第十九話



 痛い尻と背中を交互に見やる。
 どちらが痛いと言われれば、随分と奥深くから痛みを訴える尻の方な気がするが、いかんせん挿した
のは細い針なだけに目に見えて何があるというわけではない。それに対して背中にはクレアの膝の痕が
丸く真っ赤になって残っていた。
「乱暴なドクターだよ」
 ぶつくさと文句を言いながら、ふと思いついた。
 ビタミン注射だと言ったが尻に打ったところを見ると明らかに筋肉注射。
「ちゃんと揉まないと痛くなるじゃん」
 痛みを発する針の痕に手を伸ばして、痛いのを我慢して揉んで薬を散らす。
「……あんたって、変態だったんだ」
 そのとき不意にした声に、ガラスに映った人物を認めてサイドルは動きを止めた。
 いつの間に現れたのか、ジーナが腕組みして立っていた。それも酷く嫌なものを見た嫌悪の表情で。
 サイドルはガラスに映る自分の姿を見直して、慌ててズボンを上げた。
 背中を見るために捲ったシャツが脇の下で丸まり、半出しの尻を揉む自分の姿。それはまさしく変態
だった。
「いや、これは違うんだ」
「いや別に否定しなくていいけど。変態の方がわたしも安全だし。たしかにキレイな顔はしてるけど、
自分で自分を慰めていけちゃうナルシストだとは……」
「だ、だから違うって」
 そう言ってジーナの腕を握った瞬間、その手を見下ろしてジーナが悲鳴じみた声を上げて後退さった。
「な、何?!」
「あんた、自分のケツ揉んでた手でわたしに触らないでよ」
 まるで今すぐにジーナに撃たれるかのように両手を上げた姿で、サイドルは酷く疲れた顔でうな垂れ
た。
「……洗ってない手で触ったのは謝るよ。でも、本当に違うから。ぼくはノーマル。ナルシストでもな
いから。クレアに注射打たれて痛かったから見てただけ」
 サイドルはジーナに背を向けると「手洗ってくる」と言って隣りの部屋の化粧室へと消えた。
「ねえ、本当にノーマルなの?」
 サイドルの後をついてきたらしいジーナが、化粧室の外から叫ぶ。
「……そうだけど」
 濡れた手を振って水滴を撒き散らしながらサイドルが力なく言う。
 拗ねた子どものようにジーナの顔も見ずに素通りするサイドル。
 その背中にジーナが苦笑いを浮かべる。
「ねえ悪かったって。悪ふざけだよ。変態だなんて思ってないよ」
 サイドルの肩を掴んで言えば、つと足を止めたサイドルが振り返る。
「……本当に?」
「……うん」
 その返答にニコっと笑って見せたサイドルは不意をついてジーナに顔を近づけると唇に唇を重ねた。
「な!」
 顔を赤くして両手を突き出したジーナを避けながら、サイドルが思案顔で唇に指を置いていた。
「やっぱり、女の人とのキスがいいや」
「は?」
 怒りさえ滲ませた声で言えば、サイドルが微笑む。
「今のがぼくの女の人とのファーストキス。あ、エリザベスを抜けばね」




「ねえ、どこ行くの?」
「おまえとサンドラの家だよ」
 完全に額に血管を浮かべた怒り顔でジーナがクルマを走らせていた。
 その隣りに座らされたサイドルは、後ろ手に手錠が掛けられ、シートベルトの下の体はイスから立ち
上がれないように縛り付けられていた。
「……なんか酷くない? この扱い?」
 そう文句を言えば、視線だけで人を殺せそうなジーナの睨みが向けられる。
「同意も得ずにいきなりキスするような男にはその姿がお似合いだ!」
「それはジーナが人のことを変態扱いしたお返しだよ。いいじゃんか、キスくらい。そうやってまたぼ
くをバイキン扱いしてさ」
 サイドルは返事を返してくれなそうなジーナから顔を反らすと、車窓の外に流れる景色を見ながら一
人口の中で不満を言い続けた。
 まるで子どもの反応をチラリと横目で見ながら、ジーナはサイドルの記録と記憶の全てを思い返した。
 今の年齢はおそらく19歳。何しろ出生届が出ていないので正確なことはわからなかった。ただサン
ドラの3歳下と考えればその年齢になる。
 まだ穴だらけのサイドルの記憶だったが、見せられたジーナも吐き気を催すようなものだった。
 母親は娼婦。その母親の客に兄サンドラが犯され、初めての殺人を犯す。それを一部始終見てきたの
がサイドルだった。
 その母は子どもを失ったあとも娼婦として生きていたが、痴情のもつれか、それとも仕事上のいざこ
ざか、9年前に30歳で路上で刺殺体で発見されている。
 たった2歳と5歳の子どもがここまでどうやって生きてきたのかを考えるとため息が出そうだった。
「あんたさっきのがファーストキスとか言ってたけど、その面でもてなかったわけ?」
 前を向いて運転したまま問えば、サイドルがつまらなそうに口を開く。
「もてたよ。ただし男にね」
「女には?」
 そこで首を振ったサイドルは悲しく微笑んだ。
「ダメなんだ。一度好きな女の子ができた。でも一緒にいるところをサンドラに見つかって、ボコボコ
にされた」
「サンドラに?」
「……ぼくがじゃない。女の子が」
「……」
 車中に沈黙が落ちる。
 サイドルの顔を見てジーナが衝撃に表情を消した。
 そのサイドルに前を指差され、赤信号に急ブレーキを踏む。
「サンドラは、女を憎んでる。ぼくには余り記憶にないけど、母さんが原因なんだろうね。女の喘ぎ声
に吐き気がするって言ってた。自分は売春の斡旋なんてするくせに。そんなサンドラがいつも側にいる
んだ。女の子はぼくに近寄れない。ぼくにおもしろ半分で手を出す男も、いずれバレればサンドラにぼ
こられる」
「……だから」
「ぼくがキスしたことがあるのはサンドラと、エリザベスと、ジーナ」
「……」
 青に変わった信号に車を発進させる。
 サンドラの弟への執着は相当のものだろう。
 5歳のときから共にあり、守り続けてきたのだから。
「子どもの頃も、金のために売春はさせられなかったんだろ?」
「うん。ぼくが女の人を引っ掛ける方が楽にお金稼げるだろうけどさ。男でも女でも引っ掛けて誘うの
はいつもサンドラ。そして隙をついてぼくが金をいただく。うまくいけば後ろからぼくが客の首を殴っ
て脳震盪起こしている隙に逃げ出す」
 そこまでして守ってきた弟を、サンドラは今どう思っているだろう? 死んだと思っているのだろう
か?
 いずれにしろ、その弟を撃った自分は相当に恨まれていることだろう。
「ねえ、どうやってぼくたちの家を見つけたの?」
 物珍しい景色を見るように窓の外の景色を見ていたサイドルが言った。
「君の記憶にあった景色と同じ場所をしらみつぶしに調べただけ」
「ご苦労さま」
「ふむ、それが仕事だからね」
 ジーナはそう言うと、車を路肩に寄せた。
「さあ、着いた。ここがおまえとサンドラのヤサだ」
 今にも崩れ落ちそうなコンクリートの塊に、魔の手のような蔦が絡まっていた。
「うまくいけば、サンドラの居場所にたどり着ける」
 つぶやくジーナの声を聞きながら、サイドルはまるでそれを阻むかのように手をのばす蔦をじっと見
つめていた。




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