ彼女の中にナーブリバースの効力が残っていたときだった
んだろうね。だから自我が保てていた。だが、定期的な投与なくしてナーブリバースで獲得した神経網
は保てないのだよ」
 その衝撃の真実を聞きながら、サイドルは愛しげに孫の髪を撫でるヘイワードを見つめていた。
「定期的投与を?」
 その声が僅かに震える。
 自分の脳内にある神経網もまた、クレアによって投与されたナーブリバースによって形成されたもの
であることは、サイドルにも分かっていた。自分もまた、ナーブリバースの投与を止めた時点で、目の
前のエリザベスのようになるということなのだ。
「君の目にしたエリザベスはどんな子だったかい?」
 不意に尋ねられ、サイドルは自分の中の懸念から意識を戻し、美しく着飾ったエリザベスを見下ろし
た。
「とても、明るくて気丈な女の子でした。誘拐という恐ろしい目にあいながらも、怯えてはいても、ま
っすぐにぼくの目を見て話をしてくれた。お人形遊びもしたし」
 サイドルが買ってやったウサギの人形。
 裕福な家の子どもが持つには、貧相でチンケなぬいぐるみだったかもしれないが、エリザベスは喜ん
でそれを抱きしめていた。
「それはこの人形かい?」
 ヘイワードがエリザベスの手にある人形を示していった。
 それは、確かにサイドルが買い与えた人形と同じ形だった。あの時よりも黒ずんでしまうほどに汚れ、
うさぎが持っていたはずのニンジンがもげてなくなってしまってはいたが。
「エリザベスは、どうしてかこの人形を離さなくてね。もっときれいな人形はたくさんあるというのに。
それだけ、君との間にあった特別な思いがあったのかもしれないな」
 ヘイワードはそう言うと、サイドルをエリザベスの横に呼び、その手を握らせた。
「エリザベス、聞こえるかい? おまえの大好きなお兄ちゃんが来てくれたよ。おまえにその人形を買
ってくれた人なんだろう? それに、おまえのお気に入りだったバイオリニストのトニーまで目の前に
いてくれる。おまえは幸せ者だぞ」
 サイドルも、手の中の力のこもらない冷たいエリザベスの手を握ると、人形のような顔に近づいてさ
さやいた。
「エリザベス。遅くなってしまってごめんね。でも会いにきたよ。また前みたいに元気に笑って、ぼく
のダメなところを叱りながら教えてよ」
 サイドルは小さく暗闇の中で膝を抱えて震えているエリザベスを思い、両腕でその体を抱きしめた。
 コツンと胸に当るエリザベスの頭。
 そこから伝わってくるエリザベスの声を聞こうと懸命に耳を傾ける。
「サイドルくん。どうかエリザベスを救って欲しい」
 ヘイワードの声に、サイドルが顔だけを向けた。
「救う?」
「彼女を精神の闇から連れ出せるのは、君だけなんだ。ナーブリバースによって人の精神の中にまで入
り込める能力を身につけた君だけが、エリザベスを救える」
 サイドルの中で、ヘイワードの言葉が胸に落ちる。
 あの、実験と称して行っていたことをさしているのだということは分かった。できれば二度と触れた
くなかったあの経験を、もう一度しろというのだ。
 思い出そうとしても、精神が目を背けたくなる。
 人の抱える複雑に絡まり、狂気に歪んだ精神の世界を、さらにサイドルのささやきで闇へと追いやり、
地獄の世界へと変容させていく実験。
 自分までその地獄に引きずり込まれそうになる恐怖は、体感したものでなければわからないはずだ。
 サイドルは胸の中で力なくもたれ掛かるエリザベスを見下ろした。
 彼女の精神もまた、いまや闇に包まれていることだろう。消えていく自我に埋もれて発狂の瀬戸際に
いるのかもしれない。あるいは、すでに正気を手放して荒れ狂う嵐とかした精神の中で暴れているのか
もしれない。あるいは……。
 それでもと、サイドルはエリザベスを車椅子にきちんと座らせると、その顔を見つめた。
 もし彼女に自分だけが笑顔を取り戻せる力があるのだとしたら、力になりたいと思った。サンドラが
命を掛けて自分に与えてくれた命を、役にたつ方法で使えるなら、それが自分を犠牲にする仕方であっ
たとしても、そう使いたい。
 それがエリザベスのためであるのなら、尚のこと。
「……わかりました。ぼくにできることなら、なんでもします」
 サイドルは立ち上がるとヘイワードに告げた。
 トニーが不満と心配を織り交ぜた複雑な顔で、その決定が正しいのかと問いかけながら見つめてくる。
 それにサイドルは頷くと、山の向こうに身を沈めた太陽を見つめた。
 生きとしいける全てのものに、生きる力を与える太陽。
 自分は、たとえ断末魔を上げることになろうとも、あの太陽のように人に力を与える存在でありたい
とサイドルは思った。




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