第十七話



 バタンとしたドアの音に、サンドラは目を覚ました。
 足元には弟のサイドルが丸まって寝ていた。
 今の音は恐らく母親が外へと遊びに出て行った音だ。
 サンドラは足に巻きついている弟の手をほどくと、隣りの部屋をドアの隙間から伺った。
「にいたん?」
 途端に目を瞑ったままの弟がぐずりだすのを感じて、声をかけた。
「ここにいるよ」
 サイドルが指を吸いながら、眠そうな目をトロンと開ける。
「ママ出てったからな」
 分かったのか分からないのか、寝ぼけた顔で弟が頷く。
 サンドラは隣りの部屋の人の気配がなく、静まり返っているのに気付くと大きくドアを開けた。
「サイドル、ごはん食べよう。こっちへおいで」
 だるそうに起き上がったサイドルが、サンドラに続いて部屋を出た。
 丸一日ぶりの水以外の食事の予感に、サンドラははやる気持ちで冷蔵庫を開けた。
 だが入っているのは母親のビールと、いつ入れたのか分からない腐ったトマトと干からびたニンジン
だけだった。
 怒りに任せて冷蔵庫を閉め、母親のベットの横の引き出しを漁る。
 いつも母親が金を隠している場所だった。
 だがそこには1セントたりとも残っていなかった。
「あのクソババア!」
 サイドルは引き出しを足元に叩き落とすと頭を抱えた。
 あの母親は、子どものために何一つ残さずに遊びに出てしまったのだ。
「何がおまえたちのために体を売ってるだ。自分の遊ぶ金欲しさと趣味じゃねえか!」
 サンドラの剣幕に、後ろで立っていたサイドルが怯えた声を上げ、ひきつけのような声を上げる。そ
してそれがあっという間に泣き声に変わる。
 それを振り返って見ながら、サイドルは情けない顔で俯くだけだった。
 お腹を空かせた弟のために食べ物を調達することもできずに、一緒になって泣いていたい気持ちにな
る。
 ひとまず水だけは文句言われることなく飲めるのだが。
「サイドル。水飲もうか?」
 火がついたように泣くサイドルは、涙と鼻水を撒き散らしながら、嫌々と頭を振る。
「お腹すいた。……水なんかいらない」
「……そんなこと言ったって……」
 金がなければ何一つ買っては来れない。
 サイドルの頭を抱えて途方にくれたときだった。
「おーい。いるか?」
 一人の男が、アパートのドアを開け、玄関に下がった玉飾りのすだれを手で押しのけた。
 その男とサンドラの目が合う。
「おい、母ちゃんはどうした?」
「……出かけた」
「チっ。すれ違いか。客を待たせるだけ待たせて、自分は遊びに行っちまうたぁ、客を何だと思ってる
んだか」
 舌打ちした男だったが、さして気分を害した風もなく家の中を覗きこむと、泣き声を上げる子どもと
それを宥める子どもに目を向けた。
「坊主、どうした。弟はえらい剣幕で泣いてるじゃねえか」
「……お腹が減ってるんだ」
「腹が減ってる? ……なんか食わせてやればいいじゃねえか」
「……何もない。……金も母さんがみんな持って行っちゃって」
 情けない思いで呟けば、男があれも困った女だと頭を抱える。
 それから再び二人に目を戻す。
 そしてサンドラの顔をじっと見ると、好色そうな笑みを浮かべた。
「……弟のために金を稼がねえか?」
「……ぼくが? どうやって?」
 男は笑顔で一歩アパートの中に足を踏み込む。
「なーに、簡単なことだ。母ちゃんと同じことをするだけだ」
「え?」
 ぼくは男で……。
 だが次の瞬間、理解した事実にサイドルを抱えたまま後退さった。
「ぼく、できない……」
「だったら、弟でもいいんだけど?」
 鼻を垂らした顔でキョトンと見上げてくるサイドルを背に隠し、サンドラはかぶりを振った。
「……俺は母ちゃんにもむげにされ、怒ってるんだよな。これでも母ちゃんの常連客だ。これを機にも
う母ちゃんとおさらばしてもいいんだぜ。そしたら母ちゃんも怒るだろうな」
 男が玄関の柱に揺りかかり、手持ち無沙汰そうに足でそこに転がる小さな靴を蹴る。
「なに、ほんの数十分我慢してれば終わる。それでうまいもんたらふく食えるだけの金をやろうってい
うんだぜ」
 男の声を聞くだけでも体が強張り震えが始まる。
 何度か目にした男の下になった母の姿。
 あれほどおぞましいものはないと思っていた。
 まるで人間であることをかなぐり捨てた本能丸出しの、みっともない顔で喘ぎ、息を乱し、腰を振り
続ける。
 だが同時に、背中を握る弟の温かく小さな手の感触も感じていた。
 今はお腹がすいたと騒いではいないが、途切れることなく盛んに腹の虫が鳴いていた。
「……本当に金くれるのか?」
「ああ。なんなら前金で半分やるぞ」
 そう言って部屋の中に上がりこんできた男がサンドラの手に、何枚かの紙幣を握らせた。
 それを見下ろし、サンドラはゴクっと唾を飲んだ。
 これで飯が食える。サイドルにも好きなものを食べさせてやれる。
「じゃあ、決まりだな」
 男はそう言うと、サンドラの体を抱き上げた。
 それを呆然と見上げたサイドルに、男が破顔してみせる。
「ぼくちゃんは、あっち向いてな」
 サンドラがベットの上に横たえられ、覆い被さる男の下で歯を食いしばる。
 サイドルはそれを大きく見開いた目で見つめていた。
 男がサンドラの身につけていた服を片っ端から脱がせていく。
 そして犬がその体を貪るかのように音を立てて舐め始める。
 嫌そうに顰められた顔も抱えられ、音を立てて舌を吸われる。
 それだけで咽たサンドラが顔を背けようと暴れた。
「オエ……息がで…できない」
 だが男は抵抗を許さずにサンドラを抑え込む。
 サイドルは見たことのない、兄の涙を見た。
 男の顔や胸を殴っていた手が次第に諦めに振り上げられなくなる。
 そして男はサンドラの体をおもちゃでも扱うようにひっくり返す。
 そして性急に自分のズボンのベルトを外す。
「ちょっと我慢すれば終わるからな」
 男はそう囁くと、サンドラの腰を抱えて覆い被さった。
 だがその次の瞬間、サンドラの口から悲痛な叫びが上がった。
「ああああぁぁぁぁ……やめて! 痛い、痛いよ……ぎゃぁぁぁ」
 ベットの上で身を捩って叫ぶサンドラが、泣き叫んだ。
「我慢しろ! あと少しだ」
 男は暴れるサンドラをベットに押し付け、狂ったように腰を振る。
 だがその動きが不意に止まった。
「あ?」
 男はわき腹に感じた違和感に目を落とした。
 ズボンがだらしなく下がって、弛み始めた腹が目に入った。
 その腹のふくらみの横に、ナイフが刺さっていた。
 そのナイフの先には、男を見上げたサイドルがいた。
「にいたんを……いじめるな……」
 男は自分が刺されたことに気付くと、手の甲でサイドルを殴り倒した。
「チビのくせにふざけたことをしくさる」
 叩かれたサイドルが、鼻血を出して泣き叫ぶ。
 それを怒りに沸騰した目で見下ろした男がいた。
 男がサイドルに向かって手を伸ばす。
 それを見てとった瞬間、サンドラが動いていた。
 男の腹の刺さっていたナイフを強く蹴った。
 肉の中で勢いよく動いた切っ先に、男が悲鳴を上げる。
 切り裂かれた腹を抱えて蹲る。
 その傷からボタボタと血が溢れ始め、締め切った部屋に鉄さびに似た匂いが充満し始めた。
 サンドラはその匂いに狂ったように蹲った男の頭を踏みつける。
「この変態野郎!」
 何度となく振り下ろされる足の下で男の頭皮が出血を始め、裸のサンドラの体にも飛び散る。
 サンドラは男の体をベットの上で上向かせると、濁った目で自分を見上げる男に笑って見せた。
 そして男が手にしていたナイフに手をかけると、力を込めて抜いた。
 抜いたナイフとともに血が噴出し、サンドラの顔に噴きかかる。
 その血を浴びてナイフを握ったサンドラが、纏わりつく血に顔を振って振り払う。
「てめえなんかこうしてやる」
 サイドルは男の腹の上に飛びのると、自分に屈辱と激痛を与えた男の物を握った。
「何を…」
 力なく呟いた男が、次の瞬間絶叫した。
 ナイフは男の一物を切り取り、投げ捨てられる。
 泡を吹いた男が気絶する。
「これで悪さはできないだろ?」
 おもしろそうに呟いたサンドラだったが、泣き声さえ凍らせたサイドルに気付くと顔を強張らせた。
 暴力に酔った陶酔の顔から表情が消え、次に現れたのは傷つき震える子どもの顔だった。
「……サイドル……」
 サンドラの目から大粒の涙が零れ落ちた。
 そのままベットの上に蹲るサンドラに、サイドルが歩み寄った。
 そしてその手を握る。
「にいたん。にいたん」
 いたわるように手を撫でる弟に、サンドラは顔を上げると、泣き声を上げたまま笑顔を浮かべた。
「一緒に逃げよう」
 サンドラの言葉に、サイドルは無言でその顔を見ていた。
 だが兄の手を握ると、ニコっと笑った。
「うん。にいたんと一緒にいる」
 こうして始まった兄弟二人の逃避行。
 その後、母親がどうなったかも知らない。
 ただ、二人で悪に手を染めながらも生きてきたのだ。



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