第一章 初めてのお客様 





    
 慌てて山盛りの灰皿を片付けようとして、夏江は思い切り舌うちした。  あまりに芸術的バランスで重ねられていたらしい吸殻の山が、手で受け止める暇もなく崩れ
去る。 「あーー! くそ!!」  廊下で呑気に壁によりかかっているだろう香子を思い描き、夏江が頭を抱える。  香子がクライアントをキャッチしてくれたのはいいが、繊細そうなそのクライアントの少女
を連れていく事務所の中があまりに汚いことを思い出し、夏江が「ちょっと待っててね」
と二人を廊下に待たせて掃除をしているのだ。  なんで外で待たないといけないの? などと呑気に言う香子には、整理整頓という能力が備
わっていない。  化学の畑を生きてきた夏江には当たり前の、物を種類ごとにまとめるだとか、一つ一つ使い
終わったものは片付けるという概念が、香子には全くない。  雑誌だろうが、請求書だろうが、捜査資料だろうが、なんでも机の上に積み重ねてしまう。
ゆえに、常に、「あれないんだけど」と探し物をする羽目になる。そしてものを探すことも下
手ときては、人間としてどうなのだろうと心底心配になってくる。と同時に、そんな人間
をパートナーに選んでしまった自分の真贋のなさにも腹が立つ。  ひとまずゴミ袋にタバコの山を捨て、掃除機で散らばった灰を吸い取り、殺菌効果のあるハ
ーブビネガーでテーブルを磨きあげる。本来なら塩素で細菌も香子菌も瞬殺してやりたい
ところだが、かわいらしい女子高生を迎えるのには品のない香りが残る。  あとは邪魔な香子の私物はまとめて棚の奥に隠す。 「まだ終わんないの〜?」  事務所のドアの隙間から顔をのぞかせて言う香子に、声は出さずに『てめえの後処理してや
ってるんだろうが。くそビッチ!』と怒りを込めた視線を送る。  が、すぐに背後から顔をのぞかせたクライアントの少女に気付き、笑顔を取り繕う。 「待たせてごめんね。さぁ、入って」  手元のクッションの形を整え、ソファーを示して少女に座るように促す。 「今お茶入れるわね」  すっかり接客は夏江の仕事と決めつけて、ソファーに寝そべりそうな勢いの香子の腕を力任
せに掴み、キッチンの方をアゴで示す。 ―― 茶ぐらい入れられるだろ? あ?  無言の圧力を理解し、香子がキッチンへと面倒そうに向かう。 「コーヒーと紅茶とココアに煎茶。どれがいい?」  背中を向けたままに問う香子に、少女がソファーの上で恐縮した様子で「じゃ、紅茶を」と
返す。 「へ〜〜い」  返ってきたのは実に気の抜けた声だった。  探偵事務所としての威厳もなにもあったもんじゃない。  ため息を心の中でつき、夏江は少女の正面に座ってほほ笑んだ。 「わたしは桐生夏江と申します」  丁寧に挨拶をして名刺を差し出す。  それを両手で受け取りながら、少女がソファーの上で窮屈そうに頭を下げる。 「小川沙奈です」  とても聡明そうな美しい少女だった。そしてそれを鼻にかけて自慢げにしていないところが
夏江にも好印象だった。 「ストーカーにあっているっていう話だったけれど」 「はい。警察にも相談したんですけれど、実際に被害が出ていないから動けないって言われて」 「そうね。警察は事件が起こった理由や経緯は示してくれるけれど、事件を未然に防ぐという
方向の仕事にはむかないわね」  一応トレーを利用してお茶を運んできた香子が、テーブルの上にカップを並べていく。  ティーカップの柄の向きが逆だと文句をつけたかったが、来客用のティーセットを使ったこ
とに溜飲を下ろした。  が、直後にギョっとして目をむく。  テーブルの上に、ドンと音を立てて置かれた1リットルの牛乳パック。 「ミルクティーにしたかったら牛乳は自分で入れてね♪」  優しい気遣いのつもりらしい。 「そうね。うちの事務所の名前もミルクティーだしね」  夏江はフォローを入れたつもりだったが、沙奈は困った笑顔で夏江と香子を交互に見ている。 「ごめんなさいね。こいつは清水香子っていうんだけど、女だてらに捜査一課なんていうムサ
イところにいたもんだから、すっかり男化しちゃって、女らしさとか上品さとかいう大事
なものを全部どこかに落としてきちゃったのよ」  すっかり頼れる女探偵さんを演じることを諦めた夏江が、横に突っ立っている香子の尻を思
い切り叩く。  パーンといい音が響き、夏江と香子が同時に顔をしかめる。  叩かれた尻と、叩いた手が痛かったのだ。 「これでも、わたしたち元鑑識のエースと捜査一課の敏腕刑事だったの。だから安心して任せ
てね」  いい大人二人が演じる漫才に目を丸くしていた沙奈だったが、かえって緊張をといたのか、
自然な笑顔で頷いた。 「お願いします」  沙奈によるストーカーの情報はこうであった。  最初にストーカーの存在に気付いたのは、約半年前のことだという。 「朝、学校に行こうと玄関を出たら、花束が置いてあったんです。でも、花束っていうか、な
んというか」  それは小学生が学校帰りに道草しながら作る、文字の通りの花の束のようなものだったとい
う。 「たんぽぽとか、シロツメクサとかクローバーとか。そういう道に咲いているような花を、も
のすごくたくさん集めて、針金でまとめてあったんです」  沙奈が手で示した花の束の大きさは、直径10センチほど。確かにそれだけの量の野の花を
集めるのは、一種の執念を感じさせる。 「かわいらしい花束だって感じるよりは、ちょっと怖いなって感じで」  それから毎日、沙奈が行く先々のどこかに花束が置かれるようになったのだという。  最初は自宅の玄関。学校の正門の柵。友だちと出かけて行った本屋の平積みした本の上。 「それって、沙奈ちゃんの後を付け回しているってことよね」 「……たぶん」  恐怖感がよみがえったのか、いく分顔色を青くした沙奈が夏江の問いに頷く。 「なんか弱っちいくせに、ねちっこく付け回してくる辺りが、いかにもストーカーだよね」  香子が心底嫌そうに顔をしかめる。 「姿が見えない相手だからこそ、分からないという恐怖がついて回るわね」  人間の脳にとって、最大のストレスが『分からない』なのだ。だから正体不明のものに出会
うとパニックを起こす。  家の中にいる相手が誰かなのか分かっていれば、声を掛けられても、それは恐怖とは結びつ
かない。だが、自宅の中であってさえ、そこにいると予想していなかった相手に突然声を
かけられれば、飛び上がって叫び声を上げるほどびっくりしてしまう。たとえそれが母親
であってさえだ。  目で姿を確認し、それが母親であると脳が認識して初めて、パニックは終息する。  だが、ストーカーというやつは、気配だけを濃厚に残して行くのに、決してその姿を見せて
こない。いつまでたっても、それが誰なのか被害者には分からない。  実質的に危害が加えられてはいなくても、精神的に加えられている被害は、一秒一秒、人の
気配、音、視界を過る全てのものに恐怖して息すら殺していなければならない極限の拷問
の中にいるような、非常に大きなものなのだ。  誰かがその恐怖を理解し、側に守ってくれる人がいる安心感を持たせてあげなければ壊れて
しまう。 「大丈夫。わたしたちに任せて。明日から香子が沙奈ちゃんの警護につく。そしてわたしが、
隠れているストーカーの正体を暴きだしてあげるから」  夏江は自信をのせた力強い声で断言し、沙奈の真剣な目に頷いて見せる。  そして香子が紅茶を音を立てて飲み干すと、ダンと音を立ててマグカップをテーブルの上に
下ろす。 「そんな粗チン野郎は、このわたしが金玉ごと握りつぶしてやるからね」  なんとも頼もしい香子の断言に、沙奈は顔を赤くしながらも、「お願いします」と頭を下げ
たのだった。



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