第三十四話



「一階フロアー制圧!」
 無線から入った報告に、トニーは一瞬眉を顰めた。
 簡単過ぎる。
 もちろん敵も無抵抗ではなく、確実に兵器を投入して応戦してくるのだが、あちらは本職の兵士であ
り、こちらはただの寄せ集めの不良少年の集団に過ぎない。
 いくら武器を携帯しているからとは言っても、そう簡単に地下三階から1階までを制圧できるものだ
ろうか?
「それ以上深追いせずに一時停止。倒した敵の装備を奪って物資を補充。無線を見つけたら連絡しろ」
「了解」
 無線の向こうの声が応じて通信が途切れる。
 トニー自身は垂直に切り立ってダクトの中を、三人の仲間とともにで登っているところだった。
 うっすらと覆う埃の層と蜘蛛の巣で顔をしかめながらも、サンドラが言っていた配電室への道を急い
でいた。
 施設の中枢頭脳である地下のスーパーコンピューター、配電室、そして実験室とは中心部に保護され、
普通のルートでは侵入することが難しい。
 それゆえに、地下の排気口から垂直に配電室へと上がっていき、そこで爆破を起す。
 そうすれば一時的に制限されるネットワークの使用につけいる隙を見つけられる。その上、うまくす
れば様子を見に来る兵士を使って上部へ上がる道が開ける。
「へ、簡単に言ってくれるけどよ」
 何度目かの休憩で、タバコに火をつけると、すでに震えが来ている腕に闇の中で赤い火が揺れる。
「トニー、あんたはもうこの世界を引退した身だがら、こういう荒事は向いてないんじゃねえんか?」
 足の下からした声に、トニーが「うるせえ!」と一喝してから、それでも自分でもその言葉に納得し
たのか、ため息一つついた後に苦笑する。
「おまえらはまだまだ平気だってか?」
「まあ、こんな垂直な壁のぼりをしたことはねえが、結構おもしろいぜ!」
「俺はチビの頃から木に登って生活してたから全然平気」
「てめえは人間じゃなくて、猿なんだから、口を挟むなっての」
「猿じゃねえ! おまえらと違って運動神経が抜群なんだって!」
「うっわ! 猿がキーキーとうるせえや」
 足元の喧喧諤諤の言い合いに苦笑しつつ、トニーがたばこの灰を下に落とす。
「おわ! トニー、てめえタバコの火を落とすんじゃねえよ。慌てたおいらが落ちちまったらどうする
んだい!」
「そしたらおまえは10メートル下のコンクリの上で潰れたトマト! ブチャーってな」
 トニーはすでに見えなくなっている遥か下の上り口を見下ろし、ため息をついた。
 自分の足と手には吸盤の吸い付きが付いている。
「こんなもので、スパイダーマンよろしく壁登れってんだから、相変わらずサンドラはめちゃくちゃだ
な」
 トニーは壁にタバコの先を押し付けて火を消すと、ポイっと下に向かって投げる。
「だから! トニー、止めろって言ってるの!!」
「火は消えてるよ」
「そんなに俺たちが潰れたトマトになるのが見てえのか!!」
 叫ぶ足の下のガキどもに、トニーが笑う。
「てめえらのトマトなんて、クソの役にもたたねえよ!」



「サンドラ?」
 目を瞑ったまま途端に顔色を悪くしたサンドラに、サイドルが駆け寄った。
 返り血を被った白いシャツを肌に纏わり付かせたサンドラに、恐る恐ると手を伸ばし、その腕に触れ
る。
 その途端に、サイドルは頭の中を通り過ぎながら引き釣り込もうとする光景に呼吸を乱して触れてい
た手を離した。
 開けていた目に元の血に塗れた原野が見える。
 足元には引きちぎれた腕が転がっていた。確かにこの光景も気持ちのいいものではない。
だが、今一瞬目にしてきた光景は、ここ以上になんとも言えなく自分の呼吸を奪うほどの違和感に満ち
ていた。
 あれは……。
 サイドルは惨たらしく転がる足元の腕を手に取る。
 思いがけない重さに両手でその腕を抱え上げ、唾を飲みながらもその細部を観察する。
 確かに人間の腕に見える。
 まだ暖かさのある肉に、弾力ある感触。断面に見える引きちぎれた血管に、断たれて飛び出した白い
骨。固まり始めた黒い血。
 その血がポタン粘りと重みを感じさせる音で、サイドルの足元の草に滴り落ちる。
 だがその胃液が戻りそうな光景も、ほんの少し頭の中でどこかの神経を組替えて見ようとすると、た
だの緑色の発光した線と線で描き出された構築体へと変化していく。
 その目でみた世界はただの闇の中のキューブであり、その中を無数の線が座標を取って結び合わせ、
物体を構築していた。
 リアルな肉としてそこにあるのはサンドラと自分のみ。
 だが先ほどの世界に恐怖を感じたのは、全てがその情報の固まりでしかない線で描かれた世界だった
からだ。自分さえも、目の前のサンドラでさえも。
 自分は、この世界でいつ消えても構わないただの情報に過ぎないのか?
「人間なんて、すべてが情報だろ?」
 不意にしたサンドラの声に、その顔を見上げる。
 その鼻からツーっと鼻血が流れ落ちる。
 その鼻血を手の甲で無造作に拭ったサンドラが、疲れた様子で平原の中に座り込む。
「まだ防壁がきっちりと組まれ過ぎている。トニーの爆破を待たないと」
 いっこうに止まる様子のない鼻血に、サンドラがイラついた様子で膝の間に血が流れるに任せて顔を
俯かせる。
 その眼前にハンカチを差し出しながら、サイドルもその横に座り込む。
「人間なんて情報ってどういうこと?」
 ハンカチで鼻を覆いながら、サンドラが笑う。
「ちょっくらカッコイイ話でもしてやろうかと思ったけど、こんな姿じゃ格好もつかねえな」
 年相応の笑顔で苦笑してみせたサンドラに、サイドルもその隣りにいて初めて安心感を覚えていた
。二人の間にこんな空気があったのは、ほんの子どもの頃だけだ。ともにいることの喜びを、暖かさを
感じられるのは。たとえそれがこんな血まみれの戦場の跡であっても。
「人間が、自分をただの情報ではない特別な存在だと思わせているのは何だ?」
 サンドラの問いかけに、サイドルが首を傾げる。
「……感情? 人には気持ちがある。ただ形を構築しただけの人形とは意識があるというレベルでもう、
まったく違う次元の存在でしょ?」
「ふん。意識ね。じゃあ、自分が自分であると感じている、この自分を肯定しているのは、自分の中の
どこだ?」
「……脳? 心かな?」
 小難しくなっていく話に、サンドラがお手上げだと首を振る。
「脳でも心でもいい。じゃあ、俺たちが感情というものを持っている一人格であるこの感覚は、どこか
神秘的な器官によって生み出されているのか? 体の中にある宇宙か? それとも人が生まれながらに
体の中に飼っている天使か?」
 昔ヤクを始めたころから、サンドラがさかんに読んでいる本があったのを思い出していた。
 そして同じ頃にサンドラが口にしていた言葉があったはずだ。
『俺が俺であるって証明はどこにあるんだろう?』
 あの頃のサイドルには、サンドラが言おうとしていることの意味が分からなかった。だから、ただ思
いつきで、『俺には見れば分かるけど』と言ったのだ。
 思えばあの頃から、サンドラに自分への締め付けが厳しくなってきた気がした。
 自分を唯一理解してくれている弟を、手放すわけにはいかない。自分を常に自分だと認めてくれるサ
イドルが。
 ヤクで変容していく感情に、サンドラが何か恐怖を感じとっていたのかもしれない。
「どうしてヤクが俺たちに幻覚を見せたり、トリップさせてくれると思う? それは脳内でもそっくり
な形をした物質が生成されているからさ。エンドルフィン、ノルアドレナリン。俺たちは、何かを見て、
結果、心が動かされ、何かを感じ取って感動したり、涙を流すを考えている。でも本当にそうなのか?
 人間なんて、脳内で生産されたホルモンに反応してるだけだ。何か感動的な再会をしたわけでもない
のに、ヤクを体に入れてやれば俺たちの体は興奮して涙を流したり、叫んだり、未知の快感を味わった
りする」
 ハンカチの血を確認しながら、サンドラが上目遣いで問い掛けてくる。
「快感に打ち震えろというプログラムでもあるエンドルフィンに、俺たち人間が反応しているだけにす
ぎない。ただの情報によって正確に動く、これまた人間という名のプログラム」
 そう言ってサンドラが一瞬で目の前の世界をやみ色のキューブへと変える。
 そこでは目の前にいるサンドラも、自分も、ただの線の集合体でしかなかった。
 その線が刻一刻とその座標を変えて、形を変えていく。
「なあ、俺たちはただの情報に過ぎないんだよ」
 語りかけてくる点と線のサンドラに、サイドルが手を伸ばす。
 そしてその世界に干渉をかけていく。
 握ったサンドラの腕から、赤く脈動する血管が心臓へと向かって伸びていく。そしてそれが全身へ
とめぐり、力強く拍動する心臓へと命の源である血液を循環させる。
「ねえ、サンドラ。今ぼくが握るこの手と、ぼくが左手に持っている腕、どこに違いがある?」
 足元に転がっていた腕を取上げ、サイドルが尋ねる。
「血が通ってるから否か」
「そう。ぼくたちは心臓が動いて血液が体を巡るときに生きていることができる。でも死とは、この心
臓がその動きを止めるだけのことなのかな? ぼくには違うように感じられる」
 サイドルは切断された腕を消すと、左手の上に一匹のネコを出現させた。
 茶色の毛と黒いブチの子猫。
「覚えてる? ぼくとサンドラで飼っていたマーヤ」
 見つけてきたのはサンドラだった。雨で濡れて弱っているところを二人で温め、妊娠しているネコの
ところでミルクを分けてもらえるように、捕まえては押さえつけた母ネコの腹でマーヤはネコの母乳を
飲む。そうやって子猫を育てたのだった。あの頃の毎日の日課といえば、自分たちの飯代を稼ぐことよ
りも、妊娠した腹のでかいネコを探すことだった。
「でも死んじゃったんだよね。あのときは二人で泣いたよね。ねえ、あのとき、マーヤの体の中から消
えたのは、心臓の鼓動の音だけだった? もっと大きなものが消えたのだとぼくは感じた。それはマー
ヤの希望だよ。きっと一緒にマーヤが歩いただろう街の景色、マーヤの出会ったかもしれない猫たち。
マーヤが作ったかもしれない子猫たち。ぼくやサンドラとのじゃれあい。遠くへ旅するマーヤ」
「それはお前の希望であって、マーヤの希望じゃない」
「そうだね。ぼくの希望だよ。死んで動かなくなったマーヤを見て、ぼくは頭では理解しようとしてた
よ。マーヤは死んだほうが楽だったに違いないって。この歪んだ世界で苦しんで生きていくよりも、お
いしいものも食べられたし、俺たちの腕の中で死ねるなんて、ラッキーじゃないかって。でもね、気持
ちがそれを受け入れてくれなかったんだよ。マーヤはそんな風に死んでいい存在なんかじゃなかったっ
て」
 完全に構築されたサイドルの顔から、涙が零れ落ちる。
「ぼくたちはね、ただ動く人形として生きているんじゃない。神様に命を貰った存在なんだ。命はただ
心臓を動かし、脳を活動させるだけのものじゃないんだよ。生きたいという意志、人を愛したいという

思い。そして希望を生み出すんだ」
 見上げたサイドルがサンドラに笑いかける。
「ほら、サンドラにだってある」
 ふと気づいたサンドラは、自分の眦から流れ落ちようとしている涙に気づき、顔を背けようとした。
 だがその頬を掴み、サイドルが笑いかける。
「サンドラ、認めなよ。サンドラがただの情報に過ぎないなら、どうしてそんなにぼくにこだわるのさ。
サンドラがいつだってサンドラでいることを確認してくれるぼくの存在がどうして必要だったの? ど
うしていつも側に置きたかったの? 白状しなよ。サンドラはぼくのことが好きでたまらないんだって」
 ふっと笑いかけたサイドルが、サンドラの頬にキスをする。
「兄ちゃん。いつも側にいてくれてありがとう。ぼくを守ってくれてありがとう」
 サイドルが首に腕を回して抱きつく。
 その耳元で、サンドラがおかしそうに笑い声を上げる。
「おまえは三歳のガキかってんだよ」
 そう言いつつもその声が涙声に変わっていく。
 片手がサイドルの背中をギュッと掴み、片手が涙を流す顔を覆う。
「……クソ。バカみたいじゃないか。俺がずっと待ってた言葉が、弟のありがとうだけだったなんて」
 声もなく涙を流すサンドラに、サイドルが笑みを浮かべる。
「いつも自分の気持ちに封をしてたんだね。だけど、本心をみつけたサンドラは、ただの情報なんかじ
ゃない。心を手に入れた人間だよ」
 サイドルの頭の上で、サンドラの顔が何度も頷く。
 その瞬間だった。
 サイドルとサンドラを除く世界が崩壊し、真っ暗なボックスだけが取り残される。
 あるはずのない激震が二人のいる世界を襲う。
「何?」
 抱き合ったまま叫んだサイドルに、サンドラが笑う。
「救出のお時間だ」


 

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