第二十六話



 ―― あれがエリザベス? 
 覚醒へと向かう意識の中でサイドルは思った。まだはっきりとした思考を結ばない頭の中で、だが確
かに何かがおかしいと訴えていた。
 エリザベスは明るく快活な、厳しい状況下にも負けない女の子だったはずではなかったか? 誘拐さ
れ、監禁された状況の中でもぼくに笑いかけた、可愛らしい女の子。
 だが今目にしたエリザベスは、まるで精巧にできたドール。美しいだけの命の宿っていない人形のよ
うだった。ただ一筋流れた涙以外は。
 エリザベス。君の本当の姿はどこにあるんだ?
 そんな疑問が心の中で繰り返される。
「エ…エ……エリ」
 うわ言のように口に出した言葉は、乾ききった喉に引っかかってうまく音を紡ぐことはなかった。
「サイドルくん?」
 虚ろに目を開けた目に鋭い光が差し込む。
「大丈夫。完全に覚醒しました」
 初老の男の声の後に、光が目の前から離される。
 消えた光の向こうにいたのは、背を向けて去ろうとしている白衣の男と、その老医師の肩を叩いて送
り出す背広の男だった。
「クレアは?」
 まだ光に慣れない目を手で覆って尋ねれば、背広の男がサイドルを見下ろした。
 親しみやすさをたたえた笑みでサイドルに顔を寄せる。
「サイドルくんだね」
 なぜわざわざ確認されるのか分からないまま、サイドルは頷いた。
「わたしはミス・クレアの元夫。ケヴィン・ローゼンバークだ」
「……クレアの?」
「そう。クレアから君を預からせてもらったんだ」
 そう言って笑顔を見せる男に、だがサイドルはなぜか皮膚の表面が粟立つような違和感を覚えた。顔
の表面を覆っている笑顔の奥にひた隠しにした何かが漂い出ていた。
 その深く溺れそうな漆黒の瞳の中に。
「クレアはいまどこ?」
 サイドルは起き上がろうと上体を起した。
 だがその体は起き上がることができずに胸の上に渡されたベルトで拘束される。それに気付いて見れ
ば、両腕の手首にも繋がれたベルトがあった。
「これは何?」
 サイドルが男ケヴィンを見上げて訴えた。
 だがその問いに対する答えはなしに、笑顔のままのその腕がサイドルの体をベットの上に押し倒した。
 あまりに容赦のない力に肺が押し潰され、うめき声がもれる。
 そして一瞬の隙に手足のわずかばかりの自由も拘束するほどに、きつくベルトが締められる。
 ケヴィンは呆然と事の成り行きを見守るサイドルに顔を寄せる。
 その横で老医師が再びサイドルの横に立つと、腕に挿された点滴の管が揺れる。
「サイドルくん。君にはわたしがアメリカ市民を代表してお礼を言わせて貰うよ。君の尊い体が実験と
して使われ、成功へと導かれることで我国はただいなる利益を算出することになる。世界の頂点に立つ
ものとしてより相応しい地位を手にすることができる」
 まるで心から愛する者に接するように、髪を撫でながら吐息のかかる距離で囁かれ、サイドルは身を
固くした。
「……実験? 何のこと?」
「ドクター・クレアの提唱した記憶と人格を外部から入力するという理論の実験。君はその成功例第一
号」
 そのとき、サイドルはケヴィンの後ろで注射器を構えた老医師を見た。
 その手にあるのは、あのサンドラが持っていた麻薬とおなじオーシャンブルーの薬液を満たした注射
器だった。
 注射器が点滴のチューブにつながれ、透明な点滴液の中へと交じり合っていく。
 そして押し出された薬液は、サイドルの腕へと続くチューブの中へと流れ始める。
「でもね、クレアは悪いことに、その研究成果である君は隠そうとした。なんて愚かなことだろうね。
君のように適正を示す人間はとても貴重なのに。どうしたんだろうな?
この実験の成功者に付きまとうことになる、精神の破綻への苦しい道のりを思って同情してしまったの
かもしれないね。君が若く美しい青年だから。わたしと彼女の息子と同じくらいにね」
 青い薬液がサイドルの腕の中、血管へと侵入していく。
 それは急速に血流に乗って体の中を駆け巡り、心臓、肺を経て脳へとその道筋を突き進んでいく。
「さあ、実験の成果を見せてもらうよ」
 サイドルの目が一気に白目を向く。
 ガクンと脱力した体が、次の瞬間酷い緊張を示して硬直する。
「レベル4へ到達」
 モニターを睨んでいた技師が冷静に、だが感嘆の思いを込めた目でケヴィンを見つめて言う。
 その声に、ケヴィンは満足げに笑うと、サイドルの蒼ざめた頬にキスをした。
「さあ、サイドルくん。君のお手並み拝見だ」



 通された部屋に足を踏み入れたジーナは、クレアからは想像できない家庭的な温かみに溢れたインテ
リアに包まれた部屋を見回した。
  真っ白なテーブルクロスには花の刺繍が施され、カラフルなドロップを詰めた瓶が机の上で花と一緒
に輝いていた。
「ふーん」
 クリーム色のクロスの上にはたくさんの額に入れられた写真が飾られていた。
 その中で母の笑みを浮かべたクレアと、青い目をした抱きしめたくなるような可愛らしい赤子が映っ
ていた。
 眠っている赤子の頬にキスをするクレア。抱き上げて高い高いをするクレア。家族三人、クレアと幼
児と、その父親だろう男との写真。
「子どもがいるの?」
 今までそんな気配など微塵も感じたことがなかったジーナは、背後で自分の手当てをはじめたクレア
に尋ねた。
「ええ、いたわ」
 その過去形の答えに、その子どもの死を感じ取ったジーナはそれ以上は追及せずに写真に目を戻した。
 次第に大きく成長していく姿を示した写真は、だが子どもが少年の域にさしかかろうかという、小学
校低学年辺りでプツリと途絶える。
 大きな目を見開いておどけた顔でプリンを食べる少年の顔が最後だった。
 クレアに似ているかもしれない。金髪の少年からは、快活で聡明な、だがみんなの人気者になりそう
なユーモアも溢れていた。少年が、クレアの大きな愛情を受けて育ったことを示したような写真の数々
だった。
 背後でクレアが手当てを終えて薬箱を閉じると、大きなため息とともにソファーの背もたれに身を沈
めた。
「……事故だった。あの子が小学校3年生、9歳のとき。自転車で友達の家に行く途中で車にはねられ
たの。脊椎損傷と脳挫傷で10年も植物状態が続いていたわ」
「10年?」
 ということは、この少年は十九歳までは生きたことになる。十九歳。今のサイドルと同じ年まで。
「……」
 なぜかその符合めいた数字に、ジーナは無言でクレアの顔を見続けた。
 そしてその視線に気付いたクレアが、自分を馬鹿にしたように笑う。
「そうよ。サイドルと同じね。あなたがサイドルを運び込んできたとき、だからわたしは本当に心の底
からビックリしたわ。まるで、失われていた息子との時間を、この子を助けることでもう一度手にでき
るかもしれないと錯覚するほどにね。だから選択したのよ」
 暗く陰鬱な眼差しで俯くクレアに、ジーナは嫌な予感を抱きつつ尋ねた。
「選択?」
「このままサイドルが覚醒したことを上に隠しとおすことはできない。ならば当初の予定通りにサイド
ルを実験の成功の証として上に引き渡すか、それともなんとかサイドルの死を工作するか」
 やはりサイドルは死んでいなかった。
 ジーナはその事実に喜べるはずだった。だが今はサイドルの死に関係した禍事の存在に感づき笑うこ
とができなかった。
「サイドルの死を工作するために、誰をサイドルの死体に見立てたの?」
 クレアが暗く笑う。
「あの子よ。もう笑うことも話すこともできずに、ただ人工呼吸器によって生かされていたあの子を犠
牲にした。でも……、確かに心臓は動いていた。握り締めた手は温かかった。だけどあの子の中に彼の
魂はもうなかった」
 自分に言い聞かせるかのように言ったクレアだったが、自分の手で奪った命の瞬間を思い出したのか、
目を瞑ると唇を噛みしめた。涙を流すまいと堪えるギュッと閉じられた目が痛々しかった。
「……」
 ジーナはかけるべき言葉は持っていなかった。
 クレアのしたことが善なのか悪なのかもわからない。だが、その決断までにいたるクレアの葛藤は理
解してあげたかった。
 ジーナはクレアの前に立つと、その体を抱きしめた。
 ジーナの抱擁に身を固くしたクレアに、囁く。
「……サイドルを助けようとしてくれて、ありがとう。サイドルのために命を賭してくれたクレアの息
子さんにも、ありがとうを言うよ」
 ジーナの言葉に、クレアの口から嗚咽が漏れた。
 ジーナはその泣き顔だけは見ないように抱きしめると、泣きじゃくる子どもをあやすようにその頭を
撫でた。
 命の価値は天秤で量れるようなものではない。植物人間になった息子の命と犯罪者とはいえ確かにそ
こに生きていたサイドル。
 だがその命の可能性に、クレアはサイドルを選んだ。
 ならば。
 ジーナは心の中に誓った。
 なんとしてもサイドルをもう一度、この手の中に取り戻す。どんな困難が待っていようとも。




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