第二十話



 ジーナが拳銃を構え、静かに鍵を開けた部屋のドアを開けると中に踏み込んだ。
 その後を追ってのっそりと部屋に足を踏み入れたサイドルは、油断なく四方に拳銃を構えたジーナの
背中を見つめた。
「ちょっと、まだ入っていいなんて言ってないでしょ!」
 安全の確認が終わっていないと言いたげに、まだ拳銃を下ろさずに部屋から部屋へと確認を行う。
「だって、サンドラは帰ってきてないし」
「どうしてわかるのよ」
「玄関の戸にちょっとした仕掛けがあってね。誰かが部屋に入れば分かるようになってる」
「え?」
「見なかった? ドアの上に一本だけ髪の毛が貼り付けてあったの。開けるとプチンと切れる。まあ、
ぼくの金髪だから見えにくいけどね」
 そう言って自分の後ろで束ねた髪を見せる。
「金髪じゃないじゃん」
 確かに手にした髪は金ではなく濃いブラウンだった。
「あれ?」
「……染めてるの?」
「さあ? 思い出せないんだけど……きっとそうかな?」
 サイドルは怪訝な表情を浮かべたが、わけの分からないことが起こる事にすっかり慣れっこになって
しまい、「まあいいか」で片付けてしまう。
 頭を掻いて首を傾げつつ、サイドルは部屋の隅に置かれたベットの上に座った。
 部屋は長い間誰もいなかったことを示して、どこもかしこも埃に覆われていた。なんとなく物悲しい
様相を示した部屋だったが、片付けだけはしっかりとされ、乱れたところといえば今サイドルの座るベ
ットの布団くらいなものだった。
 ジーナがキッチンへと入っていく。
 その様子を見守りながら、サイドルは腹の底から湧きあがった感情に深い息をついた。
「何ため息なんてついてるんだ?」
 冷蔵庫の中を見ながらジーナが聞いた。
「……遠くから自分の家に帰ってきた安心感かな? やっぱりココが一番自分にしっくりくる感じがし
てね」
「それはココがお前の家だからな」
 声だけのジーナが立ち上がると、冷蔵庫の中から出したのだろうミルクの瓶を掲げて見せた。
「おい、これ腐って完全にヨーグルトになってるけど」
 おもしろそうに笑顔で掲げられた瓶を見る。
 たしかにドロンと揺れる幾分黄色がかったものに顔をしかめた。
 だが同時に、二重の映像を見るように、ジーナの姿と重なって何かが見えた。
 目を眇めて見ても、確かに見える映像があった。
 その映像が動きだす。
 それは瓶に直接口をつけてミルクを飲むサンドラの姿だった。
『瓶に直接口つけて飲むのはやめてよ』
 自分の口をついて出た言葉に、サンドラが振り返り笑った。
『文句は自分の金で食えるようになってから言いな』
『だったら働かせてよ』
『ああ。今回はお前にやってもらう仕事があるからな』
 サンドラはミルクをしまうと歩きだす。
 まるで見えない幽霊と会話を始めたようなサイドルを、ジーナが見つめた。
 ミルクの瓶をトンと机に置く。
 その音には反応して目を寄越すサイドルだったが、その目はすぐにもう一人の人物を追って動き出す
。
 サンドラが僅かばかりの食器が仕舞われた棚に近づくと、その戸を開けた。そしてどういう仕組みに
なっているのか、戸のガラスを簡単に外すとそこから白い粉の入った袋を取り出す。
 その粉を手の甲に乗せると鼻へと持っていく。
『朝一番でコーク? せっかく健康のために飲んだミルクも役にたたないじゃん』
 スッと勢いよく吸い込んだ息に、ヤクが鼻の中へと吸い込まれていく。
 非難を込めて言えば、サンドラがギロリと睨みつける。子どもは黙っていろという目で見られ、サイ
ドルは目を反らして肩をすくめた。
 ジーナはサイドルの視線の先を追って食器棚に近づくと戸を開けた。
 そして少しずれているガラスに気付き、そっとガラスをずらした。そしてその下にある白い粉に気付
きニヤリと笑った。現物の発見。ジーナはベットの上に座って沈黙しているサイドルを振り返った。
「おい、ヤク発見した――」
 だがからかい半分で言った言葉は途中で途切れた。
 サイドルがベットの上に倒れていた。その体が激しく痙攣を起し、白目を剥いていた。
「おい! どうした。おい! サイドル」
 肩を掴むジーナの目の前で額を両手で覆い、唸り声を上げて体をガクガクと震わせる。
 その痙攣が突如止まると、サイドルが白目を剥いたまま体を弛緩させた。
「サイドル?」
 力が抜け、カクっと横に傾く顔を覗き込み、ジーナは息を飲んだ。
 サイドルの額に早送りの映像で植物の成長を見るかのように、青い筋が這い上がっていく。まるで意
思があるかのように額に幾何学模様を描き出す青白い筋が脳内に侵入していく。それを見ながら、ジー
ナは朝の光景を思い出した。尻を出したマヌケな格好をしたサイドルが言っていたではないか。クレア
に注射されたと。
「クレア?」
 ジーナは苦痛に悶えるように涙を浮かべながら震え始めたサイドルの体を抱きかかえ、信頼していた
クレアの背中が遠ざかっていくように感じた。



「お前には今回してもらう仕事がある」
 鼻から吸引したヤクの力を首を振って確かめるように歩いてくるサンドラが、部屋の片隅に置かれて
いた黒いカバンを手に取り、ベットの上のサイドルに放った。
 ガタンと音を立て、結構な重量のあるものが落下する様子に、ベットの上でサイドルが身を捩って避
けた。
「危ないじゃないか」
 ベットの上で沈み込んだカバンを見ながら、非難の声を上げる。
 それをおもしろそうに見ているサンドラの目が、もうヤクの力に酔っていた。それに「フン」と鼻を
ならして目を背けると、カバンの中身を確かめるために手をのばした。そして袋の中から出てきたもの
にサンドラを振り返った。
「バイオリン? まさかぼくへのプレゼントとか気持ちの悪いこと言わないよね?」
「は! おまえに音楽の才能があるとは知らなかったな。もちろんトニーのようにバイオリンの才能が
あるんだっていうなら、すぐにでもお前専用のバイオリンを調達したやるよ。 ストラデイヴァリウス
がいいか?」
 心底楽しいジョークを聞いたように笑うサンドラだったが、その目に宿っているのは触れたら切れそ
うな狂気の光だった。
「トニー?」
 バイオリンを手にしながら顔を上げ、サンドラを見上げた。
「トニーって、ナイフで手を串刺しにした?」
 ご名答と手を叩き、サイドルからバイオリンを取上げると、お遊びにバイオリンを構えてみせる。悦
に入った様子でバイオリンの弦を弾くサンドラの姿に、サイドルは嫌な予感で手に残った弓を見つめた。
誰かの手の中で踊っていたのだろう弓が何かを訴えていた。ともに苦しい練習の中で魂を通わせあった
相手はお前ではないと断罪を下す声が聞こえる。その相手とはかつてのお前の友だったのだと。
「トニーに何をした?」
 俯いたまま言ったサイドルだったが、途端に動きを止めたサンドラの目に浮かぶ感情は手にとるよう
に分かった。そこにあるのは猜疑心と嫉妬に狂った醜く歪んだ顔。
 サンドラの手からバイオリンが投げ捨てられる。ガチャンと床に落ちたバイオリンが、弦を震わせて
音を立てる。物悲しい狂った音を。
「トニーがどうしたか教えて欲しいのか?」
 サイドルの襟首を掴んだサンドラが顔を寄せる。
 鼻先に突きつけられたサンドラの血走った目から顔をそらすと、サイドルは抵抗することなく首を横
に振った。
「生意気にあいつはバイオリニストとして世間の注目を集めてやがった。だが、結局あいつがこの世界
から離れられるはずもないんだ。うまいことにこちらの計画の線上にアイツの名前が浮んできやがった。
笑いが止まらなかったぜ。どこへ逃げようと、奴の死神として、俺がいつもその希望の息の根を止めて
やる運命だってことに」
 サンドラがトニーにしただろうことを思って、サイドルは眉を寄せた。トニーがバイオリニストとし
て成功したことは知っていた。かつて血の契りを交わすほどの親友だったトニーに、心からの拍手と応
援を送ってきた。だがサンドラの存在を恐れ、決してその側に姿を現すことはしなかった。ただ心の中
だけで通じて欲しいという思いだけをこめ、声援をおくってきたのだ。ぜひ海外留学の切符を手に世界
に羽ばたいて欲しいと。だが、その思いは自分が安穏と日々を過ごす中で最悪の悪魔によって砕かれて
いたらしい。しかも自分はその悪魔の庇護下にあるという屈辱。
 サンドラがサイドルの右手を掴むとその手の平を見た。
 一直線に走った白く変色した傷。トニーの手にもある同じ傷。一生どこにいても親友でいようなと誓
った印。
「くだらねえ。何が親友だ。そんなものが世の中にあるものか!」
 サンドラは吐き捨てる。
 だがその言葉に反感を覚えたサイドルがサンドラから手を振り払う。感情のままにおこした行動だっ
た。だがそれがサンドラの逆鱗に触れることは分かっていた。
 サンドラはサイドルの頭を力の限りに掴むとベットに押し付けた。押し倒された胸の上にサンドラの
膝が乗り、体重をかけられると肺が押し潰されて否応なく空気が押し出されて悲鳴がもれた。
「こんなくだらない烙印を後生大事に抱えてやがるから、ありもしない幻想に縋る」
 サンドラが腰にさしていたナイフを手の中で回転させ構えた。
 そのナイフの先が自分の右手であることを悟り、サイドルは唸りを発して身を捩った。
「やめろ!」
 だが恐怖を乗せて発せられた言葉は、サンドラの興奮した笑みを誘うだけだった。
 裏拳で頬を張られ、顔を背けられた瞬間に手の平に焼けきるような痛みが走る。
 手の平の傷を抉り取ろうとして走る刃に涙が浮ぶ。
「サンドラ! やめろ!!」
 狂気に目を見開いたサンドラの耳には叫びが届かないのか、一心にナイフを動かす。
「やめ、……やめて、もうサンドラから逃げようなんてしないから」
 痛みに歯を食いしばったサイドルの声に、サンドラが動きを止めた。
 そして自分の握った弟の手が血に塗れているのに気付いて体を強張らせた。側にあったタオルを手に、
自分が今切りつけた傷を止血する。
「サイドル……俺は……」
 膝の下で押し潰したサイドルの体から下りると、まるで今までの凶行が嘘であったかのように、いた
わる手でその頭を抱きしめた。
「……クソ。あんなヤクさえ現れければ……」
 恐怖に震えたサイドルを抱きしめながら、サンドラが呟いた。
 不規則にうつサンドラの心音が、サイドルと同じように恐怖に慄いていることを伝えていた。自分の
中で起こり始めている、自分でも理解できない変化への恐怖。
「……もう、大丈夫だから……」
 サイドルはサンドラが握る血の滲んだタオルを自分の手で握ると言った。このところのサンドラは異
常な感情の起伏の中にいることを知っていた。それが今までとは違う新しいヤクに手を出してからだと
いうことも。
「あのヤクは何?」
 血まみれのタオルの下にある手を見下ろしながら言ったサイドルに、ベットから立ち上がったサンド
ラ言う。
「それを調べる」
 そういうとサイドルに向かって何かの箱を投げた。
 毛染めの箱の上で、カッコつけた男が微笑みかけていた。
「サイドル。おまえにはトニーになってもらう」
「トニーに?」
「……それが、このヤクの正体を暴く第一歩だ」
 毒々しい青い液体を満たしたチューブを、サンドラが握っていた。





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