第二十七話



 どこまでも落ちていく暗闇の底。だが不思議と恐怖はなかった。
 ただ底知れぬ穴の底へと向かって飛行しているような気分だった。
 落ちていく、落ちていく……。
 その暗闇の穴の周囲に、次第にノイズが混じるように映像が再現されていく。
 どこまでも果てしなく続く空間だと思ったものに壁が生じ、閉鎖していく。
 白い壁。傷のたくさんついたフローリングの床、その上の無機質なパイプイス。
 サイドルはゆっくりとつま先から床に足をつけると、ふわりと舞い降りた。
 見上げた頭上はいつの間にか天井へと変わっていた。隅にはくもの巣を這わせた汚れた廃屋のような
様相を示した一室だった。
 パイプイスが軋んで音を立てる。
 そのイスの上に、一人の人の姿があった。
 長い髪と綺麗に着飾ったワンピースの少女の後ろ姿。
「エリザベス?」
 サイドルはピンと伸びたその背中に向かって声を掛けた。そして相手を脅かさないようにゆっくりと
前に周りこむと、その前に顔を覗き込ませた。
 そこには、あの壮絶な別れ以来になるエリザベスがいた。
 恐る恐る覗き込んだサイドルと目が合った瞬間、エリザベスが微笑む。
「お兄ちゃん、元気だった? ずっと会いたかったんだ」
 満面の笑みを見せ、エリザベスがサイドルの首に両腕を回した。
 柔らかく、温かな体温を感じながら、サイドルは腕の中にエリザベスを抱きしめた。



「レベル5到達。アッシャーとの接触成功」
 オペレーターの声を聞きながら、ケヴィンが顎に手を当てる。
「ドナーを投入」
 ケヴィンはガラス張りのオペレーター室の下の実験室に眠る二人の男の体を見下ろしながら告げた。
 実験室のベットの上で眠っているのはサイドルと、もう一人。
 
 エリザベスを抱きしめていたその背中で、再びパイプイスの軋む音がした。
 背後を振り返ったサイドルは、そこに新たに現れた男を認めた。
 中肉中背のどこにでもいるような中年の男が、くたびれた無精ひげを生やした顔がそこにいた。
 ここがどこなのか分からない挙動不審な動きでイスの上で立ち上がり、辺りを見回していた。
 その男にエリザベスが笑顔で声を掛ける。
「ジョンおじさん」



 ジョンは突然強制的に目覚めさせられた眩暈の中で辺りを見回した。
 頭をガツンと殴られた後のような目の奥に感じる強烈な痛みとともに、自分の置かれている情景が目
に入る。
 廃屋の一室のようなうらぶれた部屋と、二人の人間。
 一人は若い男で、もう一人は幼い少女であった。
 その子どもが笑顔で告げる「ジョンおじさん」



「知っている人なの?」
 尋ねるサイドルに、エリザベスが頷く。
「うちのおじいちゃんのお友達の運転手さんをしている人なんだよ。ジョンって言うの。おにいちゃん
もご挨拶してあげて」
「ああ、そうだね」
 サイドルの脳裏に何かこの展開に違和感のようなものが過ぎるが、どこからくる訴えに従って何がお
かしいと感じているのか考えることを放棄する。
「こんにちは、ジョン。ぼくはサイドルです。エリザベスの……えっと、友達かな?」
 サイドルはジョンに向かって手を差し伸べた。



 ジョンは見ず知らずの幼い少女に名前を呼ばれ、ビクンと体を竦ませた。
 そのジョンを、まだ小学校にも入らないような年齢の子どもにも係わらず、赤い唇を妖艶に舐めた少
女が微笑む。
「ジョン。あなたのしたことは知っているのよ。それを娘さんが知ったらどう思うかしらね? 自分と
そう歳の変わらない女の子を襲って楽しむような趣味がある人が父親だと知ったら。ねえ?」
 少女が傍らの青年に声を掛ける。
 青年は少女に同調するように頷くと、不意に自分に拳銃を向けて一歩を踏み出した。
 カチリと聞こえた撃鉄を起す音。
「まったくだ。自分も子どもを持ちながら、他人の子どもの痛みには鈍感な頭なんて、吹っ飛ばしてや
ったほうが世の中のためだろ?」



 差し伸べたサイドルの手から、ジョンが飛び上がるようにして後退さる。
「……どうしました?」
 男の理解に苦しむ行動に、サイドルは足を止めた。
「俺が悪かった。でもちゃんと罪は償った。刑務所での刑期はちゃんと果たしたじゃないか。しかも、
あの事件だって出来心だ。たった一度だ。ああ、もちろん、出来心で済まされない傷を相手の子どもに
負わせたのは理解している。償っていくつもりだ。だから殺さないで……」
 腰が砕けたように尻餅をついて後退さる男を、サイドルは不可思議な思いで見つめていた。
 何を言っているのか理解できない。どうやらこの男がかつて犯罪を犯したようだということ以外は。
 男が後退りを続け、部屋の中にあったスタンドのライトに背中をつけた。
 そのスタンドの上で、緩んでいた電球の破片が揺れる。
 スタンドにぶつかっていながらも、なおも後退さる男の動きに、砕けた電球が転がり落ちる。
「あ、あぶない!!」
 サイドルがジョンの向かって飛び込んだ。
 ジョンの腕を取り、自分の方へと引っ張る。
 フローリングの床の上に叩きつけられて砕け散るガラスの破片。
 その音と同時にしたエリザベルの静かな声で告げた。確実にサイドルを動かす魔法の呪文。
「READ」
 サイドルの中を稲妻のような閃光が駆け抜けた。



 サイドルの脳内を、壮絶な勢いで何かが駆け抜けていた。
 あどけない顔をした髪を二つに結わえた女の子。その女の子にエミリーと呼びかけるジョンの笑顔。
顔中に赤い発疹を発して寝ているエミリーとその少女を見守る一人の女性。
ナッツアレルギーの文字。高級そうな黒塗りの車の中でかわす何気ない会話。「娘さんの病気はどうだ
い? なんなら良い医者を紹介するよ」「ありがとうございます、議員。こんな俺にも良くしていただ
いて」
 ドンと体の中を突き抜けていく拳に殴られた感覚に目を開ければ、自分はエリザベスの横に直立で立
っていた。
 右手をぎゅっとエリザベスに握られたまま。



「ぐあぁぁぁぁぎゃあああぁぁぁ」
 ジョンは脳内を這いまわる虫の音と感触に悲鳴を上げ、頭を抱えた。
 自分の意思とは別に、何かが自分の記憶の引き出しを引っ掻き回し、散らかしていく。そのたびに記
憶の断片が再生される。
 いとおしい娘の幼い日の笑顔。はじめて食べたナッツのクッキーでアレルギーを起して呼吸不全を起
した夜の出来事。疲れた顔に気づいた今の雇い主である議員が掛けてくれた親切な言葉。
 だが不意にそれが収まると、ジョンはそっと目をあけた。
 今までの苦しみが嘘であったか、夢であったのかと思うほどに晴れやかな気分が自分を待っていた。
今なら何でもできそうだという自信に満ちた気持ち。
 そのジョンに声がかかる。
「お父さん」
 目の前に、娘のエミリーがいた。
 イスの上で苦しそうに身を捩りながら、涙目になったエミリーが自分を求めて声を上げていた。
 肌という肌に赤い発疹が広がり、ヒューヒューと鳴る喉は今にも息が詰まりそうになり、胸を激しく
上下させていた。
「お父さん、お願い。早く注射を打って。そうでないと、わたし死んじゃう!」
 どうしていきなりこんな事態になったのか、理解することができなかった。
 だが娘の症状は明らかにアレルギーのショックを起す一歩手前の症状だった。早く処置をしなければ、
腫れあがった喉に気道が塞がれ窒息死する。
「エミリー!! どうしたんだ?!」
 もう14歳になっている娘が子どもの時のように不注意でナッツの入ったものを食べることはありえ
ない。
 だが今はそんな議論をしている暇はない。一刻も早くクスリを打たなければ、娘は苦しみながら死ん
でしまうのだ。
「おい、あんた。はやく娘に注射を!」
 ジョンはエミリーの傍らにたつ青年に叫んだ。
 だが青年は困ったように肩をすくめ、青年の手をギュッと握る娘を見下ろすばかりだった。
「ミスター。残念なんですが、クスリがありません」
「クスリがないってどういうことだ! お前は看護士だろう!!」
「ええ。看護士ですが、クスリがポートマン議員の手で買い占められ、病院でも手に入らなくなってし
まっているのです」
「ポートマン? 俺の雇い主の議員か?!」
「ええ。エミリーにこのクスリが必要なのを知っていながら、独り占めです」
「そんな……」
 ジョンは苦しげに喉を掻き毟る娘の姿に涙を浮べ、うろたえる。
「どうすればいい? どうすれば娘の薬が手に入る。娘のためなら何でもする」
 ジョンが叫ぶ。
 そのジョンに告げた。
「お父さん、ポートマンを殺して。あいつがいなくなれば、わたしは助かる」



 泣き喚いていた男が手渡した拳銃を手に、目の前から消え去る。
 そして自分に笑顔を向けていたエリザベスが、電源を落とされた人形のように、その目から力をなく
し、無表情でうな垂れた。
「エリザベス?」
 サイドルはわけの分からない事態に、震えながらそっとエリザベスの肩を掴んだ。
 冷たいその肩を揺するが、ガクガクと首を揺らすだけでエリザベスは反応しない。
「どうしたんだよ、エリザベス!」
 そのささやきに、不意にエリザベスが気のぬけた人形の目をサイドルに向ける。
「お兄ちゃん、遅すぎたのよ。わたしの元に戻って来るのが」



 サイドルは自分の涙に咽ながら目を覚ました。
「ああ、お目覚めだね。どうしたんだい? 君はすばらしい働きをしてくれたというのに」
 一人饒舌に語る男の声が頭上に降りかかる。
 目を開ける。
 だが疲れ切った体は起こしたい気持ちにもならず、頭は中で鐘が打ち鳴らされているかと思うほどに
痛む。
 激しい倦怠感に顔を顰めるサイドルの顔を、ケヴィンが覗き込む。
 そしてご満悦の表情で流れ落ちたこめかみの涙を指で拭うと微笑む。
「疲れているようだね。それはそうだ。ゆっくり休むといい。今のところは」
 ケヴィンは一人つぶやくと、サイドルの横たわったベットの背もたれを電動スイッチで起した。
 休んでいて良いといったはずなのに。
 サイドルはご機嫌なケヴィンのうるさいほどの笑顔を気だるく見上げながら、ふいに耳に入った音に
目を向けた。
 それはテレビのニュース番組だった。
 真剣な表情で原稿をよむキャスターの顔に悲痛な表情が浮ぶ。
「警察は、議員の反テロ制裁への動きに対する、急進的制裁をのぞむグループによる暗殺事件とみてい
ます」
 画面に映し出された二人の人間の写真。
 その下に名前が記されていた。
 殺されたポートマン議員。
 犯人のジョン・ブリン。
「手を汚さずに洗脳して暗殺を成し遂げる。100%の洗脳を達成する。これが我々の採集目標だった
んだ。これで完成目前だ」
 夢の中の出来事だと思っていた事が、目の前でニュースとして報道されている。
 嘘だ。これこそが夢なんだ。まだ夢の続きを見ているに違いない。
 サイドルは呆然とする意識の中で思った。
 だがどんなに願っても目覚めることはできない。脈略もなく場面が展開することもなく、たんたんと
テレビの中でニュースが続いていた。
「君の働きには感謝するよ。サイドルくん。これからもよろしく頼むよ」
 強引に取り右手と握手をしたケヴィンを、サイドルは震える瞳で見つけた。
「嘘でしょ? あれは全部夢で……」
 縋るように呟くサイドルを、ケヴィンは笑顔で見下ろした。
「いいや、あれは全部君がしたことさ。エリザベスと一緒に一人の罪もない元犯罪者の男を追い詰め、
洗脳して邪魔なポートマンを消させた」
 頭の中に甦るエリザベスの手のぬくもり。
 エリザベスの顔が目の前で別の娘の顔、そう、ジョンの娘の顔に変容し、ジョンに告げていたではな
いか。ポートマンを殺してと。そしてぼくも、意思とは異なる言葉を、まるでエリザベスの腹話術の人
形になったように喋りはしなかっただろうか?
 あれは全て現実で。ぼくはそれに手を貸して……。
 サイドルは激しい痛みを発する頭を抱えて唸り声を発した。
「ぼくは……人を殺した……そういうこと……」
「そうだね。ポートマンと自殺したジョン。でも、これで壊れられては困る。君が早くこの仕事に慣れ
てくれないと、エリザベスが一人でこなすことになるよ」
 頭を抱えていたサイドルは、ハっとして顔を上げた。
「エリザベス?」
「そうさ。一緒にジョンに会っただろう? 彼女はいつまでもつだろうね? もちろん君が一人でこな
せるというのなら、しばらく彼女を休ませることもできるのだがね」
 朦朧とした頭では受け入れきれないほどに、次々と現れるサイドルを苦しめる問題に、もう勘弁して
欲しいという思いでサイドルはうめいた。
「わかったから。……みんなぼくがやるから。もう、一人にして。もう何も聞きたくない」
「そうかい。いい子だね。ゆっくり休みなさい」
 ケヴィンがサイドルの頭を撫でると、わずかに抵抗を示すサイドルの額にキスをする。
 電気が消され、静けさに落ちた部屋の中で、サイドルが呟く。
「もう嫌だ。この世界から消えてなくなりたい」



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