第十八話



 頬を伝い落ちる生温かい感触に、サイドルは目を開けた。
 目の前に広がっていたのは、今の自分の気持ちとは正反対の酷く穏かで麗らかにゆれる緑の庭園の光
景だった。
 起き上がったサイドルは、手の甲で涙を拭うと、呆然とその景色に見とれた。
 広々とした芝生は、寝転がったら気持ちが良さそうに陽に輝き、風にユラユラと葉を揺らす木も、深
緑の息を吐き出していた。
 だが、何かに違和感を覚えてサイドルは立ち上がった。
 天井から壁までを覆ったガラスの部屋。
 そのガラスに手を付いて外を見る。
 爪がガラスに当り、コンと硬質な音を立てる。
 その音に、サイドルは違和感の正体を知った。
 音がしないのだ。
 まったく外部の音が聞こえない。
 風の音も、葉擦れの音も、鳥のさえずりも。
 防音された部屋の中では、まるでよくできた映画の風景を見せられているような気分だった。
 ドキンドキンと心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。
 別に何かに緊張して心臓が早鐘を打っているわけではない。
 ただ、まるで心臓が耳の中に移動してきたかのように大きく聞こえるのだ。
 自分の吸う息が気管を通り抜け、肺にをふくらまし、また吐き出される音まで聞こえる。
 その全ての現象に気味の悪さを感じてガラスの壁に背を向けた瞬間、いつの間に現れたのか、背後に
クレアが立っているのが目に入った。
 目があって微笑んだクレアが、小さく口を動かして言う。
「おはよう」
 まるで囁くような口ぶりなのに、声は普通に聞こえる。
「おはようございます」
 だが自分の発した声の大きさに、サイドルは面喰らって耳を押さえた。
 自分では普通の声で話しかけたはずなのに、すざまじく大声に聞こえた。
 そのサイドルの反応に、クレアは口を押さえて笑う。
 その反応に不快そうに顔を顰めたサイドルだったが、まあまあと手で宥めてくるクレアに「これは何
?」と自分の耳を示した。
「ちょっと待って」
 クレアは囁くと、白衣のポケットからリモコンを取りさした。
 ボタンを押すと、どこか遠くで機械が動き出すかすかな振動が伝わった。
 そして最初に感じたのは風だった。
 前髪を揺らす風が吹き込み、それに続いて鳥のさえずりが聞こえた。
 目を凝らしてみれば、天井部分から部屋を覆っていたガラスが左右に分かれて開こうとしているのが
分かる。
「サイドル、朝食はいかが?」
 クレアは背後に隠していたテーブルの前から退くと、セットされているトレイを示した。
「バタートーストと、ベーコンエッグ、サラダとコーンスープ。それからドクタークレア特性のフルー
ツジュース」
 どうぞとイスを示され、サイドルは仕方なしに席につく。
「これ、ドクターが?」
「そうよ。だって、あなたが起きたことはまだ上に報告してないし、わたしが動かないとあなたは死ん
だことになってるから朝食もなければ寝場所もないのよ」
「え?」
 なんともショッキングな事実をサラリと言われ、サイドルはジュースの入ったコップを落としそうに
なる。
「まあまあ落ち着いて」
 落としそうになったコップに笑われ、サイドルが咳払いをする。
「いろいろ説明が聞きたいんですけど」
「ええ。いいわよ。じゃあ、あなたは朝食を食べながら聞いてくれるわね」
 頷きつつ、サイドルはホテルの朝食のようなトレーの上の食事を見つめた。
「毒入ってないですよね」
 クレアならやりかねないと思った言葉に、スパンと頭が叩かれる。
「失礼な子ね」
 容赦ない攻撃に涙目になりながら見上げれば、笑顔のままのクレアがいた。
 そして「あら」と口に手を当てる。
「そういえば、あなたの脳内神経は出来上がったばかりで不安定だったわね。叩いて脳細胞死んじゃっ
たら大変」
 叩かれた頭を撫でながら、サイドルはこれ以上なにかされてはたまらないと、朝食に手をつけはじめ
た。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
 その様子をジッと見つめながら、クレアがはじめてみせる柔らかな女性らしい表情でサイドルを見て
いた。
「どう?」
「おいしいです」
 予想外にインスタントの味でない料理だった。
 本当にクレアが作ったのだろうか?
 この忙しそうで、非道なことを平気でしそうな女科学者が。
「わたしにも息子がいたのよね」
「いた?」
「死んじゃったから」
 サラリと天気の話でもするように言ったクレアを、サイドルはじっと見つめた。
「……それは……」
 次に継ぐべき言葉が見つからずに閉口するサイドルに、クレアは微笑む。
「いいのよ。ずっと前のこと。でも、あのまま大きくなっていたら、あなたみたいに大人になったあの
子とこうやって朝食を食べることもあったのかしら? なんて思っただけだから」
 どこか遣り残した心残りを抱える母親の顔だった。だがその顔が瞬き一つで科学者の顔へと入れ替わ
る。
「では説明しようかしら?」
 パンを齧りながら、サイドルが頷く。
「まず、この部屋についてね。ここは無音の部屋よ。人間は無音の状況に耐えるようにはできていない
のね。なんとか音を察知しようとする。そうやって普通に持っている通常以上の能力を使って僅かな音
を捉え始めるの。そうすると、もう今まで聞いていた音なんて爆音よね。いつもは聞こえないほどの心
臓の鼓動が聞こえる耳に、人間の声は大きすぎる」
「なるほど」
「でももう普通でしょ? 外界の音に触れた瞬間に、異常な能力は正常値へと戻っていく。人間の体っ
て不思議よね。
 で、その部屋にあなたを入れたのは、別に何かの実験だとかではないのよ。さっきも言ったとおり、
あなたが目覚めたことは上には報告していないの。そうでないとジーナとの捜査に出してやることが
できないから。そうなると、当然のごとくあなたの居場所がないのよね。それで普段は人の立ち入らな
い、それでいて長時間入り込もうなんて誰も思わないこの部屋に、あなたを案内したってわけ」
「ありがたいことです」
 恨めしい目で見ても、クレアはただニコリと笑うだけだった。
「次に、あなたの脳内のことなんだけど」
 口に運びかけた卵の黄身が割れてお皿の上に流れ出す。
「ああ、もったいない。ぼく黄身が好きなのに」
「だったらパンで拭って食べればいいじゃない」
「ああ、そっか」
 固い話の間にバカな話を交えながらも、何の違和感もなく話が進んでいく。
「まだ脳内のネットワークは完璧とはいかないの。たぶん、思い出せていないこともおおいはず」
「……そうなのかな?」
「では、あなたの住んでいた部屋の住所は?」
「住所? ……えっと、……部屋の前に郵便ポストがあった。……自動販売機は壊れてるから殴ると出
てくる……えっと、あれ? まわりの景色は分かるのに、地名が……」
「ね、これからもまだまだ分からないことが出てくる。でもそれを学習することで新たなネットワーク
を自分の力で作り上げていくことができるのよ」
「……いままでぼくのしてきた努力が消えた気分」
「でも体は覚えているものよ。だから一から学ぶよりもはるかに早くいろいろなことを習得できるはず」
「……そうなんだ」
「それから、夢という形で取り戻すものも多いはず。寝るという行為は脳内の記憶の整理にもなるから。
脳が自ら記憶の引き出しをこじ開け、記憶を並べ替えたりしまったりするの」
 そう言ってクレアはサイドルの目尻についた涙の痕を指で示した。
「何か、夢を見た?」
 サイドルはそれに肩をすくめながら、聞かないで欲しいという態度で頷いた。
「ごちそうさま」
 フォークをトレーに戻し、サイドルは律儀にクレアに頭を下げる。
「おいしかったです」
「そう、それはよかったわ。じゃあ、食後のお注射ね」
 クレアがそう言って足元に置いていた銀のトレーを取上げた。
「え? 本気で?」
 その上にあるやけにデカイ注射器と黄色い薬液に、サイドルが逃げ腰になる。
「本気です」
 注射器を構えて先端からチューっと液を押し出すクレアがニコリと笑う。
「さあ、お尻を出して?」
「ええ?! 尻?」
「そう」
 思わず後退りしてガタっとイスを鳴らしたサイドルに、クレアが迫る。
「さあ、観念しなさい」
 そしてサイドルを寝ていたソファーの上に押し倒すと、その背中に膝を乗せて押し潰す。
「いや〜、痛い痛い。クレアの膝が痛い」
「それでお注射の痛みを拡散させてあげるのよ」
 ずるっとズボンを引き下ろし、ブツっと針を突き立てる。
「ぎゃー!! 痛いよ!」
「大の男が叫ぶな。だいたいヤクの注射は打てるんだろ!」
「ぼくは薬なんてやってないもん」
 叫ぶサイドルにクレアが笑う。
 だが、次の瞬間に、クレアの顔から笑みが消えた。
 ポケットの中から小さな注射器を取り出し、そっと細い針とつき立てた。
 だが最初の注射の痛みに比して小さな痛みに、サイドルは気付かない。
 手早くその針をしまうと、クレアはサイドルの上から降りた。
「はい、お注射はおしまい」
 パンとサイドルの尻を叩いて立ち去っていく。
「何の注射?」
「ただのビタミン剤よ」
 サイドルの食べ終えた朝食のトレーを持って去っていくクレアの背中を見送りながら、サイドルは痛
みを訴える背中と尻を、ガラスに映して涙目で眺めるのであった。



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