第二十八話



 ソファーの上で蹲るようにして座っていたクレアに、ジーナは「おはよう」と挨拶をしながら勝手に
キッチンを漁り、コーヒーを入れる。そのコーヒーをクレアと自分用にカップに注ぐと、ソファーの上
で丸まるクレアに手渡す。
 そのカップを両手で抱え込んだクレアは、ジーナを見て照れくさそうに笑うと「ありがとう」とつぶ
やいた。
「朝弱いの?」
「あんたは強そうね」
 そのいつもの口調にジーナも笑みを浮かべて見下ろすと、閉じられたカーテンを開け、朝の光を部屋
の中に溢れさせる。
 昨日は精神的に不安定なクレアを置いたまま帰ることもできず、一晩クレアの家に泊まったのだった。
 起き出したクレアの気配を感じて後を追ってベットから抜け出したジーナだったが、いつもの張り詰
めた気合は感じないまでも、憎まれ口を叩けるらしいクレアに一先ず安心してコーヒーを口に運ぶ。
 白いカーテンを揺らして入り込んでくる太陽の光が、フローリングの床の上でユラユラと揺れていた。
まるで嫌なことなど何も起こっていない、平穏な一日を演出するかのように。
 ジーナはいつもの自分の習慣に従って、テレビに電源を入れる。
 日常と変わらぬ一日の始まりを装うように、毎日見ているニュース番組が流れ始める。
 そのニュースを見るとはなしに見つめながら、クレアが口を開いた。
「一度失われた脳内の神経回路の再構築。これがわたしの研究してきたことなの」
 コーヒーを飲みながら話始めたクレアに、ジーナはその横に座った。
「あの子のために始めた研究だったわ。もう一度意識を取り戻して笑っている姿を見たかった。ただそ
れだけが目的で始めた研究だった」
 失った脳の機能と意識を取り戻す研究。それがどんなものなのか、ジーナには分からなかったが、そ
の研究の成果は実際に目で見ていた。
 サイドルの再生。
 自分の撃った弾丸によって脳内を損傷し、本来なら生き残ったとしても植物状態になっていたであろ
うサイドルを、記憶を取り戻す作業とともに再生させた。
「……サイドルは再生できたじゃないか。息子さんは?」
 ジーナの問いに、クレアが口に笑みを湛えたまま頭を横に振った。
「あの子の脳の損傷はサイドルよりも広範囲だった上に、時間が立ち過ぎていたのかもしれない。完成
した青い薬、ナーブリバースを最初に試したのもあの子だった。でも、ダメだった」
「……青い薬って、あのサンドラが持っていた麻薬のこと?」
 不意にクレアの研究の話の中に自分の知る事件が入り込み、ジーナは眉を顰めた。
「あれは麻薬なんかじゃない。惑溺性もなければハイになれるなんてこともない。外部からの適切な刺

激で脳内の神経が再構築されるだけの目的で作った薬だもの」
「じゃあ、なんでその青い薬を巡ってこんな事件が起こる?」
 ジーナはいまだ頭の中で繋がらない絡まった糸に苛立つ気持ちを沈め、クレアのぼんやりとした横顔
を見つめた。
「あれは脳内の神経を再構築する。だから外部から偽の情報を入れて信じ込ませれば、その通りの記憶
が脳内に出来上がる。サイドルが自分が立ち会ったわけでないトニー襲撃事件の現場にいたかのような
記憶を作り上げることができるように。あれはわたしたちが、あえて本物のサイドルの姿とは違う外貌
の男の中にサイドルを入れることで、実際のサイドルとは違う人間の記憶としてサイドルに認識させた。
あの時点ですることは、残っているサイドルの記憶を司る神経を活性し情報を引き出すきっかけを与え
るだけでよかったから。でも、簡単に出来たのよ。サイドルに自分の姿であの構築されたトニー襲撃事
件の現場に立たせ、トニーを殺させることも。そうすれば、サイドルは自分はトニーを殺した殺人犯と
いう記憶を持つことになる」
 ジーナはクレアが誘導しようとしている先を見通せないままに、頷いた。確かにそうだった。サイド
ルはあの作り上げられた世界の中で、常に自分が誰なのかを模索しながらも、次第にその世界に順応し
ていった。そして本物の自分の記憶と融合しながら、本来の自分へと戻っていく様を目にしたのだから。
「いい? 記憶を外部からコントロールできたら、真実なんて容易に隠蔽されてしまう。人として決し
て踏みにじられるはずのない思想、生きる目的さえも改変できる」
 そう言ったクレアが、不意に流れているニュース番組に目を向けた。 
 それにつられてジーナもテレビに目を向ける。
 そこではポートマン議員暗殺を伝える記事が伝えられていた。
「……動きだしたわ」
 クレアの呟きに、ジーナがテレビから目を戻す。
 蒼ざめたクレアの顔が、一気に引き締まる。
「暗殺事件が何か関係あるの?」
 不意に立ち上がったクレアの背中に問いかける。
「人は理由もなく人を殺したりはしない。それが身近な人間なら尚の事。でも、ナーブリバースでは、
殺すための理由など簡単にでっち上げることができる」
 ジーナは再び画面に目を戻し、ニュースをみた。
「ポートマン議員は慈善事業として更正した犯罪者にも職を与える重要性を訴え、自らも運転手として
犯人、ジョン・マクレインを雇っていました」
 ニュースの告げる内容とクレアの話をまとめながら、ジーナが口を開く。
「この犯人は、ポートマンを殺すようにとコントロールされていた?」
 手早く着替えながら電話を手にしたクレアが頷く。
「ポートマンは、あの男の計画を知り、反対していた目の上のたんこぶのような存在だった。邪魔な障
害を取り除いたのよ」
「あの男って?」
 クレアは携帯電話とパソコンを繋ぎながら振り返った。
「わたしの元夫、ケヴィン・ローゼンバーグ大統領補佐官」



 頭の中を交錯する様々な場面に、自我が崩壊してしまいそうだった。
 どれが自分の記憶で、どれが垣間見せられた他人の記憶なのかが分からなくなる。
 サイドルは部屋の隅に蹲り、頭を抱えた。
 狂ったように女を殴り、泣き叫ぶ女を見下ろして興奮していたレイプ犯の記憶。
 死に間際にあった年老いた妻に、初めて愛していると伝えられた老人の記憶。
 母親に折檻されながらも、母親の愛情を求め続けた子どもの記憶。
 恋人を奪った親友を恨みながらも、友情を装う女の記憶。
 荒れ狂う悪意や苦しいほどの愛情の記憶に飲み込まれ、サイドルは自分を見失いつつあった。そして
自分がその記憶を持っていた人たちに対して何をしてきたのかが分からなかった。
 ただ他人の記憶を抽出する媒介として使われ、そして入り込んだ心の深層の中で、指示に従って囁く
のだ。悪魔のささやき、あるいは天使のささやきを。
 自分はあの記憶という深層の中で出会った人々に対して、どんな影響を与えたのかが分からなかった。
その結果どんなことが起こったのかも。
「これは実験なんだよ。君がどんな力を有しているかを調べ、ついでに君の能力を磨く訓練にもなる。
人々を癒し、ときにはさらなるどん底へ突き落とす。ある意味人の人生を左右してやる神だ。神の気分
はどうだね?」
 毎日会いに来るケヴィンの戯言が頭の中で巡る。
「その神は、どうしてあなたには逆らえない?」
「それは、わたしにはその神を操る魔法の薬があるからさ」
 そう言って見せたのは、あの青い薬だった。
「この世は自由が売り物だ。自由な思想、自由な発言、自由な行動。だが、その自由の中にあってはな
らないものが紛れ込んでいることも事実。だがそれに干渉して破壊することは難しいうえに時に罪にさ
えなる。だから、こっそりと誰にも気づかれないように、書き換えられた人物さえ知りえないように変
えてやらないとならない。特に説得など到底無理なテロを起すような集団に対して」
「あなたがぼくを拘束し、自由を奪うのも自由?」
「まさしく」
 サイドルは自分の閉じ込められた部屋の外に、男たちの足音が近づいていることに気づき、体を震わ
せた。
 また始まる、新たな書き換え実験。
「サイドル。お仕事の時間だぞ」
 鍵のかかった扉が開き、屈強な男たちが姿を現す。
 男たちに引きずられるようにして立ち上がらされたサイドルは、抵抗すらも忘れて歩き出す。
 そのサイドルに男が耳元でささやく。
「今日はどうやらスペシャルデーらしいぞ」
 連れ込まれた部屋に、いつもと同じようにサイドルに記憶を晒す被験者が眠っていた。
 その姿を見た瞬間、サイドルの足がひきつけを起したように硬直し、進みことを拒否して止まった。
 そこに眠る、長い髪の男。
「……サンドラ!」

 

back / top / next
inserted by FC2 system