第十四話



 最初に聞こえてきたのは、規則的な電子音。
 それが心拍を知らせる心電計の音だと気付く。
 体全体を風が駆け抜けていく。
 下瞼が引き下げられる。
 いきなりの目の中を照らす強い光。
「大丈夫ね。明暗反応もしっかりしてる」
 女の声が言った。
 あのずっと頭の中で指示を出していた、神なのか、悪魔なのかわからないと思っていた声。
 その声が呼ぶ。
「サイドル」
 目を照らす光が消え、顔をしかめたままサイドルは薄く目を開けた。
 そこにあったのは、一人の女の顔だった。
 聡明そうなやや表情の乏しい人形のような顔が、目をあけたサイドルの様子を伺っていた。
「この光を目で追ってみて」
 そう言って再び照らしたペンライトを左右に揺らす。
 サイドルはそれを目で追う。
「あなたの名前は?」
「……サイドル」
「お兄さんの名前は?」
「サンドラ」
「あなたが誘拐した女の子の名前は?」
「……エリザベス」
「OKよ」
 最後の言葉をサイドルではなく、誰かに向かって言った女医師を見ながら、サイドルは自分の額に手
を当てた。
 指先に醜く引き攣れているだろう傷痕が触れる。
 自分の頭を打ちぬいた弾丸の通った痕なのだろう。自分の目で確かに見たのだ。自分の脳漿が飛び出
ていく一瞬の映像を。
「あなたを撃ったのは判断ミスだったわ」
 別の女の声に、サイドルは手の陰から声の相手を見た。
 そこに居たのは、あの襲われそうになった自分を助け、エリザベスを助けに突入してきた女刑事だっ
た。
 自分の足と頭を拳銃で撃ち抜いたのも彼女だった。
 女刑事はサイドルの触れる額の手をそっとどけると、そこにある傷を見た。
「手元が狂った。それで許されるとは思わないけれど、修復ができてよかった」
 女刑事がそう言って目線を下へと下ろしていった。
 が、ある一点で視線の動きが止まり、次の瞬間には赤い顔で顔を背けた。
 女刑事がサイドルから離れる。
「あの、彼の検査はまだあるの?」
 変に上ずった声で言う女刑事が、背を向けたまま医師に尋ねる。
 ファイルに何かを書き込んでいた医師が顔も上げずに「ええ」と返事をする。
 だがその手が止まり、女刑事を振り返った。
 それからサイドルを見て、何かを納得したように頷いた。
「彼と話をするための別室をご用意しましょう」
 医師はファイルをサイドルの心電図を描くモニターの上に置くと、白衣を脱いだ。
 それをサイドルの目の前に突き出した。
「着なさい」
 サイドルは言われたままに白衣を手に取る。
 そして白衣を握った自分の腕を凝視した。
 至るところに薄い緑色にそまったゼリー状のものが付着していた。
 腕にも、胸にも。
 上体を起そうとしてふらつくのを、医師が支えてくれる。
「ゆっくりよ。まだ三半規管が、起き上がるという動作に対応しきれていないから」
 眩暈に顔を手で覆う。
 うっすらと開けた目に自分の腿が映る。
 右の腿に、貫通していった銃弾の痕があった。盛り上がり、肉が傷口を覆っていた。
 その足にも緑色のゼリーが付着していた。
 そして次の瞬間、サイドルは不覚にも叫び声を上げた。
 医師と女刑事の視線が集まる中で、上体を折り曲げて股間を手で覆う。
「な、なんで、なんで」
「全裸なのか?」
 言葉が続かないサイドルに変わって医師が続けた。
 うなずくサイドルに、医師が初めて笑顔を見せた。
「あなたが一度死んだからよ」



 患者のよく着せられる緑色の服を着て、サイドルは通された部屋で女刑事と向かい合った。
「……」
「……」
 気まずい沈黙が続く中、同席していた女医師が口を開く。
「性器なんて誰にも一つは付いているのじゃない。それが出ているか引っこんでいるかの違いであって、
別段異常なものじゃないわ。普段は服の下に隠されているってだけで、腕や顔とたいした違いはないじ
ゃない。何をそんなにとんでもないものを見たって顔してるのかしら?」
 まったく理解できないと表情一つ崩さずにいう医師に、刑事とサイドルが閉口した。
「医者の感覚と一緒にしないでくれる?」
「とんでもないもの露出させててすいません」
 肩身の狭い思いで萎縮して頭を下げれば、医師がプっと噴出す。
「別に好きで露出してたわけじゃないんだからいいじゃない。だいたいあなたを裸にしたのはわたしだ
し。ああ、だからといって好き好んでじっくり観察なんてしてないから平気よ。それに、ずっと保護膜
の中にいたからよく見えなかったし」
「保護膜?」
「緑色の粘液の中に沈んだ自分を見なかった?」
「ああ、あの怪物」
「傷を修復しつつ、もう一つの世界にあなたを投入させるには、あの保護膜が必要だったのよ。だから
君の体を観察する暇はあまりなかったな。見とけばよかったかしら?」
 本気で残念そうにサイドルの体を上から下まで見た医師に、サイドルは面食らって言葉をなくす。
 茶色の巻き髪が似合う美しい女性だけに、言葉と容姿のギャップに苦しむ。
「若い青年を弄ぶのはその辺にして」
 医師を自分でそういうと、女刑事に目を向けた。
「彼に事の顛末を聞かせないとね」
 呆れた顔で医師を見やっていた女刑事も、「そうね」と頷く。
「わたしの名前はジーナ。分かっているとは思うけど、刑事よ」
 差し出された手を握り、サイドルは頷いた。
「そしてそっちのお綺麗な先生が」
「ドクター・クレアよ。よろしく」
 こちらとも握手を交わしながら、サイドルはただただ何が起こっているのか理解できないままに流さ
れている気分だった。
「まず、あなたがこうして意識を取り戻すまでの経緯を説明しましょうか?」
 ドクター・クレアが言うと、女刑事ジーナが頷いた。
「あのさっき、ぼくは死んだって」
「ええ」
 事もなげに頷いたクレアに、サイドルは額の傷に触れた。
「ぼく、自分の頭から脳漿が飛び散るのを見ました」
「それは貴重な経験ね」
 笑顔で言われ、サイドルは引きつった顔で笑うしかなかった。
「そう、普通頭を撃たれて生きている人間はいないわ。でも、あなたは運が良かった。すぐにジーナが
心肺蘇生をさせたことと、脳の損傷が生命維持に係わる部分でなかったのが幸いした。事件の解決のた
めにも、重要な記憶を握っているであろうあなたをどうしても助ける必要ができた。体の蘇生には成功
した。問題はあなたの記憶よ」
 そこでクレアはサイドルの額の傷を示した。
「記憶野は銃弾による直接被害は受けなかったけれど、問題は出血によって虚血をおこしたことで記憶
野の神経網に死滅が起きていた。これはなんとしても再生させないとならなかった」
「そこで、あなたには、追体験をしてもらうことになった」
 クレアの後を継いでジーナが言った。
「わたしたちが収集した情報で世界を構築して、実際に起きた事件と同じ設定の虚構の世界の中にあな
たを投入してみた。それであなたの記憶が自動的に修復されるのを待った」
「それがあの、トニーやエリザベスとの」
 呟いたサイドルに、クレアが頷いた。
「人の行動パターンなんて、たくさんあるようでして、常に似た様な選択を繰り返す。一度右に行った
ことがある道は、人は常に右へと進んでいく。電車のドアの側に立つ人は、いつだってその位置に立っ
てしまう」
「あなたも追体験の中で、本来の自分を取り戻し、事件のあらましをわたしたちに教えてくれた」
「じゃあ、あれは全部本当にあったこと?」
 言いながら、サイドルにはどこか答えは分かっていた。
 あの今まで見てきた世界での自分には、確かにこれが自分の体であるという確信がもてない違和感が
ついて回った。
 だが今はしっくりと自分の魂が納まった感覚があった。
 これが自分の体。名前はサイドル。兄はサンドラ。犯罪グループの片棒を担がされながら、そこから
抜け出す努力もせずに生きてきた屑のような存在。
「エリザベスは?」
 サイドルはジーナを見ると言った。
 そのジーナの顔が曇る。
「エリザベスは今も行方不明。あなたのお兄さんと一緒にね」
「サンドラと?」
 自然と眉が顰められる。
 とても女の子と行動を共にさせておいていい存在ではないことは、弟の自分がよく知っていた。
 女という存在への歪んだ思い。愛するということを知らずにいる異常者。
「彼女を救い出したい」
 ジーナはサイドルをじっと見つめるといった。
「協力して。あなたの記憶と存在が、エリザベスに未来を与えられるかもしれない」
 真剣なその目に、サイドルは頷いた。
「できることは、何でも。ぼくも、エリザベスを助けたい」
 そして顔を伏せると言った。
「サンドラのことも」




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