第三十八話



 穏かな気持ちで目が醒めていく。
 いつも剥き出しの裸で世界と一人戦っている気分で毎日を生きていた。だが、今は隣りに立って一緒
に歩こうと言ってくれる人がいる気がした。
 自分の手を握っていてくれる人。
 その顔は、一瞬サンドラに見えた。だが、霞む目の向こうにはっきりと見えたのは、かつての親友ト
ニーの顔だった。
 疲れた顔に無精ひげを浮かせ、呆然と虚空を見つめる顔を下から見上げ、サイドルは自然と笑みが浮
ぶのを感じた。
「トニー」
 トニーがその声に反応して自分を見下ろす。
 そして確かに自分を見ているその瞳をじっと見つめ、次の瞬間にやっと安堵したように大きく息をも
らした。
「やっと目を覚ましたか」
 自分を見下ろして微笑むその目の下を、色濃い隈が縁取っていた。
「サイドル。おまえ、自分の身になにが起きたのか覚えているか?」
 どこか酔ったような酩酊感が頭の中に居座り、サイドルは寝ぼけた顔で目をしばたかせた。
「ぼくの身に?」
 ただトニーの言葉の後を継いで出た言葉だった。
 だがその自分の言葉が引き金であったかのように、頭の中で再生ボタンを押すことを望んで差し出さ
れる記憶があった。
 ありえないくらいに優しいサンドラの笑顔。
「……サンドラは?」
 あの自分の恐怖だけを与える、支配欲を剥き出しにした兄の顔が、今は自分を守るナイトであるかの
ように心の中に存在していた。
 トニーの目が、言いにくいことを言いよどむ気配で揺れる。
「サンドラは、……死んだ」
「死んだ?」
 そんなはずは。あんな自ら死神だといってはばからないような男がなぜ。
 だが同時にそれが事実であると自分ではわかっていた。
 頭の中で再生される映像がある。硬い実験台のベットの上で力なく身を横たえているサンドラ。その
目や鼻の穴からドロリと血が流れていた。
 その体に穴を空ける弾丸。銃弾の威力に跳ねる死した体。
 そして自分に向けて構えられた銃口の闇色の穴。
「……うう!」
 サイドルは胸が苦しくなるほどの恐怖感に襲われて胸を掻き毟った。
「サイドル!」
 トニーがベットの中で身を縮めるサイドルの肩をつかむと、ナースコールに手を伸ばす。
「トニー! サンドラが、サンドラが銃で撃たれて。……ああ、あんなに血が……死んじゃう。サンド
ラが死んじゃう。逃げろ、サンドラ!!」
 ベットの上であらぬ虚空に手を伸ばし、サイドルが叫ぶ。
 その目から滂沱の涙が流れ落ちていた。
 顔中を涙と鼻水で濡らしながら、あられもなく泣き叫ぶ。
 真っ暗な部屋の中で、精神を絶望の淵へと追い込み投げ落とす言葉を投げかけ続けてる自分の姿も見
えた。
 目の前をちらつく青い薬の満たされたチューブ。
 毎日のように自分の腕の中に流し込まれる薬と、その後に続いた無慈悲で無感情な自分へと変化して
いく恐怖。
 その世界に、自分を危険にさらして飛び込んできたサンドラ。
「ああ……ぼくが殺したんだ! ぼくがサンドラを!!」
「違う! サンドラはおまえを救いに行ったんだ。おまえが殺したんじゃない!
それがあいつの望みだったんだ!」
 聞こえているのか分からないほどに錯乱し、暴れるサイドルをトニーが抱き寄せる。
 部屋に飛び込んできた看護師や医師たちにサイドルが取り押さえられ、鎮静剤が投与される。
 何もすることができずに後退さったトニーは、部屋の壁にトンと背中を打ちつけ、自分の無力さにた
め息をついた。
「トニー」
 医師たちとともに部屋に入ってきたクレアとジーナがトニーの横に立つと、泣き叫ぶサイドルを見つ
め、鎮痛な面持ちで口を閉ざす。
「……わたしは、なんて残酷な運命を彼に与えてしまったの………」
 クレアが呟く。
 じっとまっすぐにサイドルを見つめる視線の中に、クレアの苦悩が滲んでいた。
「あんたは、このあとの処理をどうするつもりなんだ?」
 トニーに問われ、クレアは前を向いたまま口を閉ざし、何も答えなかった。
 隣りに立つジーナに見上げられ、トニーは仕方ないと肩をすくめる。
 火災発生で表ざたになった政府の秘密研究所の存在。そしてそこで発見されたいくつもの銃殺体。
 いまや毎日のトップニュースで報道されている話題だった。
 トニーが火災を起こし、そのトニーに後を託したサンドラの死体もその場で発見されている。
 だが捜査の手は伸びていない。
 もちろんヘイワード議員の力で抑えられている部分もあるのかもしれないが、全てをうやむやにしよ
うとする政府の情報隠しで犯人であるトニーをも覆い隠しているのも事実であった。
 全てが記された情報は、サイドルの手の中にある。
 それを公開されることを恐れて、こちらに手も足もでないというのが、政府側の正直なところであろ
う。
 その記録の中には当然クレアの名前がある。元夫ケヴィンの名前も。
「サイドルが望むとおりに」
 クレアがそう言い残して部屋を後にする。
 部屋の中では鎮静剤で興奮を抑えられて静かになったサイドルのすすり泣きの声だけが聞こえていた。




 ひんやりと冷えた空気が好きだった。
 クレアは実験室のテーブルの上に氷よりも尚冷たい顔で並ぶ試験管やフラスコを、丁寧に並べ替えな
がら、心の中の葛藤と戦っていた。
 かつて歴史の中で名を残す科学者たちの辿った苦悩なのかもしれない。
 人は新たな発見を求めて思索し、研究を重ねる。
 自分の知りえない、人類未踏の地を捜し求め、誰も見たことのない世界へ第一歩を刻む人間になろう
と必死に足掻く。
 そう。自分もその一人であった。そして、無条件に信じていたのだ。その新世界が美しい世界である
はずだと。そこにいけば全てが解決すると純粋に信じる子供のように。
 ナーブリバースという新たな可能性を自分は見つけ出した。自分の息子を救うために。
 そのときに気分は、もしかしたらダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルに通じるものがあ
るのかもしれない。最初は工事の効率化のために作り出したダイナマイト。だが同時に、この過剰な破
壊力を持つ武器ゆえに、戦争がなくなると考えたもしたのだった。
 しかし現実は、彼の予想を大いに覆すものでしかなかった。人は人間としてあるべき一線を越え、破
壊に破壊を尽くし、人をただの肉隗に変える爆弾を使い続けた。
 自分も人々の苦悩を救うために、研究に自分の持つもの全てを投じてきたのだ。だが、その発見によ
ってもたらされたのは、人の心を支配して操ろうとする、悪意に満ちた支配欲だった。
「ナーブリバースを作りあげたことは……間違いだったの?」
 丸イスに座り込み、頭を抱え込む。
 涙も湧いてはこなかった。ただ絶え間なく自分を責める良心の呵責が続くだけだった。
「全てをなかったことには出来ない。無視を決め込んでうやむやにすることが最もしてはならないこと」
 ジーナの声に、頭を抱えたままクレアが口の端に笑みを浮かべる。
「言われなくても分かってるわよ」
「そうよね」
 ジーナがクレアの側まで歩いてくると、机に寄りかかって立った。
 そして何も言わずに、ただ側に居続けた。
「全てを明らかにすることが、正義なのかしら?」
「どうかしらね? わたしには分からない。でも、明らかにすることで、良心の呵責からは解放されて
自分が楽になるかもしれない」
「意地悪な意見をありがとう」
 クレアが笑いながら顔を上げる。
 その顔にも、何日も眠ることを妨げられた疲れと苦しさが浮んでいた。
 ジーナはその顔に笑いかけると、そっとクレアの髪に手を置いた。そして優しくこどもをあやすよう
に撫で始める。
「ナーブリバースは、全てを公開した時点で破棄される。そうなったら、救えるはずの命の可能性を摘
み取ってしまう。今この屋敷にいるエリザベスの可能性も」
 クレアはエリザベスの治療のためにナーブリバースの製造に成功していた。この数日をそのためだけ
に費やしていたといっても過言でない。眠ること、食べることの全ての時間を削って。
 だが、再び手にした薬を目の前に、葛藤が自分を切り刻み始めるのだった。
 ここにナーブリバースがある限り、あらゆる思惑がこの薬を狙って蠢き始める。
「エリザベスを救うには、この薬と、サイドルの協力が必要。だから、彼がそれをのぞむのなら、ナー
ブリバースを破棄させない」
 胸の中で淀んでいた決意を、口にする。
 そのクレアの言葉に、ジーナはただ笑顔で頷いた。




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