第十五話



 ジーナはサイドルの前に一枚の写真を差し出した。
 そこには笑顔を弾けさせたジーナと、もう一人笑顔の美人な金髪の女性が映っていた。
「この人は?」
 サイドルは写真を手に取ると聞いた。
「エミリー・ジョーンズ。わたしの高校時代からの親友だった」
「だった?」
 気にかかった過去形にサイドルがジーナを見上げれば、彼女は悔しげに唇を噛みしめていた。
「殺されたのよ」
 この国ではいくらでも殺人は起こる。それこそ数秒に一人の割合で人が死んでいくのだ。だが、まさ
か自分の身近で人が殺されるなどとは誰も思ってないのだ。
 突然愛すべき人が、悪魔の鎌に首を掻き切られた衝撃は、誰にとっても受け止めきれない衝撃を与え
るのだ。
 サイドルは写真の中の笑顔を見下ろし、もうこの世には存在しない命を思った。
 こんなに幸せそうに生きる喜びを振りまいていた人が、もうこの世にはいないのだ。
「殺されたって……どうして」
「彼女はヘイワード上院議員の秘書だったの」
「……エリザベスのお祖父さんの?」
「ええ」
 苦渋を滲ませた声で見上げられたジーナの目が、サイドルに何かを訴えかけていた。
「まさか……」
 サイドルは頭を過ぎった考えに一瞬言葉を失った。
 だがその先をジーナは語ることなく、じっとサイドルの顔を見つめるだけだった。
「エミリーを殺したのは……サンドラ?」
 兄がどんな仕事をしていたのかはある程度は知っていた。
 麻薬の売買に売春の斡旋。そして時には殺しも請け負っていることを。
 その依頼の一つがエミリー殺しであったことも考えられる。
 ジーナはファイルから資料を取り出すと、サイドルの前に投げた。
 そのファイルに載っていたのは、不機嫌な顔で映るイアンの顔だった。
 短髪をツンツンと立てた、今回の仕事が終わり次第報酬としてサイドルを抱くと言っていたあの男。
 サンドラにも対等に口をきく男だ。
 常に単独で動くサンドラがこのところよく使っている男だった。
「イアンが?」
「エミリーは絞殺される前にレイプされていた。そのときに残っていた体液の一つがこの男のDNAと
一致している」
「……イアンは?」
「おまえを撃ったあの時に死亡した」
 ジーナがエミリーの仇をとったということか。それが故意であろうとなかろうと。
「大方の意見がただのレイプ及び殺人事件だった。そして捜査はあっけなく終了となった。だが、これ
がただの殺人事件でないことはわたしが知っていた」
 ジーナの声は冷静だった。だがその目と握り締めて震えた手が怒りと自責を伝えていた。
 知っていながら助けることができなかった後悔と、公然とまかり通っている悪への憎悪。
「エミリーはヘイワード上院議員が行っていた海外との麻薬の取引を告発しようとしていた」
「……」
 サイドルは、予想もしていなかった大きな話にあ然としてジーナを見るばかりだった。
「だったら、サンドラに殺しを依頼したのは」
「そう、ヘイワード上院議員」
「……証拠が?」
 だがこそでジーナは悔しさを滲ませ顰めた顔で首を横に振った。
「サンドラに直接依頼を持ちかけた男からの証言が取れたところで、その男が消された」
 これはサンドラを恐れるなんて規模の問題ではない。
 一介のチンピラのもつ力なんて、国家の持つ力とは比べようがない。
「ジーナのしている捜査って」
「単独よ。相棒は手伝ってくれてはいるけどね」
 ジーナはこともなげに言うと、捜査資料の束をサイドルの前に差し出した。
「今までの捜査状況は纏めてある。明日から捜査に同行してもらう。頭に入れておいて」
 まだ多くの謎に疑問だらけだったが、サイドルは頷くと資料を開いた。
 殺しを依頼したのがヘイワード。それを請け負ったのが、サンドラ。
 それならなぜサンドラはヘイワードの孫、エリザベスを誘拐したのか?
 たしかあのとき、イアンは汚い仕事をさせて仲間を消したと言っていたはずだが。
 サイドルは資料から目を上げると、思いを巡らせた。
 エリザベスは今ごろどうしているのだろう?
 幼い少女が今置かれている状況を思い浮かべるだけで、胃の底が焦げ付くような焦燥にかられる。
 サンドラは、エリザベスを大事に扱うとは思えない。
 ただサンドラに犯される心配だけはないのだが……。
「助けに行くからね、待ってて」
 サイドルは頭の中で不安な顔でいるエリザベスに言うと、ファイルを読み始めた。



 サイドルを後に残し部屋を出たジーナは、ドアを閉めた途端に大きく息を乱し化粧室に駆け込んだ。
 はあはあとつく息は荒く、冷や汗が額を伝った。
 クレアに渡されていた薬を口に放り込み、水で流し込む。
 そうしておいて誰にも見られないように個室に入り込み、そのまま壁にもたれて蹲った。
 サイドルの前では平静を装ったが、実際はエミリーの死を受け入れられていないのは自分だった。
 エミリーの死体の第一発見者がジーナだった。
 あのときの映像を思い出すだけで、過呼吸の発作を起す。
 凄惨な現場と、むせ返る血の匂い。
 あの日、ジーナは彼女に送るプレゼントを抱えていた。
 ピンクの包みの中に入っていたのは、白いレースに縁取られたマタニティードレスと、赤ちゃんに着
せるベビードレスだった。
 普段はシックな装いのエミリーへの、ちょっとした悪戯心と祝福を込めた贈り物だった。
 妊娠したと告げてきたエミリーに、ジーナは祝福を述べることができなかった。
 それがヘイワード議員との不倫の末にできた子どもであることを知っていたからだ。
「あんな性悪の爺の子どもなんて産んでどうするのよ。しかもあなたはそのおなかの子どもの父親を告
発するのよ」
 今でもそう言ったときに自分の声が脳裏に再現できた。
 ジーナにはエミリーの気持ちが見えなかったのだ。
 なぜあんな男を愛したのか、シングルとしてでも子どもを産もうとするのか、そしてなぜ愛した男を
告発しようとしているのか?
「あの人は性悪なんかじゃないわ。ただ、悪い渦に巻き込まれてしまっただけ。彼は苦しんでいる。だ
からわたしが彼のために、動けなくなった彼の代わりに一石を投じるのよ」
 晴れ晴れとした何の躊躇いもない美しい横顔だった。
 あれが恋する女の顔であり、母になろうとしている女の顔だったのかもしれない。
 エミリーがどれだけの真実を知り、どんな決意を秘めていたのかは、今はもう分かりようもなかった。
 ただ彼女はその決意のために惨たらしく殺されたのだ。
 ジーナの持っていった純白のドレスは血だまりの中で赤く染まった。
 恐怖に見開かれたエミリーの目。
 引き裂かれた服。
 強姦されたことを物語る手足の傷と乱れたベット。
 だが何よりもジーナを苦しめたのは、エミリーの下腹に刺さったナイフだった。
 エミリーの中に宿っていた命もろとも突き刺した鋼鉄の刃。
 ジーナは拳を握ると、トイレの壁を思い切り殴りつけた。
 大きな音を立てて凹む壁に、何度も何度も拳をたたき付けた。
 痛みがかえってジーナの心の痛みを麻痺させてくれた。
 エミリーの味わった痛みはこんなものではないのだ。
 いつの間にか自分の口から漏れていた嗚咽に、ジーナは頭を抱えると声を上げて泣いた。
 たった一言、生きているエミリーに伝えたかった。
 おめでとうと。
 いいお母さんになってね。わたしがいつまでも支えになるからと。
 だがもう、それを伝えられるエミリーはいなかった。
 手に残っているエミリーの感触は、死体安置質で触れた青白く冷たい感触だけだった。




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