第十六話


 サイドルはファイルを捲る手を止めて一枚の写真に見入った。
 自分の腕をとって歩くサンドラの写真だった。
 いつの間にこんな写真を撮られたのか。だが傍目から自分たち兄弟を見ることのなかったサイドルは
写真をじっと見つめた。
 いい大人になった自分が、人相が悪い兄に腕をとられて大人しくついて行っている図は、なりが大き
くなっただけで、子どものころから全く変わっていないのかもしれない。
 いつもたった3歳しか違わない兄の背中に隠れて守られていた。
 サイドルが覚えているもっとも古い記憶が、恐らく自分が2歳、サンドラが5歳の記憶だった。



 サイドルは床を這う黒い流れに興味津々だった。
 蠢く黒い線は、蟻の群れだった。
 家の中に入り込んだ蟻が、部屋を横断し、床に零れた何かを運び出していた。
「にいたん」
 サイドルは指で蟻の群れをつまむと、背後の壁で蹲っていた兄サンドラにかざして見せた。
 だがサンドラは頭を抱えて座り込んでいるばかりだった。
 何かから逃げようとしているように、耳を塞いで。
 その様子をキョトンと見ていたサイドルは次の瞬間に、指先に感じた激痛に叫びをあげた。
「にいたん、アリが」
 だがその叫ぶ口をサンドラが両手で抱えるようにして塞いだ。
「アヒアヒ」
 涙目で指を示せば、サンドラが手の先から蟻を叩き落とした。
 そうしながらも、サンドラが意識を送っているのは隣りの部屋の気配だった。
 隣りの部屋から聞えてくるのは、絶え間ない女の艶かしい喘ぎ声と、ベットの軋む音だった。
 女の声は、母の声であった。
 体を売って生活を成り立たせている母は、毎日何人もの男を家に連れ込み、その度にサンドラとサイ
ドルの兄弟はたった3畳ほどの小さな部屋に閉じ込められるのだ。
 サンドラは隣りの部屋の音が途絶えないことに緊張を緩めると、サイドルの口から手を外した。
「サイドル。この部屋では音を立てちゃダメだ」
 小声で言われて、サイドルは分かっているのかいないのか分からない顔で頷いた。
 そしてサンドラの顔を見つめた。
「にいたん、喉渇いた」
 サンドラはそれに頷くと、部屋の隅に転がったマグカップを手にした。
 そこに水をつめたペットボトルから少しばかりの水を注ぎ、弟に手渡す。
 それを尖らせた口で飲み干したサイドルが、顔が垂直に上がるほどにマグカップを傾ける。
 それからもう出てこない水に、サンドラをじっと見た。
「もうない」
「そうだ。今はそれだけだ」
「もっと」
「ダメだ。またあとで喉渇いたときに、無くなっちゃうから」
 だが途端に口を尖らせ、サイドルが泣き顔になる。
「やだ〜。もっと飲みたい」
 そして次第に大きくなっていく声に、サンドラが再び口を手で覆った。
「わかったから」
 そうしてしぶしぶとマグカップに水を注いでやる。
 もう残り少ない水に、サンドラはため息をつき、自分も水を飲みたい衝動を唾をのんで耐えた。
 隣りの部屋から、喘ぐ声が途切れ僅かに衣擦れの音がしていた。
 客はことが済みさえすれば、金を払って帰っていく。
 西日ばかりが差し込み、夜には男と女の痴話喧嘩の声とネオンの光が差し込む部屋にばかり閉じこも
っているのには嫌気がさしていた。
 ぼそぼそと聞こえる話し声の後に、部屋の横切る足音が聞こえ、ドアが締まる音。
 サンドラは水を入れるペットボトルを手に取ると、そっと部屋の外を覗いた。
 寝乱れたベットには誰もいない。
 濃厚に篭った熱気と匂いに顔を顰めながら、形ばかりの玄関で男を見送っている下着姿の母の背中を
見る。
 サンドラはそっと部屋が横切ると、水道に近づいた。
 ペットボトルに水を足し、部屋に戻ろうとしていた。
 だが背後に立った人の気配に、ペットボトルから水を溢れさせたまま振り返った。
「母さん」
 口紅が顔にはみ出し、黒いマスカラが目の周りに滲んだ顔に、恐怖を与えるばかりの笑みが浮んでい
た。
「サンドラ、誰の許可で水を汲んでる」
 背後から伸びた手に、叩かれることを予想したサンドラが目を瞑る。
 だがその手は出っ放しの水道を止める。
 止まった水の流れる音に目をあける。
 だが目を開けた瞬間に眼前に迫っていたのは、母親の手の平だった。
 正面から打ち据えられた顔が、大きな音を立てる。
「ウウ……ア」
 鼻を潰され、どっと流れ出した鼻血の感触に、サンドラがうめき声を上げた。
「誰が働いたおかげで水だって飲めると思ってるんだい。泥棒ネコみたいにかすめとっていく態度が気
に入らないね」
 サンドラは鼻を手で押さえながら、上目遣いに立ちはだかる母を見上げた。
 まだそう年ではないはずの母親の顔が、酷く年老い醜く見えた。
「なんだい、その反抗的な目は」
 サンドラは母親から目を逸らすと、手の甲で鼻血を拭い、立ち上がった。
「水を……」
「あ?」
 タバコに火をつけながら、母親がサンドラを睨む。
「水をください。サイドルが欲しがっているから」
 プライドをかなぐり捨てて言えば、ため息まじりに水をつめたペットボトルが足元に投げられる。
「その水だって、わたしが男と寝て稼いだ金で飲めるんだ。感謝しな」
「はい。ありがとうございます」
 サンドラが3畳の小さな部屋に戻っていく。
 その様子をドアの隙間から小さな弟が覗いてみていた。
 サンドラは弟を押しのけ、部屋の中に入ると、また元いた壁際の定位置に戻る。
「……ごはんは?」
 小さく呟くサイドルに、サンドラが足の間に突っ込んだ顔を左右に振って答える。
「ママがどこかに出て行ったらな。探してやるから。それまで待て」
 力なく呟くサンドラの横に寄り添うと、サイドルは兄の足を抱えて親指を吸った。
「うん」
 苛立ったように胸のポケットのボタンを弾く兄の手を見つめながら、サイドルは空腹を抱えて眠りに
ついた。




back / top / next
inserted by FC2 system